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千の蕾  作者: 峯岸 昴
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第12話

 優しげな目元。微笑んだ時の小さな口元。髪型も着物もまったく違う。それなのに、美香と驚くほどよく似ていた。


 昨夜の夢が、まだ覚めていないのかと思った。


「……美香」


 気づけば、その名前が口からこぼれていた。


 女性は驚いたようにピタリと足を止める。


「え……?」


「新九郎!」


 佐吉の鋭い声が、耳元で弾けた。


「何をしておる! 頭を下げんか!」


「あ……」


 ハッと我に返り、慌てて周囲と同じように深く頭を下げる。

 佐吉も土下座に近いほど深く頭を下げたまま、震える声で口を開いた。


「千代姫様、誠に申し訳ございません。実は息子は、事故により記憶を失ってしまいました。村の者の顔も、これまでの出来事も、何一つ思い出せぬのでございます。どうかお許しください」


 千代姫と呼ばれた女性は、息を呑んで小さく首を横へ振った。


「謝る必要はありません」


 平民の無礼を責める色は微塵もなかった。あるのは、純粋な心配だけだ。


「佐吉。お医者様には診ていただいたのですか」

「……いえ、まだでございます」


 千代姫はすぐに後ろの侍女へ振り返った。


「志乃。すぐに城下の玄庵(げんあん)先生のもとへ使いを出してください。私からお願いしているとお伝えして」

「かしこまりました」


 侍女が小走りで奥へ消える。


 呆然と見つめていた。初めて会ったはずの自分を、ここまで真剣に気遣ってくれる。いや――違う。この千代姫にとって自分は、初めて会う相手ではない。『新九郎』なのだ。


 佐吉は慌てて額が床に擦りつくほど頭を下げる。


「姫様、そのようなお気遣いはなさらないでくださいませ! 大工の倅一人のために殿のお抱えの医師をお呼びするなど、とても受けられる恩ではございません」


 この時代では、それほどまでに身分差が大きいのだと痛感する。

 だが、千代姫は穏やかな笑みを崩さなかった。


「佐吉。新九郎は、私にとっても大切な村の者です。見過ごすことはできません」

「姫様」


 低く、よく通る声が廊下に響いた。


 一人の武士が、音もなく静かに歩み出る。


  鍛え上げられた分厚い体躯に、隙のない立ち姿。鋭い眼光が一瞬だけ刃のようにこちらを射抜き、すぐに千代姫へ向けられた。護衛の伊兵衛だ。


「恐れながら、姫様。それはいけません。玄庵先生は、殿・一条義貴様のお抱えの医師。一介の大工の倅のためにお呼び立てするなど、前例がございません」

「伊兵衛殿のおっしゃるとおりにございます」


 佐吉も同調したが、千代姫はきっぱりと首を横へ振った。


「前例がないなら、私が最初になればよいだけです。新九郎が苦しんでいる姿を見過ごしたくありません。記憶を取り戻すきっかけになるなら、価値は十分にあります」


 伊兵衛は口を閉ざした。だが、視線は外そうとしない。何かを確かめようとしている。(……この人は、俺を疑っている) 気づかぬふりをして、目を伏せた。


 その時だった。


「――何を騒いでいる」


 静かで、重低音のような声が落ちた。


 その一言だけで、空気が一瞬で氷点下まで張り詰める。佐吉がサッと顔色を変え、慌てて平伏した。伊兵衛もその場に膝をつく。


「殿! お騒がせして申し訳ございません」

「新九郎、頭を下げろ!」


 佐吉の悲鳴のような声に、慌てて膝をつき深く頭を下げる。


 威厳に満ちた足音が近づき、前で止まった。この藩を治める当主――一条義貴だ。年の頃は五十前後。静かな佇まいだけで、周囲のすべてを支配する絶対的な威厳が漂っていた。


「千代、どうした」

「新九郎が記憶を失っております。玄庵先生に診ていただきたく、お呼びしようとしておりました」


 義貴は、平伏するこちらへ静かに視線を向けた。怒っているのか哀れんでいるのか、表情からはまったく読み取れない。


「そうか。記憶を失ったというのは、まことか」

「はい。村の者も皆、以前とはまるで別人のようだと申しております」


 佐吉の震える声に、義貴は頷いた。


「玄庵に診せよ」

「殿。お抱えの医師を大工の倅に……」

「医師の務めに、身分の上下はあるまい」


 伊兵衛は言葉を飲み込み、頭を下げた。


「ありがとうございます、お父様」


 千代姫がほっとしたように微笑む。


 義貴は再びこちらへ視線を向けた。相変わらず穏やかな眼差しだったが、ほんの一瞬だけ、背筋を這い上がるような薄ら寒いものを感じた。


 義貴は佐吉へ向き直る。


「佐吉、玄庵が来るまで新九郎は城に留め置け。無理に記憶を戻そうとはするな。まずは身体を休ませよ」


「ははっ」


 踵を返そうとする父の背中に、千代姫が小さく声をかけた。


「お父様。……玄庵先生がお見えになるまで、私、新九郎と二人きりで話がしたいのです」


 佐吉が弾かれたように顔を上げる。伊兵衛が一歩前へ出た。


「殿、お許しなされませ! 姫様と平民の男を密室で二人きりにするなど、護衛として見過ごすわけにはまいりません」

「伊兵衛殿のおっしゃるとおりにございます!」


 しかし、千代姫は真っ直ぐな瞳で父を見つめた。


「新九郎は何も思い出せないと言っていました。幼い頃から一緒に遊んだ私と話せば、何か思い出すきっかけになるかもしれない。……お願いです、お父様」


 義貴はしばらく見つめ返していたが、やがて小さく頷いた。


「……よかろう」

「殿!」

「部屋の外には、伊兵衛、お前と佐吉が控えよ。襖一つ隔てた場所であれば、何かあればすぐに駆けつけられるはずだ」



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