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千の蕾  作者: 峯岸 昴
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第13話

 絶対の命令に、伊兵衛は不満げに口元を歪めながらも深く一礼した。

 千代姫はパッと花が咲いたように微笑み、振り返る。


「新九郎、こっちよ」


 状況が飲み込めず戸惑いながらも頷き、艶やかな背中の後を歩き出した。


 案内されたのは、庭園を望む静かな和室だった。侍女の志乃がお盆を運び、湯気の立つ茶を置く。


「ありがとう、志乃」


 侍女が一礼して部屋を出る。 襖が閉まった、その瞬間だった。


 千代姫はふっと肩の力を抜き、くるりとこちらを向いた。そして、気品ある姫君の顔をかなぐり捨て、いたずらっぽく無邪気に笑った。


「ねぇ、新九郎。そんなに固くならなくていいってば」

「……え?」


 凛とした姿とはまるで別人だった。思わず目を丸くする。


「えっ……でも……」

「人前では『城の姫』なんだから、ああしてるだけ。ここにはもう、小言を言う佐吉も、怖い伊兵衛もいないんだから」


 両手を後ろで組み、少しだけ体を傾ける。


「昔みたいに親しく敬語なしで話そうよ。そしたら記憶も戻るかもしれないし。それに私、昔のそっちの新九郎のほうが好きなんだから」


 その無邪気で裏表のない笑顔に、思わず肩の力が抜け、小さく吹き出してしまった。


「……わかった?」


 自然と、現代の自分の言葉が口からこぼれた。


「そう?じゃあ、そうするよ」


 その瞬間、千代姫の目が大きく見開かれた。


「えっ……。いま……」

「え?」

「敬語じゃ、なかった」

「あっ……」


 ハッとして口を押さえた。記憶喪失とはいえ、殿様の娘に対してタメ口をきくなど、打ち首になってもおかしくない。


「すみません!つい……」


 しかし千代姫は、ふわっと花が咲くように嬉しそうな笑顔になった。


「ふふっ。そう、そうそう!その話し方!」


 少しだけ潤んだ瞳で見つめてくる。


「子どもの頃の新九郎、そのままだ」


 畳の上をにじり寄り、顔を覗き込んできた。


「大きくなってからは、ずっと『千代姫様』『です』『ます』ばかりだったし……。何度『昔みたいに話して』ってお願いしても、『もう子どもではありませんから』って笑ってごまかされちゃって……」


 ふっと頬を膨らませる。


「それに、急にお城にも来なくなったでしょ? だから私、新九郎に嫌われたのかって思ってたんだから」


 拗ねたような声。本気で怒っているわけではないのだろうが、年頃の娘そのものだった。


「いや、それは――」


 反射的に否定しかけ、口を閉ざす。俺は何も覚えていないことになっているのだ。


「……ごめん。やっぱり、覚えてないんだ」

「あ……そうだったね。ふふっ。新九郎が悪いわけじゃないでしょ」


 すぐに満面の笑顔へ戻る。


「だから……なんだか、すっごく嬉しい!」


 幼馴染と話す、ただ一人の女の子の笑顔。その裏表のない表情に、つられて笑みがこぼれた。


「そんなに嬉しいの?」

「うんっ! だって、昔の新九郎に戻ったみたいなんだもん」


 そう言うと、今度は心配そうに見つめてきた。


「ねぇ……本当に、何も覚えてない? 私のことも?」

「ごめん」

「そっか。……じゃあ、また仲良くなればいいだけだね!」

「え?」

「一から友達になればいいだけでしょ? 思い出せないなら、今からまた新しい思い出を作ればいい」


 その無邪気な笑顔に、胸の奥がじんと熱くなる。

(――美香も、こんなふうに笑っていたな) 目の前にいるのは美香ではない。それでも、その真っ直ぐな優しさは、孤独な異世界に放り出された自分にとって、救われるような温かさがあった。


「あっ、そうだ。新九郎、子どもの頃の約束、覚えてる?」

「だから、何も覚えてないってば」

「あっ……そうだった。つい、昔の新九郎と話してる気分になっちゃった」

「ごめん。せっかくの約束なのに」

「謝らなくていいよ。でもね、私、あの約束を一日も忘れたことないよ」


 少しだけ真剣な声に、自然と表情を改める。


「そんなに大事な約束だったの?」

「うん。新九郎が言い出したことだから。私が泣いてたら、新九郎が木を削って、小さなお守りを作ってくれたの」


 千代姫はくすくすと肩を震わせた。


「でも、どう見てもただの乱雑な木の塊だったの。作ってる途中で指を切っちゃって、半泣きになりながら渡してくるんだもん」


 思わず吹き出した。キャンプ場で美香に隠した木彫りを思い出す。自分は失敗を恐れて見せようとしなかった。だが新九郎は、指を切ってまで作り、渡したのだ。


「でね。そのボコボコの木のお守りを渡しながら、『俺がちよを守る!』って、すっごく格好つけて言ってくれたんだよ」

「へぇ……そんなこと言ってたんだ」

「でもね、剣術なんて足軽の子よりもずっと弱かったの。『守る』なんて言うくせに、木登りから落ちそうになったり、いっつも私が助けてたの」 「それじゃ、全然守れてないじゃん」



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