第8話
襖を閉め、ゆっくりと腰を下ろす。肺の底から大きく息を吐き出した。
「……何なんだよ、本当に」
現実感がまったくなかった。
昨日まで東京で営業の仕事をし、美香と別れた。それなのに、今は見知らぬ時代の村で「新九郎」と呼ばれている。
震える手でポケットを探る。スマートフォン。革財布。社員証。どれも残っている。すがるような思いでスマートフォンの電源を入れた。画面は点いた。時刻も昨日から進んでいる。だが――。
「圏外……」
無情にもその文字だけが表示されていた。
美香へ電話を掛けることも、メッセージを送ることもできない。静かに画面を閉じる。もう元の世界へ帰れないのか。胸が締めつけられる。
「……帰れるよな」
自分に言い聞かせてみるが、声はひどく弱々しかった。
「記憶を失ったわけじゃない。最初から、何も知らないんだ……」
誰にも言えない本音。
だからこそ、決めていた。新九郎として生きる。少なくとも、この世界で生き延びる方法が見つかるまでは。
ゆっくりとスーツのジャケットを脱ぐ。泥にまみれたネクタイを外し、ワイシャツを畳む。元の世界から持ってきた証。 丁寧に畳んで木箱の中へしまい、社員証も財布も、スマートフォンも一緒に底へ沈めた。
佐吉から渡された着物へ袖を通す。ざらりとした麻の感触は、スーツとはまるで違った。
和装には慣れていない。だが、帯を腰に回した時、高校時代の剣道場を思い出した。袴の紐を締めていた感覚を頼りに帯を結ぶ。思っていたほど手は迷わなかった。
深く息を吐き、居間を抜け、庭へ足を運んだ。
夕暮れの風が心地よい。縁側に座っていた佐吉が、着物姿を見るなり目を丸くした。
「……お前、一人で着たのか」
「はい。何かおかしいですか?」
信じられないというように、帯の結び目をじっと見つめている。
「いや……お前は昔から着替えがひどく不器用で、いつもわしや、お春が手伝ってやっていたというのに。見事な手際だ」
言葉に詰まる。佐吉は少し目を細め、射抜くように見つめてきた。
「……顔は新九郎だ。だが、髪も服も、身のこなしまで別人みたいだな」
胸がどくりと鳴る。佐吉もそれ以上は深く聞かなかった。
目を逸らすように、作業場へと視線を向ける。
新しい木の香りが漂っている。 思わず足が止まった。木を見ると、不思議と心が落ち着く。
作業台の上には、一本の鑿が置かれている。
そっと手に取った。重さを確かめるように握る。この世界で初めて触れる鑿なのに、手に吸い付くような感覚がある。
その時だった。
「新九郎!」
門の方から快活な女性の声が響いた。
振り返ると、二十代前半ほどの女性が立っていた。素朴な着物に身を包み、柔らかな目元には親しみやすさがある。
袖口からのぞく手首には、少し不揃いな麻の守り紐。生成りの麻に、藍、紅、若草色の糸が編み込まれている。
顔を見るなり花が咲いたように笑い、駆け寄ろうとした。
だが――短く切られた髪と、見慣れない着物姿を見て、その足がぴたりと止まった。
「……え?」
すっと笑顔が消える。
「新九郎……なの?」
瞳には、知らない人を見るような戸惑いが浮かんでいる。 どう返せばいいのか分からず、小さく頭を下げた。
「……すみません」
「え?」
「申し訳ないんですが……あなたのことを思い出せないんです」
一瞬にして表情が曇った。
「どういうこと……?」
「おお、お春か」
縁側から佐吉が声を掛ける。お春は慌てて向き直った。
「佐吉さん! 新九郎が変なんです!」
「ああ。昔のことをすっかり思い出せんらしい」
お春は信じられないというように、再びこちらを見る。
「私のことも……?」
「ごめんなさい」
お春はぎゅっと唇を噛みしめる。それでも困らせまいとするように、明るい声を作った。
「私は、お春。隣の家に住んでるの。小さい頃から、毎日のように一緒に遊んでたんだよ」
「教えてくれて、ありがとう」
少し寂しそうに、力なく笑う。
「そんな他人行儀な言い方する新九郎、初めて」
ふと、お春の視線が手元に落ちた。
「……あれ? 新九郎、守り紐は?」
「……守り紐?」
「これ」
お春は袖を少しまくり、手首を見せた。少し不格好な麻の守り紐。
「昔、私が作ったんだよ」
生成りの麻に、藍、紅、若草色の糸。森で死んでいた男の手首にも、よく似た紐が巻かれていた。
「新九郎、いつもつけてたのに……」
「……覚えてないんだ」
「どこかで、なくしちゃったのかな」
あの男が死んでいることを、お春はまだ知らない。 気まずい沈黙を紛らわせるように、お春は作業台へ目を向けた。




