第7話
腰の道具袋には使い込まれた大工道具が差してあり、前掛けには新しい木屑がべったりと付着している。一目で、長年木と向き合ってきた熟練の職人だと分かる凄みがあった。
男は鋭い眼光で、まず与助を射抜いた。
「与助。何を騒いでおる」
「親父さん……。川の近くで、新九郎に会ったんだ」
男――新九郎の父親である佐吉は、ゆっくりと視線を動かし、こちらを捉えた。
「……新九郎」
地響きを立てるような重い足取りで近づいてくる。
しかし、数歩手前で足がピタリと止まった。
頭から足元まで、異様な姿を鋭くねめ回し、深く眉をひそめる。
「……その姿は、何だ。その着物も、履き物も……どこで手に入れた」
思わず、スーツをギュッと握りしめた。
視線が上がり、短く刈り揃えられた髪で止まる。
「髪まで切り落としたのか」
責めるような、それでいてひどく狼狽しているような声だった。
乾いた唇を舐め、言葉を絞り出す。
「……分かりません。森で目が覚めた時には、この姿でした。何も思い出せないんです」
苦しそうに額へ手を当てる。
「昔のことも、人の顔も……自分がどうしてこうなったのかも」
重い沈黙が落ちた。与助が横から口を挟む。
「俺のことも分からなかったんだ。だから、ひとまず村まで連れて来た」
佐吉は太い腕を組み、射抜くような目で無言で見つめていた。
やがて、深く息を吐き出す。
「……家へ来い。ここで立ち話することじゃねぇ」
踵を返し、背を向けて歩き出した。
周囲の村人たちは道を開けながらも、なお奇妙な服装を好奇と警戒の目でねめ回している。
ヒソヒソとしたざわめきを背中に受けながら、与助とともに、広くて分厚い背中を追った。
土埃の舞う道を歩く。庭先で洗濯をしている女たちも、畑で鍬を振るう男たちも、みな手を止めてこちらを凝視した。
誰もが口々に不思議そうにつぶやく中、ただ頭を下げて歩くことしかできなかった。
やがて、一軒の家の前で佐吉が立ち止まった。
豪邸というわけではないが、柱や梁は精巧に組まれ、凛とした木の香りが漂っている。広い庭には切り出された木材が整然と並び、奥の作業台には、大小さまざまな鉋や鑿が手入れの行き届いた状態で置かれていた。
思わず目を奪われた。
休日になるとワンルームで時間を忘れて没頭していた木彫り。
その道具たちと木屑の匂いは、得体の知れない時代で初めて見つけた「懐かしい拠り所」のように感じられた。
「入れ」
重みのある引き戸が開く。
一礼し、家へ足を踏み入れた。薄暗い土間を上がると、質素だが塵一つない座敷が広がっていた。
「お前も座れ」
言われるままに正座をする。与助も隣へ座った。
しばらく、誰も口を開かなかった。静寂の中、囲炉裏の火だけが小さく揺れている。
やがて、佐吉が重い口を開いた。
「もう一度聞く。本当に、何も思い出せんのか」
「はい。目が覚めた時には森に倒れていました。どうしてあそこにいたのかも、この姿になった理由も分かりません」
鋭い視線を、絶対に逸らさずに受け止める。 見つめ合うこと数十秒。佐吉は少しだけ肩の力を抜き、息を吐いた。厳しい職人の顔が、少しだけ和らぐ。
「……そうか。わしは、佐吉だ。お前の父親だ」
一瞬だけ息をのむ。目の前の無骨な男が、新九郎の父。
畳に額がこすれるほど深く頭を下げた。
「……申し訳ありません。父さんのことも、思い出すことができません」
佐吉は諦めたように、悲しそうに目を閉じた。
「謝るな。思い出せんものは仕方あるまい」
胸がギリギリと締め上げられた。
本当は、思い出せないのではない。最初から何も知らないのだ。目の前の男が愛し、帰りを待っていた本当の『新九郎』は、もうこの世にいない。 その残酷な事実を知っているのは自分だけだった。
佐吉は、庭の方へゆっくりと目を向けた。
「今日は、城の仕事だった」
つられるように庭を見る。作業台の周りには、削りかけの美しい柱が並んでいる。
「わしは城大工だ。代々、この仕事を受け継いできた。お前も幼い頃から、よくわしの後をついて来たもんだ。城へ行くのは好きだったな」
知らない話には答えられない。佐吉は少し苦笑した。
「だが、木を削るのはからっきしだった。鑿を持たせれば刃が曲がる。鉋を掛けさせれば削り過ぎる。柱一本、まともに仕上げられん。職人には向いておらんのかと何度も思ったよ。……それでもお前は、『もう一回やる』と毎日わしの後をついて来た」
胸の奥が熱くなった。不器用な息子を本当に大切に思っていたのだ。
佐吉は立ち上がると、居間の隅のつづらから一着の着物を取り出し、差し出した。
「その妙な格好のままでは落ち着かんだろう。これを着ろ。少し大きいかもしれんが、お前が昔から着ていた物だ。部屋は、その奥だ」
両手で受け取り一礼すると、着物を抱えて奥の部屋へ向かった。
古い襖を開けると、小さな和室が現れる。質素な布団に、古びた木箱。窓からは夕暮れの赤い光が差し込んでいた。
ここが、『新九郎』の部屋。
これから自分は、この新九郎として生きていかなければならないのか。重い現実がじわじわとのしかかってくる。




