第6話 第二章 新九郎という男
――そして、翌朝。
自分と同じ顔をした死体を目撃し、謎の男たちから逃れた隼人は、川辺で美香からのメッセージを見つめていた。
その時だった。
背後の草むらがガサリと揺れ、人の気配がした。
「……新九郎?」
信じられないものを見るような、震える声だった。
弾かれたように振り返ると、二十代前半ほどの青年が立ち尽くしていた。
日に焼けた肌に、粗末な麻の着物。手には猟師が持つような短い槍を握っている。
青年は顔を見るなり目を見開き、槍を取り落としそうになった。
「お、お前……」
言葉を失い、食い入るようにこちらを見つめる。 やがて、確かめるように口を開いた。
「お前……本当に、新九郎なのか?」
「……え?」
何も答えられず、ただ見つめ返した。
青年の視線が、ゆっくりと顔から下へ移っていく。全身を覆う見慣れない服装に気づいた瞬間、その表情が驚きから困惑へと変わった。
「……何だ、その格好は」
思わず自分の身体を見下ろした。
仕立てのいい濃紺のスーツ。シルクのネクタイ。磨き上げられた革靴。左腕には、金属の光沢を放つ腕時計。
現代の東京ではごくありふれた営業マンの格好も、鬱蒼とした森の中、麻の着物をまとった青年の前ではあまりにも異質だった。
「着物はどうした。それに髪まで……ずいぶん短くなってるじゃねぇか」
返す言葉が見つからない。
自分でも、なぜこんな場所にいるのか分からない。
ましてや、『別の時代から来た』などと話したところで信じてもらえるはずがない。
「……悪い」
とっさに額へ手を当て、苦しげに目を伏せた。
「目が覚めた時には、この格好だったんだ」
「何?」
「何も思い出せないんだ。自分が誰なのかも……どうしてここにいるのかも」
青年の表情がこわばった。
嘘を探るような、それでいてひどく心配そうな視線。
やがて、彼は深く息を吐いた。
「俺のことも、分からねぇか」
申し訳なさを込めて静かに首を横へ振る。
「……すまない」
「俺は与助。小さい頃、親父とこの町へ来た。それからずっと一緒に育った。……幼なじみだ」
その名前を確かめるように、口の中で小さく繰り返す。
「与助……」
しかし、何も浮かんでこない。
申し訳なさに頭を下げる。
「名前を聞いても、やっぱり何も思い出せないんだ」
与助は一瞬黙り込み、困ったように頭をかいた。
「そうか……」
戸惑いと心配が入り混じった声だった。
川のせせらぎの中、与助は隼人の服に目を留める。
「その生地……城の殿様でも、こんなものは着てねぇぞ。どこで手に入れた?」
「覚えてない」
与助はしばらく見つめてきたが、深く考え込むように視線を落とし、やがて顔を上げた。
「……とにかく村へ戻ろう。親父さんなら、何か分かるかもしれねぇ」
そう言って歩き出した背中を、静かに追った。
与助は前を歩きながら、何度も不審そうに振り返った。そのたびに、視線が衣服に釘付けになる。
「やっぱり変だ……。そんな滑らかな布、城のお殿様だって着てねぇぞ」 「俺にも分からない。気がついたら、この格好だった」
首を絞めるように感じていた胸元のネクタイにそっと手をやる。
「その履き物も変だ。獣の皮か?」
「これも……覚えてない」
「その銀色の輪っかは何だ? 中で針が動いてるぞ」
腕時計に目を落とす。秒針は何事もなかったかのように動き続けている。
「……覚えてない」
与助は顔を見ると、それ以上は口にしなかった。
二人は獣道を抜け、さらに歩き続ける。
しばらくして木々が途切れ、ふいに視界が開けた。
木々の向こうに、茅葺き屋根の家々が現れた。炊事の煙が立ちのぼり、畑では村人たちが鍬を振るっている。あぜ道を裸足の子どもたちが駆け抜けた。
土と煙、家畜の匂い。そのどれもが、知っている日本とは違っていた。
村の入り口へ足を踏み入れた途端、薪を背負った老人が声を掛けてきた。
「おう、新九郎じゃねぇか」
立ち止まり、皺深い顔を見つめる。当然、誰なのか分からない。愛想笑いもできず黙り込んでいると、老人が怪訝そうに首をかしげた。
「どうした?気でも触れたか?」
助けを求めるように視線を送ると、与助はわざとらしく大げさなため息をつき、老人のそばへ歩み寄った。
「じいさん。さっき川でこいつに会ったんだけどよ、様子がおかしいんだ。俺のことも分からねぇし、自分が誰だかも思い出せねぇみてぇなんだ」
「本当か、新九郎」
申し訳なさに、深く頭を下げる。
「……すみません。本当に、何も思い出せないんです」
老人はしばらく言葉を失っていたが、やがてその視線は『顔』から『衣服』へと移っていった。
「それに……何だ、その妙ちきりんな格好は」
驚いた声を聞きつけ、井戸端の女たちや、畑仕事の手を休めた男たちがわらわらと集まってきた。
「着物じゃないよ。あんな真っ黒な布、見たことない」
「髪まであんなに短く刈り上げて……」
「あの足の履き物、ピカピカ光ってるぞ」
遠巻きに囲まれ、不思議そうな、そして警戒するような声が上がる。無数の奇異の目に晒され、ただ黙って立ち尽くすしかなかった。
与助が庇うように声を張り上げた。
「本人にも分からねぇらしい。森で目が覚めたらこの姿で、昔のことも何も思い出せねぇんだとよ」
ヒソヒソとささやきが交わされる。
「そんな馬鹿な」
「山の神に化かされたんじゃ」
「狐狸の類に憑かれたんだべ」
不安と猜疑心が波のように広がっていく。
その時だった。
「――何を騒いでおる」
家々の奥から、腹の底に響くような力強い声が轟いた。ざわめきがピタリと止む。人だかりが、左右へ割れていった。
そこに立っていたのは、五十代半ばほどの初老の男だった。丸太のように太い腕、深く刻まれた眉間のシワ、節くれ立った無骨で巨大な手。




