第21話 第五章 影の男
その夜、布団に入っても眠れなかった。
『わしに遠慮して弟子になるくらいなら、最初から断れ』 昼間の宗玄の言葉が耳に残っている。
木工も、剣術も学びたい。
だが、弟子になると決めたら、この世界で生きていく覚悟まで必要なのだろうか。
美香の顔が浮かんだ。帰る方法さえ分からないのに、ここで新しい人生を始めようとしていいのか。
寝返りを打ち、天井を見つめたまま息を吐く。
そんなに簡単に答えを出していいのだろうか。美香は。会社の同僚たちは。俺は本当に、もう元の世界へ帰れないのだろうか。考えれば考えるほど、答えは暗闇の奥へと遠ざかっていく。
ふと、鼻の奥をくすぐるような懐かしい木の香りがした。
目を閉じる。幼い日の記憶が、ゆっくりと蘇ってきた。
祖父の工房だった。木屑が床いっぱいに広がり、陽の光が差し込んでいる。幼い自分は、小さな彫刻刀を不器用に握りしめ、一枚の木板を夢中で削っていた。
「じいちゃん、見て!」
得意げに差し出すと、祖父は目尻に皺を寄せて笑いながら受け取った。
「ははっ、上手になったな」
そう言いながら、祖父は木肌を指でそっと撫でた。
「でもな、隼人。一つだけ覚えておけ。木を見るんじゃない。感じるんだ」
「感じる?」
「ああ。木には一本一本、違った癖がある。硬いところもあれば、柔らかいところもある。それを知らずに削ったら、木がかわいそうだろ」
「木も痛いの?」
「さあな。じいちゃんにも分からん」
祖父は声を立てて笑い、手に彫刻刀を握らせてくれた。
「ただ、一度削った木は元には戻らない。だから、刃を入れる前によく考えるんだ。木にも自分にも、後悔が残らないようにな」
その言葉が、数時間前に聞いた宗玄の言葉とピタリと重なった。
(――職人とは、木と語り合う者だ。心で刃を入れるものだ)
「……じいちゃん」
思わず、その名が口をついた。祖父はもういない。あの日、病院の白い部屋で静かに息を引き取った。
それでも。祖父が残してくれた言葉は、時代も世界も超えて、今も自分の中で確実に生きていた。
「ありがとう……じいちゃん」
静かに目を閉じる。
「俺、まだ迷ってる。でも……じいちゃんの教えを、無駄にはしない」
そう呟くと、不思議と胸の奥の重しが少しだけ軽くなった。 布団から身を起こす。
「……少し、風に当たるか」
眠れぬ夜の静けさの中、音を立てないようにそっと家の戸を開け、月明かりに照らされた城下町へと一人歩き出した。
夜風が心地よく頬を撫でる。
昼間の喧騒と暑さが嘘のように消え、城下町は深い眠りについていた。青白い月光だけが石畳を淡く照らしている。
宗玄の言葉。祖父の言葉。二人は全く違う時代と世界を生きたはずなのに、同じことを語っていた。
「……偶然、なのかな」
小さく呟く。いや、違う。本物の職人は、きっと同じ答えへ辿り着くのだろう。だから宗玄の言葉が、祖父の声のように真っ直ぐに胸へ響いたのだ。
気付けば、町外れまで来ていた。
誰一人歩いていない。秋虫の音だけが静かに響いている。
「……少し、歩きすぎたか」
踵を返そうとした、その時だった。 ――カラン。 背後で、小石が転がるような微かな音がした。足を止める。
辺りを見回す。冷たい風が吹き抜け、木々がわずかにざわめいた。
「気のせい……か」
次の瞬間。屋根の上から黒い影が一つ、音もなく石畳へ舞い降りた。顔は布で覆われ、月明かりに照らされた瞳だけが獣のように鋭く光る。
さらに、右の路地から。左の塀の陰から。背後の屋根から。一人、また一人と黒装束が音もなく姿を現した。
四人。全員が抜き身の刀を構え、無言のまま完全に包囲する。
静かに息を整えた。
「俺を……狙っているのか」
誰も答えない。刀を握り直す微かな衣擦れの音だけが響く。
そして。先頭の男が、小さく右手を振った。
四つの影が、闇を裂くように一斉に襲いかかってきた。
「っ!」
反射的に身をひねる。刃が鼻先をかすめ、火花を散らして石畳へ突き刺さった。冷や汗が滝のように背中を流れる。
(まずい……)
相手は四人で全員が真剣を持っている。対して自分は丸腰。
いや、それ以前に――。
(俺はこの世界の人間じゃない。真剣を持った相手と命のやり取りをするなんて、考えたこともない!)
もう一太刀が迫る。無様に飛び退き、踵を返した。
「逃げるぞ!」
夜の城下町を一目散に駆け抜ける。
後ろから複数の足音が、ひたひたと迫ってくる。速い。相手も全力だった。
(追いつかれる……!)
右へ、左へ。細い路地を選び、人通りのある場所を目指す。
だが、今は軒先の灯籠が不気味に揺れるだけで、誰もいない。
「くそっ……!」
息が上がる。命を懸けて逃げたことなど一度もない。肺が焼け付くように痛い。
後ろで、カチャリと瓦が鳴った。一人が屋根へ飛び乗ったのだ。
横からもう一人。前には二人。まるで狩りを楽しむように逃げ道を塞いでくる。
(囲まれる!)
咄嗟に、さらに細い脇道へ飛び込んだ。
暗く、背の高い土塀が続いている。行き止まりではないが、極端に狭い。 ドンッ。積まれた木箱に肩がぶつかり、野菜が石畳へ転がった。振り返ると、黒装束たちは障害物すら音もなく飛び越え、確実に距離を縮めてくる。
「なんなんだよ……!」
歯を食いしばる。殺される。本当にそう思った。
次の瞬間、前方の路地へ一人の黒装束がフワリと降り立った。完全に道を塞がれる。
急停止した。後ろからも三人。逃げ場はない。 先頭の男が静かに刀を上段に構えた。月明かりを受けた刃が、冷たく残酷に光る。
「生きていたのか? まあ終わりだがな」
(間に合わない……!)
震える拳を強く握り締め、目を閉じかけたその刹那――。
キィィンッ!! 鋭い金属音が、静寂の夜空を切り裂いた。
「……!」
恐る恐る目を開くと、自分を両断するはずだった刀は、目の前でピタリと止められていた。
一人の侍が、こちらを庇うように立っていた。
濃鼠色の着物に、長い刀。長く旅を続けてきたことを思わせる質素な身なりだが、背中から漂う張り詰めた気配だけは、刺客たちとは明らかに違っていた。
侍がわずかに顔を横へ向ける。月明かりが、その横顔を淡く照らし出した。
鋭い目。すっと通った鼻筋。迷いのない引き締まった表情。 胸が大きく脈打った。
(……え、二瓶……先輩?)
高校時代、誰よりも強かった剣道部の先輩。 顔立ちだけではない。刀を構えた時の重心の置き方、肩の力の抜き方まで、記憶の中の二瓶にそっくりだった。
(……そんなわけない)
目の前には、まだ四人の刺客がいる。込み上げる疑問を押し殺し、背中を見つめた。
侍は刺客たちへ視線を戻すと、背を向けたまま静かに告げた。
「下がっていろ」
短い一言。それなのに、絶望の淵にあった胸に、不思議なほどの安心感が広がっていく。まるで高校時代、試合場で二瓶先輩の背中を見ていた時のように。
「……何者だ」
「ただの、旅の侍だ」
刃こぼれ一つない白刃を、ゆっくりと正眼に構える。
「命までは取るつもりはない。……去れ」
「旅の侍ごときが……調子に乗るな!」
四人の刺客が動いた。




