第19話
姿を現した木像を見た瞬間――桂親方の表情から、フッと笑みが完全に消え去った。
部屋の空気が一変し、静まり返る。
親方は木像をそっと持ち上げた。正面。横。背面。指先で木目をなぞり、削りの跡を一つ一つ確かめる。
まるで、木の中に宿る魂と語り合っているかのようだった。
誰も声を発しない。やがて、静かに机へ戻した。
「……新九郎」
「はい」
「これを仕上げたのは、お前か」
「途中まで彫っていたものを、私が少しだけ手直ししました」
「手直し、か」
穏やかな口調だったが、その瞳は職人の眼光そのものだった。
親方は佐吉へ向き直る。
「佐吉。お前は十五年、わしの下で血を吐くような修業をした。……この彫りは、お前にできるか」
「……できません」
悔しさを噛み殺すように静かに首を横へ振る佐吉に、親方は「正直でよろしい」と返し、再び木像へ慈しむように手を添えた。
「木目を殺しておらん。節を無理に消そうともしておらん。この木が一番美しく見える場所を選び抜き、そこにだけ刃を入れている」
こちらを向き、鋭く尋ねた。
「この彫りは、誰から教わった」
「誰にも教わっていません。記憶を失ってからこの木を見た時に……ここは削ってはいけない、ここは残した方がいい。自然と、そんな気がしたんです」
桂親方は薄く目を開け、木像を傾けて光の当たり方を確かめた。
「……不思議な彫りだ」
「何がでしょうか」
「普通、職人は己の思い描いた形に木を削ろうとする。だが、これは違う。木がなりたかった姿を、探しておる」
親方は指先で曲線をなぞる。
「木には木の命がある。己の技を見せつけるのではなく、その命を生かす。それが職人の仕事じゃ」
木像から視線を離し、今度はこちらの両手を見つめてきた。
節くれだった指。昨日木を削ってできた新しい傷。そして、その下に隠れた、長年木刀を握り続けてきた者だけが持つ、硬く分厚い手のひら。
桂親方の表情が、わずかに変わった。
「……ほう」
そのまま、じっと両手を見つめる。
「……この手は」
思わず自分の手を見下ろした。
「何か、おかしいでしょうか」
「いや。ただ……木だけを彫ってきた手ではないな」
その言葉に、佐吉と源蔵が顔を見合わせた。
「親方……?」
「昨日、城で立ち合いがあったそうだな」
驚き、思わず目を見開いた。
「……なぜ、それを」
「昨日、城下で佐久間主膳殿がわしを訪ねてきた。珍しく、大好物の酒も飲まずにな。『一人、面白い若者がいる。お前なら、あの刀の握り方に何か分かるかもしれん』と言われてな」
源蔵が素っ頓狂な声を上げた。
「主膳様が親方を!? なんでまた……」
「ああ。昔ちょっとな……。あの男は滅多なことで人を褒めん。だからこそ、気になった」
桂親方はゆっくりと一歩近づいてきた。
「聞けば、お前は二刀を構え、護衛の太刀をいなしたそうだな」
「……自分でも、よく分からないんです。木刀を弾き飛ばされて、もう勝てないと思ってました。でも、父さんが俺を庇って伊兵衛さんに押し倒されて。それを見た瞬間、何も考えられなくなって……気づいた時には、木刀と枝を握って二刀流の構えになっていました」
しばしの沈黙。
すると――桂親方が、ふっと笑った。どこか嬉しそうな、何かを確かめたような笑みだった。
「何がおかしいんですか?」
「いや。ならば合点がいく」
親方の眼差しには、先ほどまでとは違う何かが宿っていた。
やがて視線を外し、遠い昔を思い返すように目を細める。
「源蔵。佐吉。お前たちは、わしを『大工の棟梁・桂親方』としてしか知らぬ」
「はい。そうですが……」
「それでいいと思っていた。もう、その名を語ることもあるまいとな」
静かに、重く息を吐いた後、こちらを真っ直ぐに見据えた。
「だが、お前には話しておこう。今は皆、わしを桂親方と呼ぶ。だが、それは職人になってからの呼び名だ」
部屋の空気が、ピンと張り詰める。 一拍置いて、老人は静かに名乗った。
「武士だった頃の名は――柳生宗玄」
ヒュッ、と源蔵が息を呑む音が土間に響いた。
「や、柳生……宗玄様……」
佐吉は驚愕に見開きながらも、慌てて土間に両手をつき、深々と頭を下げる。
隼人だけが、その名の歴史的な重みをまだ知らずに、ただ静かに宗玄を見つめていた。
「無理もない。昔の話だ」
「まさか……柳生宗玄様とは」
「知っているの?」
「この辺りで剣を学んだ者なら、知らぬ名ではない」
佐吉が震える声で答えた。




