第18話
佐吉は、震える手で静かに木像を作業台へ戻した。
「変わったなんてもんじゃない。まるで、別の仏様が宿ったようだ」
薄暗くなりかけた部屋に、静寂が流れる。
佐吉はもう一度木像を見つめ、ぽつりとつぶやいた。
「……こんな恐ろしい彫り、わしは見たことがない」
その声には、驚きだけではなく、人生を木に捧げてきた職人としての強烈な感動と、畏怖が滲んでいた。 照れ隠しのように苦笑いを浮かべる。
「そんなにですか」
「ああ。この彫りは、わしには絶対にできん」
思わず目を見開いた。
「父さんにも……ですか」
「できん。長く木を彫ってきたからこそ分かる。これは一朝一夕で身につく腕ではない」
返す言葉を失った。
「……見事なものだ」
「ありがとうございます」
「だがな、新九郎」
佐吉は削り跡を指でなぞった。
「前の彫りも、わしは嫌いではなかったぞ」
ハッとして顔を上げる。
「不器用でも、お前が何日もかけて彫っていたものだからな」
「……すみません」
「謝ることではない」
佐吉は木像を見つめ、優しく笑った。
「ただ、少し惜しくなっただけだ」
その時――。 コン、コン。再び表の戸を叩く音が響いた。
「来たか」
戸を開けると、先ほどの職人が息を切らして立っていた。
「佐吉!」
「おう、源蔵。やっぱりお前か」
家へ入るなり、源蔵は挨拶もそこそこに一直線に奥の作業台へ向かった。
「……やっぱり、見間違いじゃなかった。佐吉。嘘だろ。これ……本当に新九郎が彫ったのか?」
佐吉は誇らしげに、だがどこか寂しげに頷いた。
「ああ。本人も、少し手直ししただけと言っておる」
源蔵は信じられないという表情で、化け物でも見るようにこちらを見た。
「新九郎。お前……森で倒れてから、一体何があったんだ」
「私にも分からないんです。記憶を失ってから、この木像を見た時に、『ここはこうした方がいい』って自然に頭に浮かんできて……気が付いたら、夢中で彫っていました」
源蔵は太い腕を組み、何度も深く頷いた。
「……記憶を失ってから、逆に腕が上がるなんて話、生まれてこの方聞いたことがねぇ」
「わしも同じ気持ちだ」
佐吉が疲れたように苦笑する。
やがて、源蔵が真剣な顔つきで口を開いた。
「なあ佐吉。明日、この木像を『親方』に見せてもいいか。こんな彫りができる職人なんて、この辺りには絶対にいねぇ。あのお方なら、何か分かるかもしれねぇ」
佐吉は少し考えたあと、頷いた。
「構わん。ただし、新九郎の許可もいる」
二人の視線が向けられ、戸惑いながらも頷く。
「私は大丈夫です」
源蔵はパッと顔を明るくして笑った。
「助かる。親方も間違いなく腰を抜かすぞ。いや……本当に、何度見ても信じられねぇ。佐吉。お前、とんでもない化け物を育てたな」
「育てた覚えなどない。わしの知らんところで、勝手に腕を上げてしまったようだ」
三人は思わず声を立てて笑い合った。
しかし、その笑顔とは裏腹に、胸には小さな不安が芽生え始めていた。 (ちょっと木を彫っただけで、こんなに騒ぎになるのか……この世界で目立ちすぎるのは、あまり良くないかもしれない)
完成した木像を、静かに見つめた。
*
翌朝。 朝食を終え、佐吉と向かい合って座っていた。木像は清潔な布に包まれ、作業台の隅に大切に置かれている。
「新九郎」
「はい」
「昨日、源蔵が言っていた『親方』というのは、この城下で一番腕の立つ棟梁だ。わしも若い頃は、その人の下で修業をした」
「父さんの師匠なんですか」
「ああ。厳しい人だが、本物を見る目だけは誰にも負けん」
佐吉は布に包まれた木像へ視線を向ける。
「もしあの人が認めれば、お前の腕は正真正銘の『本物』ということになる」
「そんな大げさな……」
「大げさじゃない。いい腕があっても、それだけで仕事を任せてもらえるとは限らん。誰に認められるかも大事なんだ。あの方の目はごまかせん。だからこそ、お前の彫りを見てもらいたい」
「分かりました」
その時、外からバタバタという足音と元気な声が聞こえてきた。
「佐吉ー!いるかー!」
「源蔵だな」
戸を開けると、源蔵が額に汗をかき、息を切らしながら立っていた。
「親方が、来る! こっちへ来るってよ!」
「親方自ら……?」
「ああ! 今朝話をしたら、『すぐにその木像を見せろ』ってな。もうすぐ着くぞ!」
佐吉も少し驚いた表情のまま、小さく息を吐いた。
「……これは予想外だ」
その時、家の前でゆっくりとした重みのある足音が止まる。
源蔵が慌てて姿勢を正し、戸口へ向かった。
「桂親方」
重い引き戸が静かに開く。
一人の老人が、ゆっくりと姿を現した。年の頃は七十を過ぎているだろう。白髪に、色褪せた藍色の着物。節くれ立った両手には、長年木と向き合ってきた者だけが持つ無数の細かな傷が深く刻まれている。
どこにでもいそうな、穏やかな老人。それが第一印象だった。
「お久しぶりでございます、桂親方」
「佐吉。元気そうで何よりだ」
源蔵が肩を軽く叩く。
「新九郎。この方が桂親方だ。城下の大工を束ねる棟梁でな。家を建てるのも城の修繕も、最後はみんな親方の厳しい目を通る。俺も佐吉も、親方に一から育ててもらったようなもんだ」
「源蔵。年寄りをあまり持ち上げるもんじゃない。わしはただ木が好きで、長く付き合ってきただけだ」
その穏やかな笑顔を見て、自然と肩の力が抜けた。厳しい職人を想像していたが、孫にも優しく接しそうな好々爺に見えた。
桂親方はゆっくりとした足取りで作業台へ歩み寄り、布の掛かった木像の前で足を止めた。
「これか」
無言で、静かに布を外す。




