第17話 第四章 木に宿る命
翌朝。 寝返りを打とうとして、肩に走った痛みに顔をしかめた。
「……痛ってぇ」
腕を持ち上げるだけでも痛む。昨日、伊兵衛の木刀を受け続けたせいだ。
障子の向こうから鳥の声が聞こえる。見慣れない部屋も、身体に残る痛みも、夢ではなかった。
「……本当に帰れないのかよ」
呟いたところで、答えてくれる者はいなかった。
その時、部屋の外から声が聞こえた。
「起きたか、新九郎」
「はい」
痛む腕を押さえながら居間へ向かうと、佐吉はすでに仕事へ出る支度をしていた。腰には大工道具を下げ、朝食を食べ終えたところだ。
「もう仕事ですか」
「ああ。城の普請は待ってはくれんからな」
佐吉は立ち上がると、ぽんと肩を軽く叩いた。
「お前は今日は家で休んでいろ」
「でも……」
「昨日、あれだけ木刀を受けたんだ。痛むんだろう」
「……少し」
「強がるな。身体を壊してからでは遅い」
体調を見透かされたように言われ、素直に頷く。
「……分かりました」
「わしは昼には戻れんが、夕方には帰る。腹が減ったら台所に粥があるから、温めて食え」
「はい」
佐吉は満足そうに頷き、重い引き戸を開けて戸口へ向かった。
「では、行ってくる」
「いってらっしゃい」
戸が閉まる音が響き、家の中はしん、とした静けさに包まれた。
ぽつんと立ち尽くし、静かな部屋をゆっくりと見回す。テレビもない。スマホも圏外。今日やるべき仕事もない。
「……暇だな」
小さくつぶやいた声だけが、静かな朝の空気に吸い込まれていった。
あてどなく部屋を見回していた視線が、ふと、土間の脇に設けられた作業場の一角で止まった。
壁一面には、よく手入れされた大小の鑿や鉋、鋸などの道具が整然と並んでいる。
そしてその下、使い込まれた作業台の端に、作りかけの木彫りが一つ、静かに置かれていた。
吸い寄せられるように立ち上がり、近づいていく。高さ二十センチほどの、小さな仏像だった。
そっと手に取る。懸命に木目に沿って刃を入れようとした形跡はある。だが、刃の角度が悪いため逆目に入りかけ、ところどころ力任せに削って木肌を乱暴にむしり取ったような跡が痛々しく残っていた。
「これが……新九郎の作品か」
仏像の顔は左右非対称で、衣の皺もぎこちない。
だが、削り跡を見れば分かる。何度も失敗し、それでも諦めずに刃を入れていたのだ。
(ここは逆目だ。こっちから刃を入れれば……)
作業台に置かれた小刀へ手を伸ばしかけ、指が止まった。
これは自分の作品ではない。佐吉にとっては、息子が一生懸命に彫ったものなのだ。
しばらく迷った末、意を決して小刀を握る。
「……少しだけなら」
元の彫り跡をなるべく残しながら、荒れた木肌へそっと刃を当てた。
力はほとんど入れない。手首のスナップと、刃の重みだけを利用して、木目に逆らわず絹を撫でるように滑らせる。 ――シャッ。
透き通るほど薄く削れた木くずが、ひらりと作業台へ落ちた。
「やっぱりだ」
削った跡の表面は、見違えるほど滑らかな艶を出していた。
一度刃を入れると、気になるところが次々と目についた。歪んだ鼻筋を整え、衣の皺へ細かな曲線を加えていく。時折、肩に痛みが走った。そのたびに手を止めたが、しばらくするとまた小刀を握っていた。
どれほど時間が経ったのだろう。
「……ふぅ」
小刀を置く。作業台には、先ほどとは見違えるほど表情の柔らかくなった仏像があった。
だが、素直に喜べなかった。元の彫り跡が、思っていた以上に少なくなっている。
「……やりすぎたかな」
木像を作業台へ戻し、ふと窓を見ると、差し込む陽の色はすっかり茜色へと変わっていた。
「もうこんな時間か……」
夢中になって木を彫っているうちに、一日が終わろうとしていた。
その時だった。コン、コン。表の戸を叩く音が響く。
「佐吉、いるかー」
玄関へ向かい、重い引き戸を開ける。四十代半ばほどの、恰幅の良い男が立っていた。
日に焼けた顔にねじり鉢巻。腰には小ぶりな鉋や墨壺を下げている。一目で職人だと分かる出で立ちだった。
男はこちらの顔を見るなり、軽く笑った。
「おう、新九郎。佐吉はいるか?」
「すみません、父はまだ仕事から戻っていません」
「そうか」
男は苦笑しながら、家の中を覗き込む。
「昨日今日と随分早く帰っちまったから、帰ったら仕事の段取りで声を掛けてもらおうと思ったんだが……ん?」
男の視線が、奥の作業台の上でピタリと止まった。
「……おい」
引き戸を開け放ち、断りもなくゆっくりと土間へ足を踏み入れる。
そして作業台の上の木像の前に立ち止まり、食い入るように見つめた。
「おい、これ……」
男の目が極限まで見開かれ、信じられないものを見るような表情に変わる。
「これ……誰が彫ったんだ?」
ただならぬ気迫に、少し戸惑いながら答えた。
「あ、私ですが……」
男は聞き間違えたかのように、首だけをギギギと回してもう一度尋ねる。
「……お前が?」
「はい」
男は震える手で木像を手に取ると、顔を近づけ、あらゆる角度から舐めるように眺め始めた。
「馬鹿な……」
「何か、おかしいですか? 少し削りすぎたでしょうか」
男は木像から目を離さないまま答えた。
「おかしいどころじゃねぇ……」
木像を持ち上げ、衣のひだへ顔を近づける。
「新九郎。これ、本当にお前が直したのか」
「……はい」
「誰に習った?」
「誰にも。昔から木彫りは好きだったみたいで……」
男は返事もせず、木像を傾けて光にかざした。
「この刃の入れ方……」
指先で木目をなぞる。
「佐吉とも違う。木の癖を読んでやがる」
男は初めて、こちらの顔をまともに見た。
「お前、本当に新九郎か?」
そこまで絶賛されるとは思わず、何と返していいか分からなかった。
男は木像を、まるで宝物のようにそっと作業台へ戻す。
「……たまげたな。本当に信じられねぇ」
顔を上げ、こちらを真っ直ぐに見た。
「佐吉が帰ったら、もう一度来る。この話は、佐吉本人からじっくり聞かせてもらうぞ」
「あ……分かりました」
男は何度も木像を振り返りながら、興奮した足取りで家を後にした。
静かに戸を閉める。
「そんなに、驚くことだったのか……」
作業台の木像へ目を向ける。自分では、趣味の延長で手直しをしただけのつもりだった。
だが、この世界の職人から見れば、それは常軌を逸した技術だったらしい。
その時だった。ガラッ――と表の戸が開く。
「ただいま戻ったぞ」
佐吉が、疲れたように肩を回しながら入ってくる。
「おかえりなさい」
土間へ出迎えると、佐吉は安心したように頷いた。
「変わったことはなかったか。体は痛まんか」
「はい。体は大丈夫です。ただ……さっき、父さんを訪ねて職人の方が来ました。ねじり鉢巻をして、腰に墨壺を下げた人でした。まだ戻っていないと伝えたら、また来ると言って帰りました」
佐吉は首をかしげる。
「源蔵か……? まぁいい、仕事の相談だろう」
重い道具箱を下ろし、柄杓で手桶の水をすくって一口飲む。 ふと、作業台へ目を向けた佐吉の動きがピタリと止まった。
「……ん?」
柄杓を置き、吸い寄せられるようにゆっくりと木像へ近づく。手に取り、黙ったまま、微動だにせず見つめた。
「……」
あまりの静けさに、少し不安になる。
「どうしましたか?」
佐吉は木像から目を離さないまま、低い声で尋ねた。
「新九郎」
「はい」
「これに……お前が触ったのか?」
「少しだけです。気になるところがあったので、少しだけ削りました」
その瞬間、佐吉は大きく息を呑んだ。
「少し……だと?」
「そんなに変わりましたか?」




