第15話
城の裏門を後にし、佐吉と歩き始めた時だった。
「――待て」
背後からの重い声に、二人は足を止める。
振り返ると、伊兵衛が歩み寄ってきた。氷のように冷たい眼差しが真っ直ぐに見据えてくる。佐吉が顔色を変え、深く頭を下げた。
「記憶を失ったとは聞いた。だが、それを理由に、姫様へ馴れ馴れしく口を利くことが許されると思うな」
息を呑む。部屋の襖越しに、タメ口で話していたのを聞かれていたのだ。 佐吉が庇うように一歩前へ出た。
「申し訳ございません! 記憶を失い、身の程まで分からなくなってしまったようでございます。どうかお許しください」
「謝って済む話ではない。他の家臣の耳に入れば、打ち首になってもおかしくない大罪だ」
伊兵衛は近くの足軽へ視線を向けた。
「おい。木刀を二本持ってこい」
足軽が駆け出していく。嫌な予感に佐吉を見る。
「父さん……」
「何も言うな」
青ざめた顔で佐吉が首を振る。
足軽が戻り、伊兵衛は受け取った木刀の一本を無造作に放ってきた。
反射的に、右手でしっかりと柄を受け止める。
「待って!」
千代姫が着物の裾を押さえながら駆け寄ってきた。
「伊兵衛、やめて! 悪いのは私! 私が昔みたいに話してってお願いしたの!」
「姫様。これは姫様のお咎めではございません。護衛である私が見過ごすわけにはまいりません。殺しはせぬ。身分の違いというものを、その身体で覚えてもらうだけだ」
伊兵衛は、こちらの右手へ視線を落とした。
「……その掌。タコを見れば分かる。それは鑿で作ったタコではない。長年、木刀を握り続けた者の手だ」
佐吉も信じられないものを見るように手を見た。
「そんな……。お前にそんなタコは……」
伊兵衛は腰を落とし、正眼に構えた。
「剣の心得があるなら一戦くらいできるだろう。……構えろ」
ゆっくりと木刀を握り直す。高校時代の剣道以来だったが、不思議と手に馴染んだ。まるで昨日まで、毎日のように道場で握り続けてきたかのように。
「始めるぞ」
ドンッ、と地面が鳴り、一気に間合いを詰められた。
袈裟斬りの鋭い一撃。反射的に身を捻る。鼻先を風切り音が掠めた。
「避けたか」
休むことなく踏み込んでくる。横薙ぎ。突き。逆袈裟。必死に避け、受け流し続ける。
だが、重い。一撃受けるごとに腕が痺れ、虎口が裂けそうになる。
カァンッ!! 乾いた音が響き、木刀が大きく弾き飛ばされた。数歩先の地面へ転がる。
「拾え。まだ終わりではない」
一歩、前へ出た。その時だった。
「伊兵衛殿!」
佐吉が二人の間へ進み出て、深く頭を下げた。
「もう……もう勘弁してください。無礼は私からもお詫びいたします。どうか、これ以上は……」
「退け」
「新九郎は剣で生きている者ではございません。罰が必要なら父親である私にも責がございます。どうかこいつを――」
「邪魔だ」
伊兵衛が腕で強く払いのけた。
「うっ……!」
身体が大きくよろめき、佐吉が地面へ倒れ込んだ。
息が止まった。目の前で、佐吉が土に手をついている。その光景を見た瞬間、胸の奥が焼けるように熱くなった。
(わしは、佐吉だ。お前の父親だ) 初めて会った日にそう言ってくれた。 (謝るな。思い出せんものは仕方あるまい) (食え) (何も言うな)
本当の父親じゃない。佐吉の息子は自分ではない。ずっと分かっていた。 それなのに――倒れた佐吉を見た瞬間、そんなことはどうでもよくなった。
(……この人に、これ以上、手を出すな)
考えるより先に足が動いた。
転がった木刀へ駆け寄り、右手で拾い上げる。すぐそばに落ちていた腕ほどの長さの枝を、左手で掴んだ。
伊兵衛の視線が、左手へ移る。
「……その枝で、わしの太刀を受けるつもりか」
「やってみなければ、分かりません」
右手の木刀を構え、左手の枝を低く保つ。
「ならば、見せてみろ」
地を蹴り、一瞬で間合いを詰めて渾身の力で振り下ろしてくる。
その瞬間だった。
左手が鞭のように動いた。短い枝が、振り下ろされる木刀の側面に下から触れ、軌道をわずかに、だが決定的に逸らす。
「なっ――!」
伊兵衛の目が驚愕に見開かれた。
ガラ空きになった胴へ向けて、右手の木刀が一直線に伸びる。
バシィッ!!
乾いた打撃音が響き渡る。伊兵衛は顔をしかめて数歩後退した。
静寂。誰も言葉を発しない。
「……伊兵衛殿に、一撃を」
足軽たちの間にどよめきが広がる。
伊兵衛は声を上げることもなく、木刀を握ったまま見据えていた。
佐吉も腰を抜かしたように呆然と見つめている。
千代姫の瞳には、驚きと隠しきれない喜びが入り混じっていた。
「――やめんか」
底冷えするような威厳ある声が響いた。
ざわめきが一瞬で止む。
伊兵衛はピタリと動きを止め、静かに木刀を下ろした。
「……主膳様」
足軽たちが一斉に平伏する。




