4 ウサギ転生Ⅱ
開いていた丸い目の瞳孔が収縮しながらぼやけたピントが合い始める。広い視界一面に飛び込む緑。大きな耳に集められる草花が揺れる音。涼しいとは言いがたい温い風が、心地よさとは別の色味を纏ってウサギの髭を揺らして過ぎ去った。
白い斑の輪郭の曖昧な黒い足を眺める。そこにあったどうしようもない後悔を胸に空を仰ぎ目を瞑る。
やっぱりここなのか……。
一度は感動した大自然の雰囲気も、今は死地としか捉えられない。澄んだ冷たい空気でさえも、葬式の後の悲しみを洗い流す空虚な風のようにも思えてしまう。
――リスポーン地点固定。これは本格的に嫌な流れだ。
閉じていた両目を開いて一面の空をこの目に納める。街の明かりが届かないここでは、空の星は明るく見える。月もさっきと変わらず呑気に浮かんでいた。
時間は……わからないか。もう少し意識的に月の位置を覚えておくべきだった。
死んでスタート地点に時間ごと戻されたのかそうではないのか。その結論はこのウサギ回ではわからずじまい。自分の死体でも探せばその辺りはわかるのかもしれないが、なかった場合は同じ死体が増えるだけなのでやめておく。
「ぶぅー」
先程よりも少し低い声音が鼻から抜ける。再びウサギに転生したとはいえ同じウサギではないのは確定。ここはガチャ要素。見た目や身体能力のガチャは可能。なお、入れるのは百円硬貨でも、石五個でもない。自分の命だ。
――リセマラはなしだ。一発で転生を成功させる。
今回の目的は一つ。このオオカミがいる草原から抜けて、遠目に見えた人里に向かうこと。小川の音は以前と同じようにこのウサギの耳で捉えられている。これを元に街の方角思い出せばおおよその進むべき方向はわかる。
まずは息を潜めて目を瞑り耳だけに意識を集める。常に気にかけなくてはいけないのは外敵の存在。もっと細かく言えばオオカミの存在だ。
転生のタイプが判別できていない以上、一度俺を食べたオオカミが時間が戻り再び腹を空かせ徘徊している可能性も捨てきれない。なので、ここは予習を活かし慎重に動く。
耳障りにならない程度の虫の声と、小川が静かに岸にぶつかり砕ける音。耳に飛び込む音はそれだけで、他に獣の声や足音は聞こえてこない。
ふぅ。近くにオオカミはいないか。まあ、前の転生のときも転生してすぐさま出会ったわけでもないし当然か。
心の内側では恐怖と警戒心を持ちながらも固くなっていた肩から力を抜いた。
以前の転生での主な流れは、ウサギとして体に慣れる時間、小川を探す時間、同種ウサギとオオカミとの接触だ。同じ世界を繰り返しているのだとすれば、今はオオカミと出会うには場所も時間も違うのだろう。
白い斑の入った足を見つめる。まだ一歩も動いていない。動かせていない足。
……恐いな。この草原のどこかにまたあのオオカミがいるのか。
何でまたウサギに転生してしまったのかと、後悔ばかりが頭に浮かぶ。同じ末路を辿るんじゃないのか? また体の内側をぐちゃぐちゃにされるんじゃないのか? そう思うとただの数センチの一歩も踏み出せない。
落ち着け……。落ち着くんだ。ウサギに転生したのは間違ってない。同じ種族にもう一度転生することでしか得られない知識もあったんだ。それに経験しているからこそ、体の慣れの時間も必要なくラグなしで動き始めることができる。
「ふっぷぅ」
前を向け。トラウマになるような惨劇を味わった。それも捉え様だ。恐怖と経験。その二つを知っているからこそ、本気で避ける手立てを考えられる。『知っている』という力の自信を持て。
以前オオカミと接触したのは小川に近付いたあと。今はまだ音からして小川とははそれなりに距離がある状態。そして、これがループ系の話だとしたら、俺がオオカミと接触するのはそちら側に向かってから三十分ほどあと。
だったら水場を避けて速やかにこの場所から離れてやる!
竦んだ足に負けないように体を乗り出すと、嫌々ながらに足が前に出た。そこから一歩、また一歩と進み始めようやく体が速度に乗る。
この場所はちょっとした山にある小さな平原だ。小川の付近は木が少ないが、全体を見通せば木々に囲われている。今回はその木々という障害物のある森に侵入し、街の見える方角を目指して山道を下っていく。
数分して遠目に見えていた森の入り口が近付いていくる。高々と聳える木に近付くにつれて、ウサギの頭は上を向いていく。
――うわぁ。森だぁ。体が小さいと木一つでも見え方が変わるものなんだな。
背の高い草の上にさらに背の高い木が立ち並んでいた。ウサギの体から見れば五階建てぐらいのビルを見上げてるようなものだ。
これがサルなどの霊長類であれば、早速登ってみようとでも思えるのだろうが、この華奢なウサギの前足で木の幹に爪を立てようとは思わない。高すぎて怖い。
見上げた顔を定位置に戻して左右に耳を向ける。緑から茶色へと変わった森の入り口からは獣の声は聞こえない。代わりにフクロウかミミズクか知らないが、それらしき声は聞こえていた。
フクロウなどの猛禽類は小動物を狩るなんて思い出したくないことを思い出した。しかし、だからといって引き返してお祈り草原ダッシュに挑むのも無謀というもの。
――フクロウの頭の中でこのウサギが小動物と認識されていないことを祈ろう。
覚悟を決めて小刻みに動いていた口許の動きを止め、草から落ち葉へと変わった足場を踏みつけながらなだらかな傾斜を下り始めた。落ち葉で滑る山道だ。所々に隆起した木の根を頼りに、爪を引っかけながら降りていく。その際も耳は事細かく動かして敵の警戒は忘れない。
それにしても凄いものだ。野生のウサギは毎日こんなにも気をつかって生きている。
社会の不安に悩み葛藤する人間も苦労するが、毎日隣に死神が座っているような生活をするウサギには及ばない。改めて大自然の過酷さを思い知った。
山の傾斜の中腹あたりで一度木の根に足をかけて停止。振り返ってみると草原の端がチラリと見えた。あちらは風上。鼻は良くても臭気は降りてこないので臭いで敵は判断できない。
できないんだけど……。
「フッブッゥ?」
何だ?
構造上あまり立体的に捉えることのできないウサギの目に微かに何かが捉えられた。緑の中にあるぼやけた色彩。記憶にある色だ。トラウマとして刻まれたコンクリートよりも冷たい温度の灰色。
――オオカミか……。
派手な動作は控えて頭を前に向けて静かに傾斜を駆け下りる。それに合わせてかなり後ろの方で石が転がる音がしていた。間違いない。追われている。
いくつかのパターンは考えていた。リスポーンした先で、最初と同じ腹を空かせたオオカミがいる可能性。今後ろから追ってきているのはそれだろう。時間が巻き戻り、ウサギを食べていなかった世界線にいるオオカミ。だから、腹を空かせて俺を狙ってきているんだ。
ようやく傾斜が落ち着き、似たような木々が立ち並ぶ樹林が続く。フクロウの声が聞こえるが、そこは怯えず走るしかない。
一度目のウサギよりも使い慣れた体を酷使して駆け回る。下手な動きで枝が体を引っ掻いた。足の裏の感覚もごつごつとしていて快適とは呼べない。けれど、死なないために走り続けなくてはならない。
――風の壁を抜ける。――木の隙間を縫ってオオカミに見失わせるように動く。やはり森を下る選択は間違っていなかった。
この調子ならどこかで撒ける。あのオオカミなら問題なく……。
鼻先に微かに臭気が香った。柔らかな黒い鼻に吸い込まれた空気には異質な臭いが混ざっている。土じゃない。草でもない。湿った雨の香りでもない。無機質ではなく生臭い鉄の香り。
俺の背筋が凍った。ウサギの毛が逆立ち。嫌な予感が俺の分析によって確信に変化していく。
「ぶっぶっぅ!」
血の臭いだ!!
俺は左へ大きく地面を蹴った。その瞬間、俺のいたところを血に濡れたオオカミの口が通りすぎた。
二頭いる!! しかもこいつ! 俺を食べた奴だ!
赤く濡れた口の血は少し前までの俺のもの。間違いない。刻まれた恐怖が体の内から寒気として現れている。消えることのないトラウマの証拠だ。
勘違いをしていたんだ。最初俺は一頭のオオカミから逃げるのを念頭においていた。けれど、初めから二頭だったんだ。小川を飛び越えて逃げたときのオオカミと、俺を食らったオオカミとは別。思い返せば、あのとき追いかけて来ていたオオカミは川にダイブしたはずなのに、俺を食ったオオカミからは水の臭いがしなかった。
今回もそうだ。上から一方のオオカミが追い込み、森の外側から回ってきていたオオカミで仕留めるつもりだったんだ。二頭のオオカミのチームプレイ。
でもやられてたまるか。まだ俺はやれる。
バイクのように体を傾けて方向転換し、さらに森を駆け回る。オオカミとの距離は近い。木を壁に攻撃を回避していくしかない。
一頭のオオカミが俺にばかり気を取られていて木の根に足を引っかけ、盛大に転けていった。ただのオオカミだが迫力が凄い。昔見た恐竜が出てくるような映画の迫力だ。
体格の差による感じ方の変化を置き去りにするように、俺はまた後ろ足で地面を蹴っ飛ばす。横から来た一頭は転けて追い付けない。上からのもまだ余裕がある。これならいける。
「ふっふっぶぅ……」
小動物の心臓が途切れ目がわからないほど連続して鳴っている。苦しいという感覚は少し遠い。体が熱く、なんでもできそうな高揚感が気持ち悪い。アドレナリンなのか、草食動物特有の感覚なのか。いや、火事場の馬鹿力というやつかもしれない。文字通りの、火事場で死ぬ気なんだから。
背後のオオカミ二頭の呼気が遠ざかっていく。この雰囲気は諦めてくれたのかもしれない。
それでも万が一を警戒して、俺は背後の音にだけ気を遣うように両耳を傾けながら遠ざかり続ける。
何百メートル走ったのだろうか。それほどの逃避行の末にようやく足を止めると、疲労と緊張から解放され前足からがくりと倒れていた。
逃走成功。第一関門は突破か。初心者への洗礼にしては、中々レベルが高かった。それにしても、このウサギガチャは当たりだった。筋肉が程よくついていて速度が出る。良いもの食べてるんだろう。
頼もしい白斑の前足を眺めると誇らしい気分になる。この足が俺をオオカミから遠ざけてくれたのだ。
「ふぅ、ぶぅ」
オオカミからは逃げ切れた。あとはこの森を無事に抜ければいい。簡単ではなくてもオオカミよりは……。
ガサッ……。
獣の……臭い?
唐突に湧いて出たのは獣の臭いだった。上からではない。今も下から上に向かって吹き上げるよう風が吹いている。なので今しがた振り切ったオオカミのものではない。
上から下にと森がざわめいた気がした。異様な静けさは逆に不自然で、世界が回るような感覚に陥る。
音を拾い振り返る。――木陰から影が現れた。オオカミだ。さっきの二頭とは別。現れた方角も臭いも違う。
「ぶっ……」
後ろ足を擦りながら後退る。すると、今度は背後から音が聞こえた。足音だ。隠すことさえやめた存在感のある足音。
右を見る――オオカミがいる。左へ踏み出す――オオカミがいる。前にも――後ろにも……。
合計五頭。食事を前に溢れた涎が落ちる。それが葉に滴る音をウサギの耳は嫌なほど鮮明に聞き取った。
何で、何でだ……。俺は逃げ切ったんだ。オオカミから。それなのに何で別の群れに囲まれている。
ナイフとフォークを両手にしたオオカミに四方を囲まれたテーブルの上で鎮座しているような感覚だった。生き物としてじゃなく料理として……。
急いで頭だけを動かして周囲を見渡す。機敏に動けるウサギでも包囲された状態から逃げるのは難しい。近くに木はある。あの根の隙間に逃げ込める隙間があるかどうか……。
不思議の国のアリスよろしく幹の下に異世界へと続く穴でもあれと飛び込むしかない。なお、異世界へ続くウサギ穴は期待していない。深めの穴でさえあればいい。
他の選択肢全てにバツを付けて、木の根元に隠れることだけに集中する。狭まった視界の中央にあるのは、たわんだような太い木の根。小さなシェルターの入り口のように思えたその裏を目指して、オオカミの声を無視して駆け出した。
一斉にオオカミが動き出す。しかし、一歩先に俺は木の根を飛び越える。完璧な距離感。木の根と根の間には穴。その暗闇に体を落下させる。
「ぶっ……」
思い描いていた落下よりも幾分も優しい衝撃に安堵はしなかった。むしろ逆だ。骨が折れるぐらい落下してくれたほうがよかった。衝撃が少ないということは穴が『浅かった』ということなのだから。
穴の縁からオオカミが焦ったように顔を見せた。しかし、その表情も穴を覗けば歓喜に変わる。自らまた食器皿に収まってくれたのだから。
ダメだ。ダメだ!
オオカミの口が突っ込まれた。ギリギリ腹に牙は届かなかったが、その唇が優しく腹を撫でた感触でパニックになる。
地面に体を押し付けて、もっと下へと祈り続ける。しかし、動かない。ただ、地面に精一杯張り付くことしかできない。
次の攻撃がやってくる。無我夢中で爪を振ると鼻の内側を傷つけたのか血が一滴、ポトリと隣に垂れた。
諦めろ。諦めろ!
そう願うもいっそう激しく口を開閉させながら、頭が侵入してくる。徐々に……徐々に……。縁から土が崩れ穴が広がる。近付いてくる。腹を食い破る牙が。
落ちてくる土が恐怖を呼び込む。頭を捩じ込むオオカミ。抵抗できない弱者の俺。
ああ、またか。
夢の世界から現実世界へ。引き戻される……引き出される。
痛くはあっても痛みではない。俺の心をトラウマとして傷付けるのはその光景なんだ。体が失われていく光景。食欲を向けられる恐怖。
死にも様々な形はあるだろう。穏やかな死。唐突な死。長く苦しむ死。残酷な死。今回のものは二度死んだことのある俺の中ではもっとも残酷な死。
「ぶぎゅっ……」
あぁ……ぐっ。このウサギ当たりだったんだけど……な。
暗がりに落ちる俺の視界。そこには自分のものではなく、ただのモノへと成り果てた白い斑のある黒い足がこれ見よがしに見せつけられていた。




