3 最初の帰還
チクタク。チクタク。
突如として音が切り替わる。夜空に浮かんでいた月は消え、目の前の木製の置時計が九時を示している。水っぽい死の音はなくなり、単調な時計の針の音が意識を叩く。
「はぁっ。……はぁはぁっ」
――腹の内側が熱い。かっさばいた腹の中に赤く火を宿した炭を入れて縫い付けたような痛み。
そんな体験と記憶が、万全な肉体へと帰った有畑奏真を襲い、背を丸め腹を押さえさせる。
――死んだ。死んだんだ。経験があるからわかる。あの死の淵を渡る感覚。そこに捕食という人間のときには向けられなかった意思の矢印を向けられながら、魂と肉体とを繋いでいた何かを牙によって引き裂かれた。
《転生ポイント6》 《生を諦めますか?》 YES NO
見開いた目には転生して最初に目にした文字が浮かんでいる。白い背景に堅苦しいフォントの文字。二度目となるが何一つ代わり映えのしないそれが、視界とも呼べない視界の中で、眼球に貼り付いたように俺に訊いてくる。
《このまま死ぬ? それとも生きる?》
キツい。――これはキツい。
転生を繰り返して強くなるはずのストーリー。その最初の挑戦で、俺は異世界だという情報だけ持ち帰り、成長の糧となる転生ポイントも貯められずに死んだ。
――何度も死ねる。繰り返して死んで強くなる。ゲームなら簡単だ。戦略としてわざと死ぬことだってよくやった。ただこれは違う。この場にこうして自分の魂が戻ってくるとしても、それまでに壮絶な痛みが伴う。癒着した魂が幾ばくかの人間性を取り残してベリベリと引き剥がされ、この場所へと連れ戻される。その痛みと苦しみの記憶はここに戻ってきても消えてはくれない。消えることはないんだ。
「捨て回って言ってもそういうことじゃないんだ……」
一度死んでから俺はこの場所に連れてこられた。だから、死ぬことに耐性ができていたとも思っていた。でもだ……
「――次は死なない。こんなのなら死にたくない。死なずに転生ポイントを貯めてやる」
《転生ポイント6》 《生を諦めますか?》 YES NO
「NO。俺は死にたくない……」
机に吐き出された俺の声に従って、焦点の合っていなかったウィンドウが消えていくのが感覚的にわかった。
*
学校や職場でやれば間違いなく注意されるほど椅子を引いて、尻というよりも腰で椅子に座りながら、視点が近くなった机の上の品物を眺めていた。
「この場所、雰囲気だけは高級だし落ち着くんだよな。寝泊まりするには少し狭い部屋だけどそれがまた味がある」
温かみのあるオレンジ色の壁照明に、テーブルの上を照らすテーブルランプ。発光している楕円形の部分は、繊維のような線が入っていて、セレナイトと呼ばれる鉱石によく似ていた。
明かり一つの差でも精神的な疲労とも関係してくるらしい。この色合いの明かりは今の消耗した俺にはベストチョイス。現に荒ぶっていた心臓が落ち着きを取り戻しつつある。
大きく息を吸って過酷な草原から、人の気配のない独自の時間と雰囲気を流れる部屋へ。美しい紫のインク瓶。青と黒のグラデーションの効いた羽ペン。それから暗い色味の木製の時計……。それらの落ち着かせることを目的としたような人工物の数々は、その役割を確かに果たし俺の鼓動を落ち着かせる。
「時間は九時か。転生前が八時。向こうで一時間を過ごして帰ってきたってことか。思い返したらそのぐらいの気もする」
羅針盤の短針を眺めつつウサギ転生を思い起こす。初っぱなの嘔吐から、水源探し。そこからウサギ仲間を見つけてからオオカミとの鬼ごっこ。そして、最後の……捕食。
「思い出しても陰鬱なだけだな。異世界転生にその感情はいらないから。いい思い出だけに目を向けていこう」
特に深くは考えずに得られた情報を目に見える形でまとめようと机の上に並んだ本へと手を伸ばす。しかし、指先は本に触れることはできずに宙を撫でる。
忘れてた。椅子と机以外は触れないんだったか。
初めて訪れたときから相変わらず触れることのできない小道具たち。観賞用の品として立派ではあるものの、こうも本来の用途から遠ざけられれば、インク瓶も羽ペンも悔しいだろう。
「まったく。何のためにこんな部屋になっているのか。転生させるだけなら、真っ白な空間にビブライアだけ置いておけばいいのに」
何事にも理由を求めるタイプだ。そのため、この場にある物にもそれぞれ何かしらの意味があるのではと疑っていた。初回は使えないが二週目に解放されるコンテンツのようなもの。その類いではないかと心の中では期待していたのだが、どうやらそれも勘違いだったようだ。ただのインテリアでしかない。
「愚痴ったところで変わらないか。あるもので考えていくしかない。さて、今回の転生で得られた情報をまとめよう。メモれたらよかったんだけどな~」
チラッ。
「見かけ倒し本がね~」
チラッ。
「……って皮肉を言ったら触れたり!」
はい! しませんね!
体ごと前のめりになって本を両手で掴もうとしたが、相変わらず空気と握手。どうやらこの空間と俺を監視している神はいないらしい。プライバシーは守られた。
「はいはい。じゃあ、わかったことを口頭でまとめようか。まあ……。得られた情報は異世界だったことと体の使い方ぐらいか」
丘の上から見えた夜空を下から照らす街並み。石膏のように白い街並みに橙色の光が咲き、機械的なものもなければ電気の明かりも存在しなかった。
「どう見ても異世界。百歩譲ればまだ見ぬヨーロッパの絶景の一つをなんて言えそうだけど、不思議なことにヨーロッパ転生よりも異世界転生の方が現実的だ」
この転生部屋に転生した事実。常識を覆すには十分すぎることが起きている。あの光景をヨーロッパなんて言えるほど頭は頑固にはなれない。
「あとは体の扱い方。こっちは教訓か。ウサギとして転生したけど、そのポテンシャルを十分に発揮できた感じはしなかった。当たり前のように四足歩行ができる訳じゃないし、当たり前のように各感覚を使いこなせた訳じゃない」
体が変わっても、その魂は有畑奏真で、肉体に対する認知度は低い。これが哺乳類などでなくなれば、より一層体の扱いに苦労するだろう。虫の六本足や軟体動物などは最早想像さえもできない。
立てていた二本の指を振る。今回学べたのはこのぐらいだろう。
「初回は情報少ないな」
初回の捨て回とはしていたが、もっと有益な情報を持ち帰ってこれるつもりだった。転生ポイントだとか、世界観だとか。それがまさか一時間で帰還するはめになるとは誰も思わないだろう。
「ウサギにとってはこれが日常茶飯事なんだろうな。適度なスリルを味わいながら毎日オオカミと鬼ごっこでもしてる。どんなメンタルで生きてるんだよ。ウサギ怖いって」
草食動物なんて食料にほとんど困らない便利な生き物ぐらいしか思っていなかった。しかし、その実、生存競争は過酷なものだ。生半可な覚悟では一日も生きられない。
椅子から立ち上がって再びビブライアの前へ。下から触れられるページを探っていって指先に当たったページを持ち上げた。
「開けるページは変わらずこのページだけ。転生ポイントの変化もなし。反対側の黒い本も開けない。代わり映えはなしか」
不満はないものの微妙な心情で肩を竦めてからビブライアを見下ろした。
またこの百二十の名の中から一つを選ぶ。まだまだ興味を惹かれるなりたい生き物は多くある。まだ文句を言うには贅沢すぎる。
「次はどうするか……クマはありか。ハチとか虫系も次の転生への繋ぎとして面白いかな」
クマは見たところ候補の中ではもっとも食物連鎖の上にいる存在だ。前回のようにオオカミに襲われることなど皆無であり、襲われても返り討ちにできるだけの肉体がある。
ハチに関しては単純に飛行能力を見てだ。針という武器もあり、ついでに群れで動く。楽しいかはともかくとして、やれることはありそうだ。
ある意味対立的で、絶対に仲良くできない二つの名前の間を指で行き来する。他の選択肢も多いが目移りはしていない。
そして、その片方を指差して口を開こうとして、荒くなる呼吸と自分の指の震えに気が付いた。
「ストップ! ストップ。落ち着こう。嫌な予感がした。もう少し慎重に推測していくべきだ。そうだ! リスポーン地点と時間がどうなってるか! これは考えていないとまずい!」
転生においてもっとも重要な点を思い出して、焦ったようにビブライアから離れた。
「時間ごと巻き戻りあの場所に転生するのか。時間が巻き戻らずにあの場所に転生するのか。そもそも別の場所にランダムに転生するのか……。それ一つで転生する生物での難易度が変わりすぎる」
時間ごと巻き戻りあの場所に転生するのであればオオカミ対策は必須。時間が過ぎているパターンでもオオカミの縄張りに転生するのでこれも同じ。唯一別の場所への転生は対応がしやすいが、ウサギ転生での予習が意味をなさなくなる。
「……だとすると、オオカミに対応できる戦闘力でクマか。でも、よく考えろ」
確かにクマであればありとあらゆる外敵に対応できるだろう。しかし、思い出すべきだ。最初の転生で転生ポイントの減少を防ぐために草食動物を選んだんことを。
「前回はウサギで転生ポイントが下がらなかった。でも肉食のクマはどうだ?」
人間のように食べ物を購入し食べるぐらいならともかく、クマとなればシカやイノシシを狩り、もしくはシャケにシャケパンチを食らわせて命を奪う。『命を奪う』この行為にどうしても俺のマイナスの勘が働く。下がらないかもしれない。しかし、その保証もない。
「今の俺の転生ポイントは6。少し下がるだけでも0になる危険性はあるか。そして、0になったらゲームオーバーって感じがするのも事実っと。やっぱりハチ転生にするか……ってのも安直か」
確かにハチは機動性があり、あの草原に転生したとしても生き延びられる可能性は高い。オオカミもハチを食べたりはしないだろう。他の生物から狙われる心配もないとは言えないが空を飛ぶ分、少ないだろう。しかし、こうも思う。ハチに転生して何をするのかと。転生ポイントを貯めるには、どうしてもハチでは難しい気がする。貢献度……この辺りももう少し調べておきたい。
「そもそもの話、転生しても飛べるかどうかもわからない。地面でもぞもぞすることになるぐらいなら、もっと動ける生き物の方がいい」
改めて本に上半身を乗せるように身を前に乗り出して、ページを上から一望する。
仮定するのはリスポーン地点が同じで時間が進んでいなかった場合。あの環境で生き残りつつ、情報を集めながら、最低限転生ポイントを貯められる生き物。
カラス……だから飛び方がわからないって。テールフィッシュ。……魚か。小川でスタートになるのかな? 食べられる以外の貢献が思いつかないけど。
明確な強みがある生き物ばかりに目を惹かれるものの、その強みはどうしても人間の有畑奏真には使えないものばかり。オオカミと接触すると想定した異世界転生。転生してから体を動かす練習なんてする暇はない。
「となると、四足歩行に慣れてる哺乳類。爬虫類とかもできなくはなさそうか」
百二十の種の半分ほどを頭の中で黒いマーカーで塗りつぶした。そこからクマを選ばなかった理由と同じで肉食の動物も候補から消す。
「草食動物でオオカミから生き残るか……。これまたキツイ縛りになっちゃったな」
結局たどり着いたところは最初の転生と変わらない。ただ、対策をして臨めるのだから以前よりはマシなのだろう。
「オオカミから逃げられる俊敏性、もしくは攻撃の通らない生き物……。サバンナでヌーがライオンにカウンター決めて、ライオンの方が逃げていくなんて動画見たことがあるけど、実際に大型の草食動物になってライオンに突っ込もうとは思わないよね」
指で一つずつ候補をなぞっていく。シカ、ネズミ、ウシ、ウマ、ロバ。しかし、どれを取っても最適とは思えない。しっくりこない。生き残れる気がしない。
「……」
動かしていた指がある生き物の前で止まった。一考してダメとバツ印をつけていたここまでの草食動物とは違う。一考して、さらに二孝して、最終的には転生候補ではなく、転生するかしないかにまで絞られる。
捨て回は存在しない。死なないため、この転生を成功させるために選ばなくてはいけない。しかし、だからこそ、あえてコレを選ばなくてはいけない気がする。
「――これからのためにも」
大きく息を穴の空いていない肺に送り込む。覚悟を決め、三十分前に受けたトラウマで震える体を抑え込む。そして……。
「――転生。ウサギ」




