2 ウサギ転生
ウサギ。兎形目、ウサギ科。小柄な草食動物。大きな耳で周囲の音を幅広く拾い、高い嗅覚で様々な危険を嗅ぎわける。さらには特徴的な足では車並みの速度で走ることができる。
「ブー」
なお、声帯はない。
歓喜の声を出そうとして鼻から空気が漏れ出した。
透き通る明るい夜空。浮かぶ月。頬を撫でる草。
あー、なんて美味しそうな草なんだろう。これが草食動物の気持ちか。ムシャムシャ。
「ウベベロロ……」
開始早々始まる嘔吐。嘔吐から始まるウサギ生活。忘れられないスタートにはなった。
えぐ味と苦味と土の臭さの張り付いた舌を前歯に押し当てて削り落として、俺は転生後初めての一歩を踏み出す。ダイレクトな土の固さが黒い前足に伝わってきた。
「ふぶっ!」
さて! 失態は忘れようじゃないか! 気を取り直そう!
今回俺が最初にウサギに転生したのにはいくつか理由があった。一つは感覚が鋭いこと。耳と鼻はかなり使えるので、転生ポイントを貯めるための情報集めにおおいに役に立つ。どんな世界で、どんな生き物がいるのか。そこを確かめなければと、転生ポイントを貯めるなんてできるはずもない。
「フッブゥ」
それに転生ポイントは増えることもあれば減ることもあると書いてあった。だから俺は減ることを恐れてあえて草食動物を選んだのだ。
人殺し……ではないが、肉食動物となって他の生物を殺害した場合、転生ポイントが減少するのではと考えている。その減点加点の線引きが曖昧である限り、どんな生き物の殺害も控えておきたい。
つまり今回は捨て回だ。情報を集めながら転生ポイントを貯めて、メインとなる生き物への転生の足掛けにさせてもらう。
そんなところで情報の整理は終了。あとは体の扱い方を試しておかなくては。これから毎日がサバイバルなら食料や水の確保は定石だろう。いや、その前にあれを確認しておくべきか。
俺は四本足で座ったまま、心中で祈りながら正面を向く。すると、正面よりやや右側に目的のものが現れる。
《個体強化》 消費転生ポイント 5 10 50 100 500
ふむふむ。これが転生ポイントの使用か。いくつか数字が並んでるし、支払ったポイントに応じて強化のレベルが変わってくるのだろう。……にしてもポイント高くない?
転生ポイントの価格のインフレに一言申したいところではあったものの、どのみち今は試すつもりはない。元来俺はこういうゲームは前半にコツコツと貯め、後半気に入ったものに全額つぎ込むタイプ。最初に強化して効率を上げるなんて話は知らない。
プルプルと多分愛らしい頭を振って、視界にあったウィンドウを消してからウサギ生活を開始する。方針は決まった。まずは情報集める。
耳の角度を変えながら背丈の高く感じる草の中を歩き回る。草が体に当たる感覚が絶妙に不快。鎧かなんかでも被りたくなる。
「ふぶっ」
目を瞑り水の音を探して耳を動かす。前に向けると虫の声。横に動かすと川のせせらぎ。耳が良いとはわかっていたが、ここまで聞き分けられるとは思っていなかった。
水の方向へえっちらおっちら。走らずゆっくりと向かっていたのだが、ウサギの歩幅で歩くのは人間的な感覚との齟齬で遅く感じ、結局は慣れない四足歩行でダッシュ。最初は人間らしく左右交互に足を動かしていたが、四足歩行の生物にとってはこれが中々体に合わない。途中何度か転びそうになってようやく左右ではなく前後交互で動かすように意識。そうして安定して走れるようになった。跳び箱を思い出す感覚だ。
ダッシュを始めて少しして、目的地の小川にたどり着いた。岸辺の波紋さえ静かな穏やかな川で、深さは一メートルほどしかない。水は澄みわたっており、底にある石の輪郭が鮮明に目に映る。
鼻を近付けて匂いを確かめる。やや自然味のある匂いはあるが異臭はせず飲み水としては十分。人間の知識を活かして、濾過だったり煮沸消毒だったりしてみたいところではあったが、なにぶんこの短すぎる指では、そんな器用な真似はできまい。文明の利器スマホのタイピングも片手では無理だろう。
まあ、この世界にはスマホはないだろうし考えるだけ無駄か。ひとまずは、今日はこの辺りを行動範囲としようか。
冷たい水で鼻を濡らしながら水を口に含む。多少砂のようなざらつきがあったりはするが、味は正常値でむしろ涼しさと清らかさが相まって極上とさえ感じる。腐ったり、不法な汚水の垂れ流しだったりの心配はない。
扱いきれない体で顔を濡らしながら時間をかけつつ水を飲み終えて一息をつく。
今日はキャンプをするにしても、近い内には人里には降りたいな。流石に衛生面的にも野宿ばかり避けたい。それに……。
水源近くに生えた丸い葉をした植物を前歯で切り取る。それを口の中ですりつぶして、苦味と臭みをふんだんに舌の上に乗せる。
「ハムハム……ブゥ……」
食事が不味すぎます。何とかしてください人間様……。
どこのどの草を食べても不味い。ウサギなのだから耐えるしかないのだろうが、それでも人の味を知っている俺からしたら苦しすぎた。精進料理でもいいから人の手が加わったものを食べたい。このままだと栄養失調へ真っ逆さまだ。
「……ふっぶぅ」
まあ、なんて本音はさておき、転生ポイント絡みで人間と接触したいんだけど。
転生ポイント=貢献度。ここまではいいのだが、その貢献度がどんな代物なのかはいまだに謎のまま。たとえば、募金をするだけでも社会貢献とも言えなくはないだろうし、働くこともそれに近しい意味合いで貢献度とも取れる。
元来この魂は人間として生まれ落ちたもの。貢献するのであれば、人に貢献する方がやりやすい。二十世紀の知識を使った文明の発展、治安の向上などを目指していく。それが転生者の俺の作戦だ。
ウサギでやることなのかとかは言わないように。選択肢に人間がなかったのだから。今回は優秀なペットとして人々を導かせてもらう。
目印はつけずに小川を沿って歩いていく。水辺の近くには生き物が集まりやすいというのが前世の俺情報。同じウサギを探して意志疎通をはかり、人里を見つける。
探し回ること十数分。第一村人を発見した。白い斑点が手の先にあるが、水面で見た自分の姿と基本的な特徴は一致する。同種のウサギだ。
小川に背を向けて草をはむはむとまるっこい口でむさぼるウサギの方へ。俺は片手を上げて挨拶のポーズ。
やあ。
そんな気楽な感じの挨拶に、ビクリと体を震わせてこちらを真っ黒な眼でウサギは見ていた。感情がわからない。あのウサギなに考えてる?
「ふしゅー」
なんか言ってるような気がする。でも、通じないな。どうやら異世界転生特有の万能自動翻訳ツールは付いていなかったようだ。あれって思ったより便利機能だったんだようだ。
俺はウサギに近付いていく。どんな生活を送ってるかぐらいなら言葉がなくても伝わるだろう。
そんなときだった……。
「きゅあ!」
ガブリ。
いった!!
唐突にウサギが俺の首元に噛みついた。あの齧歯類のような削ることに特化した歯で噛まれてみろ。痛いなんて話じゃない。体が千切れるんじゃないかと恐怖して、手でウサギを叩いて遠ざかる。
首と肩との間のヒリヒリとした痛みに豊かとは呼べない表情筋を動かしてしかめっ面。藪から棒に噛みついて来るとは。
低く姿勢を構えて、その感情のわかりにくい黒瞳でこちらを睨めつけるウサギ。体格はこちらよりも上、さらには攻撃的な性格。
縄張り意識からの実力行使だろうか。はたまた単純に気の弱そうな俺で遊んでいるのだろうか。どこに行こうと、種を変えようとこういう手合いはいる。他者をまず敵と捉え、そこから相手の実力を見極め強いたげるか下に付くかを判断する者。このウサギはその類いだろう。
やれやれ、異世界に来ようとそういう常識は変わらないか。であれば……。
「ぶふっ」
そんな後ろ向きになるような、前世に尾ひれを掴まれたような思考は必要ない。今俺は異世界にいる。俺としてではなく、ウサギとして新しい命として。だったら実力行使をさせてもらおう。
警戒するウサギの背が低くなる。俺の視点が上がったのだ。
俗に言うところの威嚇行動。あちらさんは低姿勢でいつでも飛びかかれる姿勢を取ったが、奇しくもそれはこちらと真逆の選択となっていた。
持ち上げられた前足、伸びた背。不器用に組まれた両前足。人間に許され技術であり、ある意味現世の知識を武器にした手腕。
つまり仁王立ち。
おそらくこのかた同種として見たことがないであろう動きに、挑発的な態度だったウサギも唖然とする。そして、毛を逆立てるよう震えてから、それこそ脱兎の如く駆け出した。
「ぶぶぅ」
これが勝利か。自分の権威だけを弱者の前にひけらかす。ふっ、なんだやっぱりむなしいだけか。
自分の感情任せだった行動に少なからず後悔を覚えた。わざわざこんな風に追い出すような真似の必要はなかった。目的は情報。次出会えるかもわからない同種相手に、ひどい真似をしてしまった。
反省は……しよう。
そう思うと耳が感情に左右されて上下する。反対方向を向いた耳からは意識的に薄く吐き出しているであろう息遣いが入ってくる。
ん? 息遣い? 第二村人?
――そこにあったのは微かな息遣いだった。興奮を抑えるために口や鼻の中に一度呼気をぶつけて吐き出したような静かな呼吸音。自分のものではない。俺は武人でも暗殺者でもないのでそこまで気を遣った呼吸はしない。
川を沿って振り返る。その時には獣の臭気も感じられた。じわり鼻先から広がっていくような砂と太陽と汗が混ざりあったような臭い。――近い。――とても近い。このあまり良くはない丸い目でも捉えられるほどに。
草と草の間に隙間があった。さっき俺が鼻で押し分けて通った隙間。そこからこのウサギの鼻よりも大きなトパーズでも埋め込んだような黄色い目が二つ。片時もこちらから意識を放すことなく見つめている。
黄色い目。細い瞳孔。鎮められた身体機能の内に暴れまわる興奮。
「ばっふぅ!!」
オオカミだ!!
今度は俺が脱兎の如く地面を蹴りつけた。小川の近くは草花が踏みつけられたようにペタンと地に寝そべっている。そのせいで障害物に妨げられることなく走ることはできる。しかし、それは相手も同じこと。硬い爪で地面を掴みながら、ウサギよりも大きな巨体を揺らして獣臭い息を吐く。
使い慣れない体だがなんとか動く。耳を後方に向けて音を拾ってオオカミの位置の把握。まだ距離は開いている。気付くのが早くて助かった。ただ、どこまで逃げればいい。スピードは残念なことにオオカミの方が上。嗅覚もあるだろう。安易に茂みに隠れるのも難しい。
瞬時に横に付いた目で小川を確認。流れの遅い小川では六つほど岩が水面から頭を出している。各々五十センチほどの距離で対岸まで都合よく続いている。
足場は小さい。オオカミでは乗れない。
――行くか。
体を斜めに寝せて進路変更。草をうまく爪の先で捉えて、確かな足場を蹴り付けて斜めに跳ねた。
背後で草を掻き分けながら急ブレーキをかける音がしたがおちおちと振り向いている余裕はない。このまま突っ切る。
小川の全体の幅は五メートルほど。深さはウサギの体になったお陰でかなりあるように思えるが、ウサギ等身十ぐらい。オオカミでも泳がなくてはならない深さだ。
そこに小さい岩が最初に二つ。この足場はウサギ等身一ぐらい。その向こうにあるのはちょっとした停留所のような広い岩場。そこからほどなくしてまた小さい岩が三つ並んでいる。
第一歩。滑らかな白い岩場を目指してジャンプ。足の下を夜空を映した水面が流れている。あまりの美しさに足でソフトにタッチしてしまいたいが、そんなことをすればオオカミがその牙で俺のお尻にハードにタッチする。
過ぎ去る水面から白い岩肌が見えた。そこに前足を着けてそれに寄せるように後ろ足を乗せる。
成功!!
後ろでバシャンと音が聞こえた。今度は余裕があるので振り向くと、岩へのジャンプを諦めたオオカミが川に飛び込み犬かきをしている。
作戦成功! 次だ!
今度は小さい足場から助走なしでのジャンプ。後ろ足が微かに冷たい。着地の方を失敗したからだ。それでもまだ問題ない。距離は少しずつ開けている。
あとの三つは簡単だった。リズムよく止まることなく、四度跳ぶ。最後の頃には足の動きを意識しなくとも、本能的に動けるようになっていた。
「ガルル……」
鼻先を天に向けて、必死に追いかけようと犬かきをするオオカミ。やはりオオカミではなく、小動物を選択して正解だった。
哀れなオオカミにさよならして、ウサギを堪能するように跳ねるように草原の中へ姿を隠して逃げのびた。
頬を過ぎ去る草花にも慣れてきた。重なっていた音が少なくなってきた。濡れた獣の臭気も消えて、荒い息遣いも自分の鼻息以外聞こえなくなる。
開けた場所が近づいている予感がする。どこかあちらの夜空は明るく見える。
ほどなくして一面の緑が破られた。顔や体に植物が纏わりつかない解放感。ただただ青いだけの空気。風が背丈の低い芝生のように咲き誇る青い花を乗せて踊り子のように舞う。その青い風の向こうに見えたのは……。
――来たんだな。やっぱり。
人々の夢を灯した電子とは異なる明かりを宿した街。雑居ビルは存在しない。遠目に見える街は縦ではなく横に広げられた街。
――スマホはない。――電波塔もない。――魔法と剣で生きる世界。
胸が縮むような感覚がある。感動なのかそれ以外なのか。非現実的な目の前の光景が現実的な衝撃となって胸を圧迫している。
街が霞んだ。一つ一つの明かりが十字に伸びる。
「ぶ……ぶう」
異世界転生。やはり俺はここで生きていく他ないようだ。
途端景色が傾いた。現実と受け止められずに視界が歪むとかそんな話ではなくだ。
「……ぶっ」
ナンダコレ……。
「ルル……」
喉に当たる鋭利な感触から獣臭さと鉄臭さが漂ってくる。青い花の散る美しい景色に赤い花弁が散っている。
「ぶぐっ」
その現象の原因となっているものへと目が走る。灰色の毛を俺の血で汚したそいつは……。
……っオオカミ! 逃げきれてなかったのか! 痛い……。首っ……。
外側の表面の痛みは麻痺でもしたかのように存在しない。あるのは内側の痛み。突き刺さった牙が神経に触れて全身が引き攣る。喉に血が溢れて咳き込むように吐き出すが、それでも足りずに内側で血が溢れていく。
腕をバタつかせて踠く。何とかして逃れなくては。死ぬ。急いで逃げて止血をして……。
俺の前足の爪がオオカミのどこかを引っ掻いた感覚があった。そんな決死の一撃も体格差を前にものともされず、しかし邪魔とぐらいには思われてしまい、乱暴にオオカミの頭が振られた。
視界が揺れる。何度も揺れて……揺れて……。
ゴキッ。
何だこの音。内側から。おかしい。変だ。カラダガ動かナイ……。
内側から聞こえた軽い音。おかしなことにそれが聞こえてから頭より下が動かなくなっていた。痛みは消えた。けれど、逃げる足は動かない。その足を見て気がついたのは見え方の差だ。さっきまでこんなに近くに足があっただろうか。
ただ上を向いた右目の上で、俺の血で灰色の毛をぬらりと汚したオオカミが涎を溢して口を動かしていた。
やめろ……待っ……。
ぐちゃりとみずみずしい音と、引きちぎられる音が響く。意識のある中で、俺は俺の最後を見ることしかできない。痛みの中で、動けない中で食われていく。自分の体をただ死ぬまで諦めたように見つめて……。
――目が閉じた。――暗転した。そして……。
「死んだのか……」
《転生ポイント6》 《生を諦めますか?》 YES NO
俺は最初の部屋に戻されていた。




