26 レア
白い手。赤い血。黒いドレス。
血が溢れている。血で濡れている。元から黒いはずのドレス腹部は、レアの赤い血を吸い込みまた一段と深い黒色に染まる。
広がる。広がる。じわじわと。そのくせ早く広範囲に。取り返しのつかない命を溢していく。
「レ、レア……」
目だけが唯一動せた。非日常的な出血が目の前にある。その光景にトラウマがフラッシュバックする。包丁を突き刺され引き抜かれて、体の内側の神経という名の糸をやたらめったら引っ張られ引きちぎられた痛み。フローリングに不思議なぐらい静かに音もなく広がっていくあの血。俺の……有畑奏真の死に際のあの記憶。
駄目だ。――死ぬ。死ぬんだ。このままだとレアは死ぬ。
「あぁぁぁぁ!!」
すでにゾンビへの恐怖なんてなかった。ただ本能だけでレアの伸ばしていた手首を掴み、もう片方の手で魔道四輪のドア枠を掴んでから、魔道四輪の中へと目一杯引っ張りあげる。レアの体が魔道四輪の中に引き込まれるが、それでもレアの腹に突き刺さった腕もついてくる。
「こっの!」
俺はレアを引っ張りあげながら、その後ろにいた敵の胸元に蹴りつけた。
「うぅぁ」
二人分の体重を乗せられ、足場として蹴りつけられたゾンビは、押し出されて赤く染まる手を引き抜きながら魔道四輪の外で尻餅をつく。
今だ。今しかない。にげろ。逃げるんだ!
レアの血が魔道四輪の床に付着する。パレットの絵の具が塗り広げられたような、ムラのある赤い線が残って生々しい。そこに加わる血の臭いで、胸の中身が迫り上がる。しかし、それも噛み締め人力でドアを閉めてから、無力な俺はただ叫ぶ。
「レア! 頼む! 魔道四輪を出してくれ!」
「ふー。ふー。わかった……よ」
一瞬レアの右手に嵌められた指輪の宝石が光った。すると、次の瞬間大きく体が揺さぶられ急発進が開始する。
作用反作用で座席にレアが体をぶつける。俺も同じ様に体勢を崩しかけるが、何とか窓際にしがみつく。まだ終わっていない。ここで油断はできないんだ。
あいつは……どうだ?
急いで窓に張り付いて、過ぎていく夜間の町並みを睨みつける。通りにポツリと立ち尽くすゾンビの姿。追ってくる様子もなし、こちらを気にしている様子もなし。
速度で劣るから諦めたのか? それとも俺の蹴りやレアの攻撃の傷で動けなくなったのか?
一瞬も瞬きもせずにただゾンビの動きだけを見つめ続ける。しかし、それも魔道四輪が道を曲がり、建物の影に遮られ終わりを迎えた。
……魔道四輪の速度には追い付いてこれないか。
窓枠を掴んでいた腕に頭を預けて大きく息を吐く。興奮と怒りで過労中の血液で熱せられた空気が、喉をヒリヒリとさせながら口から漏れ出た。
「いくらゾンビでも乗り物には追い付けないよ。にしてもねぇ。やれやれ。あの状態で目的を果たそうと向かってくるなんて。忠実なゾンビだよ」
「レア!」
そうだ。まだ油断なんてできない。今は一刻を争う事態の最中だ。
「しゃべっちゃ駄目だ。その出血普通じゃない」
「ああ、これかい」
レアが押さえていた腹部をチラリと見せる。そのあまりの状態に、全身が拒絶するように強張った。
傷なんて優しいものじゃない。穴だ。穴が空いていた。赤く塗られた肌の中心に空いた、黒々とした楕円形の穴。
場所は左脇腹。背中方向から腹部への貫通。漫画やアニメなんかではよく腹を貫かれているシーンは見かける。そこで培われた感覚がどれだけ麻痺していたか今実感した。あれは超人の世界。穴が空けばその内側の内臓はぐちゃぐちゃ。どこを塞げば血が止まるのかもわからない。
「このぐらいなら問題ないさ」
「そんなわけないって」
傷口を押さえないレアの代わりに衣服の端を破って傷口に当てる。血が染みて布の色が一瞬で赤く染まる。そのあまりの出血に急にレアが遠くの存在に感じられたが、俺はその不安を必死に頭の外に投げ飛ばす。
医者がいる。傷口を圧迫したって内臓が傷付いていたらどうしようもない。一刻も早く傷口を塞いで輸血をしてもらうしかない。
「病院の場所がわからない。レア。病院まで走らせられるか?」
「魔道四輪は……一度決めた目的地にたどり着くまでは進路を変更できない。それにボクには医者は必要ない。ファブロスにさえ着ければどうにでもなる」
「魔道具っ! 信じる! 信じるから! だから、死なないでくれ! 約束……したんだからっ!」
「商人は約束を守ってこそだよ」
レアがややぎこちなく笑う。頬の筋肉も目蓋もうまく持ち上げられないんだ。目だってそう。見えているように振る舞っているが、ほとんど見えていない。瞳がこちらを向いていても、その焦点がずれていて、俺らしき影と会話しているのが伝わってくる。
傷口からの血が温い。不潔だとか、感染症がだとか、普通なら気にしてまず迷う。でも今はそんな気なんてない。手一つが汚れるだけでレアが助かるならいくらでも汚してやる。
片手で強く腹部を押さえ、もう片手でレアの手を握り身を寄せる。レアの体温が低く感じる。呼吸がいやに静かで不安になる。
それだけしかできずに魔道四輪が進んでいく。窓の外なんて見る余裕はない。目を離したらレアが目の前からいなくなってしまいそうだから。
頼む。着いてくれ。間に合ってくれ。
俺から仲間を奪わないでくれ。
「だから早く!!」
ガタン。
我慢できずに叫んだとき、魔道四輪が止まっていた。くそっ! また異常が起きたのか? だとしたら今度はもう……。
「到着だ」
「えっ」
俺がレアに聞き返すよりも前に魔道四輪の扉が開く。見るとそこでは、いつの日かに見た宙に浮かんで発光する立方体が、少し前の地獄とは無縁に呑気に揺れていた。
ここ。……ファブロスだ。間に合った。
「……悪いね。エリゼちゃん。どうにも歩けそうにないんだ。手を貸してくれるかな」
「魔道具が必要なら取ってくる。場所を教えてくれ」
「店内のほうが安全なんだ。お願いできるかい?」
「……」
無闇やたらに怪我人を動かすのは駄目だと聞いたことがある。いや、そんな常識がなくともこんな状態のレアを動かすのは気が引ける。けれど、レアの言葉は事実で、ネクロマンサーに襲われたあとだからこそ安全確保も重要だ。
「わかった」
傷口に負荷をかけないよう慎重にレアの体を下から支える。大柄なわけではないが、力の抜けた人の体一つだ。華奢なエリゼの体では辛いところではある。
でもやってやる。体はエリゼ。中身は有畑奏真。魂で体を動かせ。
「くっあぁ!」
レアの幾分か軽くなってしまった体を魔道四輪から下ろす。扉は開けっぱなしで放置。ひたすらファブロスの飾られた扉を目指して足を前に動かす。
「はぁ、はぁはぁ」
キツイけど。レアよりはキツくないだろ。諦めずにあと一二歩。一歩!
手摺を使わずにファブロスへの短い階段を上り遂げて、そのドアノブを赤く汚しながら店内へ。数日前と変わらない空気感。魔道具の配置も、天井を泳ぐ白い魚も。何も変わっていない。けれど、ひどくこじんまりとした印象を抱いたのは、その店主が失われようとしているせいだった。
慎重に。それでいて迅速にレアを床へと横にならせた。タオルの一枚でもひきたかった。けれど、そんな余裕はない。
「はぁ、はぁ。……レア。これで大丈夫。あとは魔道具。どこにあるのか教えて。ヒールの魔道具」
「ごめんね。エリゼちゃん。嘘をついた」
……嘘? 何の?
「いや。あー、あれか。表には置いてないってことか。裏でも倉庫でも取りに行くから」
「ないんだよ」
「だからそれを取りに行くって」
「ないんだよ。この傷を治せるような魔道具は」
「だったら! 魔道具じゃなくても、人でも化物でも、何でも持ってくるって!!」
レアから離れて棚を探す。茶色い箱から道具を取り出して確認。これは違う。こっちはどうだ? 違う。獣避け。これは……保存。
掘り出し物でも何でもいい。完全に塞がらなくとも何度もかけ続けて延命させて医者に見せればいい。異世界の医者だ。きっと魔法がある分腕だっていいはずだ。だから、だから……。
手を滑らせて持っていた魔道具が床を転がる。割れるような代物ではない。けれど、別のものが確かに割れている。
「約束……しただろ。死なないって」
「そうだね」
「もっと商人としての威厳を持ってくれよ」
膝が砕ける。できることがあるはずと信じたくても、動けば何か変わると思い込みたくても、どうしようもない現実がある。変えられない結果が目の前にある。
出血が落ち着いてくる。けれど、安堵はない。出血が落ち着く。それはつまり、心臓から押し出される血の量が減ってきているということ。心臓の力が弱まっている証なんだ。
レアのアメジストのようなクリアな瞳がくすんでいる。霧でもかかったかのように。それが耐えられなくて、俺はレアを手を力強く握る。せめて俺の力が分け与えられろと。
「やれやれ。誤算続きだ。君に」
レアが俺の頬にそっと触れる。その手袋に俺の頬の水分が吸われていく。
「こんな風に泣かれるなんて」
「そう思うなら死ぬなよ。なにがなんでも、どんな手を使っても生き延びろよ。……頼む。……お願いだから」
「先に伝えたいことがあるんだ。ノルデバルデン侯爵。彼について話していなかったことだ」
力なく、抑揚なくレアは語る。弱っていく姿がわかるんだ。温度。顔の色。表情。力の入り。声音。それがただどうしようもなくて。
「今は俺なんかのことよりも」
「彼がダラグリア魔法帝国を裏切り領地ノードの住民を殺した話だ」
確か魔眼の魔法のために国を裏切って領地を見捨てた話だったか。でも、そんな話今しなくたっていい。今は一秒でも長く生きてほしい。
「――殺された住民は全員が魂性術師だった」
「……は?」
魂性術師?
聞くつもりがなかったのに、唐突に繋がってしまったネクロマンサーとノルデバルデン侯爵の話に意識が飲まれる。もういいと口を閉ざさせることもできず、俺は聞き耳を立てていた。
「領地ノードでは魂性術の研究が許可されていた。けれど、ロレール魔法王国に領地を奪われて立場が変わったんだ。この国では魂性術師は忌みもの。処分の対象。大人も。子供も。全員が」
淡々とレアは語る。この声は体の弱り具合とは逆で重く強い。
「住民百八人が死亡。しかし、たった一人だけが生き残った。人という盾によって、ノルデバルデンのその視線から守られた一人が」
「それが……俺を狙ってるネクロマンサー。いや、でも」
目の前ではレアが死にかけている。それなのにどうしても俺の頭が推測に回ってしまう。だとしたらと。
ノルデバルデン侯爵とネクロマンサーの関係性。――復讐。
「だからごめんね。エリゼちゃん」
「隠していたことを謝ることなんてない! だって今教えてくれ……」
「怖い思いをさせたね。君を洞窟に放置したのは間違いだった」
…………。
「は?」
――は?――
時間が止まる。死の感覚も。恐怖も。悲しみも。全部が全部が止まり世界が一瞬灰色に包まれる。
理解できない。今レアは何て言ったんだ? 洞窟? 放置? 何の話をしているんだ?
「いや、いやいや。違う。どうしたんだよ。今はそんな人を弄ぶような言葉を言う場面じゃないって。レアが助かる方法か、それか……」
「言っただろう。ボクは絶対に死なないって」
数分前に俺を安堵させたはずの言葉が、今の俺の背筋に悪寒を立ち上らせた。同じ言葉だ。同じ意味だ。ただその捉え方が以前とは違って正確になっただけ。
レアの死に際に甦るのはレアとの思い出じゃなかった。浮かび上がってくるのはある朝の一幕。紅茶の香りと新聞を捲る音。そして、俺に丁寧にネクロマンサーについて教えてくれたテレーゼの言葉だ。
『奴は元からある肉体を使わずに、肉体そのものを作り出している。人間の肉体として使用できるほどの肉体をだ』
この手に残る血の匂い熱は本物だ。このレアの表情も言葉だって本物だ。この死の形だって本物なはずだ。それなのに。
洞窟で傷を負ったエリゼの手のひらに巻かれた包帯。自分の血とは別の血で汚れたその手の下で、レアの目蓋が静かに下ろされる。体が脱力し、意識したときには胸の浮き沈みがなくなっている。死んだ。死んでしまった……ばすだ。それなのに。
「さて、じゃあ、そろそろ本題に入ろうかな。エリゼちゃん」
聞き慣れた声が聞こえた。横たわる死体からじゃない。全く別の場所から。ある意味の定位置から。
そういうことだ。そういうことだったんだ。
引きつらせながら顔を上げる。雑多な商品棚の間を縫って、通路を視線が走る。見上げた先には跨げそうなほどの高さのカウンター。その両端に飾られた商品の間で、大きな黒い帽子から垂れた装飾が揺れた。
シルクのように滑らかで薄いレースを漂わせる黒いドレス。黒い手袋を纏ったまま組まれた指。そして、頭を傾けながら斜めに垂れた帽子の装飾の下から見せる紫の瞳。
――レアの死への悲しみなんてない。――レアの生存への喜びもない。なにせ、この死自体がレアの彼女の作り出した絵だったのだから……。
そして、レアは言う。俺が一番そうあってほしくなかった展開を裏付けるように。
「エリゼちゃん。君はネクロマンサーかな?」
それは、洞窟でエリゼに対してネクロマンサーから向けられた言葉と一言一句変わらない言葉……紛れもないネクロマンサーの言葉だった。




