15 ギードの助言
裏路地という名のこの街の裏側を走り回り、行き着いた先にあったのはあまりにも普通の民家だった。灰色の石材を積み重ねて建てられた家。相変わらず狭い通路に面した色味のないその一般家屋Aがギードの自宅だった。
家に入るとこちらもまあ地味。玄関や廊下はなく、ただのワンルーム。その中身も壁の付近にベッドやら椅子やら棚やらの家具がある程度で、花の一輪も調度品の一つもない。加えて人の通れないほどの間隔にある近隣の建物のせいで、昼間にも関わらず窓からの光がほとんどなく、より一層貧相な質感を生んでいた。
異世界の幻想ってことごとく砕かれていくなぁ。
「……家に女を連れ込むの久し振りだな。掃除してないけど許してな」
「掃除のほうは許すけど、前置きのほうは許さない」
「家に女を入れるのは久し振りだな。若い女は始めてだ」
「やり直して改善されたと思っていないよね?」
不快な気持ちを味わって目元に力を入れる。それでもギードの発言一つでへそを曲げて外に出るなんてことはしない。こちらを探しているであろう三人組のこともあるが、そもそもギードにそんな下心がないことがわかっているからだ。純粋に最低なことを口にされているだけ。あれ? そっちのほうがたちが悪くない?
微妙な心情になって、結局はエリゼの教育に悪そうな発言に対して目を細めるだけにしておいた。エリゼとして嫌がるのではなく、娘を守る父親の心境が近そうだ。
「あー、はいはい。ごめんって。特に深い意味はないようであったかもしれないけど、今はいいや。それよりもその犬も家に入れるのかよ。うんざりなんだけど」
「三日間も慣れ親しんだ仲でしょ」
「看守と罪人みたいな関係だけどな。まあ、外に置いててもそれも面倒だしいいけど」
探し犬であり、ギードを三日もあの場所に滞在させる原因を作った犬でもあるぺぺは、被害者を前にお気楽にあくび。それにギードが口許をピクリと動かした。嫌悪か怒りかはたまた恐怖か。何かしら思うところはありはするんだろう。
とにもかくにも無事にペペは確保。当初の目的だった犬捜しは達成だ。今のところ転生ポイントの獲得の表示はないが、それはまだ依頼主の元まで連れて帰れていないせいだろう。ミッションの未完。そういうことだ。
「ぼーっとしてるな。考え事か?」
「いや、別になんでもないよ」
いつの間にか部屋から頭の中の景色に移り変わっていた俺を、ギードが高い背を曲げて覗き込んでいた。その声に引っ張られて首を傾けると、目の前の内容が現実として帰ってきた。
「外の奴らが諦めるまでゆっくりしとけ。夕方には送ってやるから」
「ありがと」
ギードは扉に簡素な鍵をかけてから、ギリギリ見えるぐらいの明るさの部屋の中を進んでいき、壁の魔道具に明かり灯した。緑色の明かりという、照明のカラーとしては珍しいそれは、追われていたという事実をほんの少し遠ざけて、体感したことのないような神秘的な雰囲気を放った。
落ち着いて周りのことを気にしなくなると、いろいろ来るものが来るね。足の重さ。体の怠さ。掴まれた腕と頭に残ってる熱。腹も減った。喉も乾いた。こういうときのためにポーチにちょっとしたおやつと水を入れていたか。
「……あ」
肩掛けポーチを探して手を伸ばしたが、掴めるものは衣服だけ。
そういえば取り上げられてた……。あの盗人め。
最初の最初に賊にポーチを奪われて荷物を漁られていた。エリゼの持ち物は大切に扱おうとしていたが、早速失くしてしまい二重で肩を落とす。
「それでも今は命はあったって割り切るしかないか。ねぇ、ギード。水貰ってもいい?」
「ああ。ちょっと待て。はい。椅子と」
「ん?」
「テーブル」
部屋にあった椅子が滑ってきて目の前で停止。そして、その前に音を立てて置かれるのはギードに背負われていたテーブル。
「……」
テーブル。テーブルではある。ちょっと三日ほど外出していて、ちょっと汚ならしい男たちの額や顎や胴体を殴りつけただけのテーブルだ。
「――あのさ。このテーブルを当たり前にテーブルとして出されても」
「テーブルの用途はテーブルだろ」
「そ、それっ。テーブルを武器にして使用法まで説明してたギードが言うことじゃないんだ!」
テーブルで攻撃を防ぎ、テーブルの脚を持ってぶん殴っていたのを見せられた。それなのに、そんな異常者から常識的なテーブルの使い方を問われてたまるものか。
「いや、でも異常者と決めつけるのも安直か。……武器がなかったから仕方なくテーブルを装備してただけもある」
「ちげぇよ。テーブルは使い道が多い。武器にもなるし、行列に並んでるときに疲れたら椅子としても使える。当然、今みたいにテーブルとしても使える」
わかった。うん。十分にわかった。
元来、有畑奏真はあらゆる事象に対して寛大で柔軟だった。そういう考えもある。そういう見え方もあると受け入れてきた。テーブルで戦うのを見ても合理的だと理解でき、用途の多さにも興味深く思えた。
別にギードの考え自体は悪くはない。嫌いじゃない。むしろ好みだ。だからこそ、受け入れた上で対策や行動を考える。
テーブルの脚……小太り男の顎に一撃。テーブルの縁……軽薄男の腹に一撃。テーブルの面……リーダーの頭部に一撃。
「汚れてなさそうなほうこっちに向けてね」
「わがまますぎるだろ。ほら、タオルやるから自分で拭け」
「よし! 洗剤、アルコール、熱湯、紫外線。外の世界の掃除の技術を結集して清潔にしてみせる!」
「間接的に俺のテーブルの用途に文句つけんなよ? 赤猫」
露骨に髭面を曲げて嫌な顔をされたが仕方がない。野生の生活を数十回と経験してきた人間ではあるが、このエリゼの体に悪影響を及ぼすようなものは許容できない。貴族のお嬢様でもあるエリゼに、人を殴り血を吸ったような状態のテーブルなんて同じ画角にあるだけでも品位が落ちる。
そんなわけで、嫌味のように徹底的にテーブルを拭きまくる。ギード、あまりの過剰さに沈黙。そして、最終的には諦めたように最初にご所望した水を持ってきて、掃除の終わり際を見定めてテーブルの上に置いてくれた。
「ほら、水だ。今度こそ文句言わずにゆっくりしてろ」
「うん。ありがとう。ギードはどうするの?」
「どうするって、わかるだろ。あんな状況だったんだ。やることは一つだ」
「残党狩り」
「風呂だよ。三日路上に放置でズボンを犬の涎で濡らしてるんだぞ。いくら俺でも恥ずかしい」
それは確かに。……羞恥心あったのか。
言うか言うまいかで悩み続けていたが、敵からの逃亡中、ギードの言いつけ通りに一メートルの距離を維持していたのだが、少し、いや、かなり匂っていた。人間っぽい汗臭さではなく、もっと別の混ざりあいすぎた匂い。生ゴミを被せてその後しっかり乾燥させたような匂いだ。それをどうやらギードは気にしていたらしい。流石にここで、いつ敵が襲ってくるからわからないから風呂に入るな、なんてことは言えない。
ベッドの下から適当に衣服を引っ張り出して、ギードは肩から背負った。
「適当に息抜きしてていいから。あー、でも食品庫は触らないでくれ。理由はわかるな?」
「プリンを取られたくないと」
「俺が三日放置されてた。同時に食料も三日放置。腐ってない俺と腐った食料。どっちがマシな匂いがすると思う?」
「絶対触りません」
冗談にならない事実が返ってきて、視界の端にチラリと残っていた木のケースの存在を霧散させた。この体はエリゼのもの。何度も言うようだが、借り物の体にそんな不衛生なものの記憶は残せない。
そんなわけでそれ以上の会話を挟むことなく、ギードは唯一あった扉の奥へと姿を消す。少ししてシャワーの音が聞こえ始めると、心なしか部屋全体の香りが良くなった気がした。
残されたのはエリゼこと有畑奏真。そして、犬こと迷子犬ぺぺ。
「……」
「ワン」
「そうだね。言われた通り自由にしておこう」
見渡す限りの退屈な部屋。遊びがない。観賞用のインテリアもない。ついでに本や雑誌などもない。地味な部屋の雰囲気は落ち着きはするもののそれだけではある。失礼だとは思うが。
やることもないので、ひとまず走って疲れた足を休めるように背もたれに体重を預ける。それほど質のいい椅子ではないのか、四足のバランスは悪く、体重を移動させると音が鳴る。
テーブル使いのギード。年齢は二十代後半から三十代前半。落ち着いた雰囲気で焦りとは無縁。
「そして、ちょっと貧乏そうか」
ざっくりとギードのステータス画面が更新される。けれど、やはり謎は多い。
改めて室内を確認。閉ざされた分厚いカーテンは物騒なこの辺りでの防犯の一環だろう。ホコリっぽい室内とデザインの統一感からして一人暮らしと予想。残りの特徴は……食品庫が二人暮らしのエリゼ家のよりもちょっと大きいぐらい。これは男女の食事の摂取量の差が原因だろう。
「ねぇ! ギードってさ。私が見たことのある中では結構強いほうだと思うんだけどー!」
やることもなくてせめて知識でも集めようと思って扉に向かって声を出す。すると、思っていたよりもクリアな声が扉の向こうから返ってきた。
「だけど? 何だ?」
「普段は何をしてる人なの?」
「冒険者みたいなやつだよ。依頼を受けて達成して金を貰う。それが俺の仕事だよ」
「やっぱりそっち系の人だったか」
出会ったときからただ者ではないと思い続けていた。テーブルを背負っている時点で、二重の意味で普通の人間ではないが、ギードはただテーブルを背負うだけではなく、そのテーブルを用いた戦闘を行える。その理由は冒険者だったからのようだ。
そっとギードの武器でもあるテーブルに触れる。本当に何の変哲もないテーブルだ。加工された滑らかな木の質感。指先に当たるような凹凸や傷は存在しない。
「それなら戦い慣れてるのも納得だよ」
「別に戦い慣れてるわけじゃないぞ。対人専門。モンスターだとか怪物相手は他の冒険者と違ってどうしようもない。スケールが小さくて俺らしいだろ?」
「それも尖ってて私は嫌いじゃないけど。想像してた冒険者とは少し違うかな。対人専門ってことは要人の護衛みたいな話なの?」
「まあな。そんな感じ」
言われてみればギードの動きは、運動神経や技のごり押しスタイルではなかった。人の動きを誘発し、人の動きを読んで戦う。モンスター相手とは少し勝手が違う。
「でも、だとしたらチャンスか」
「んん? チャンス?」
昨日の鍛冶屋との話を思い出す。武器を持ってエリゼとして戦うよりも、護衛を雇ったほうが安全という助言だ。相手はネクロマンサーで、ギードは対人戦が得意。ギードなら護衛に相応しい気がする。
「ギード。今って手は空いてる?」
「今は両手に泡を抱えてる」
「そっちじゃなくて仕事のほう」
「護衛って話か。残念だがついさっき別の仕事が入ったんだよ。……言っとくが、一日限りの赤猫の護衛とは別の仕事だからな?」
強い期待はしていなかったが、冗談を交えながら丁寧に断られてがくりと肩が落ちた。
「ちょっと残念だな。性格はアレだけど、ギードは頼れる中じゃかなり強かったから」
「性格については否定しないが、強いについては強めに否定しとくぞ。俺を護衛に雇うぐらいだったら赤猫の姉のテレーゼのほうが絶対にいい」
シャワールームから聞こえた声は淡々としていて、エリゼの機嫌を取るためでもなく、謙遜しているようでもなかった。
「……それ他の人にも言われた。ギードから見てもテレーゼお姉様ってそんなに強いの?」
「俺からってところは無視して、世界共通認識で『魔女』って呼ばれる奴は常人じゃない。今世の魔女じゃないにしても、テレーゼはそこら辺の奴とは格が違う」
今世の魔女……。また知らないワードか。
この国の知識として魔女には覚えがあった。レアから魔道具の説明を受ける際に聞いた話。最初に魔法を作り出したと言われる九十九人の魔女……原初の魔女。原初が始まり。だとしたら今世は今のだと想像できる。
「無言ってことはわからない箇所でもあったみたいだな。今世の魔女のところか?」
「よくわかったね。そう。そこについて少し詳しく」
「今世の魔女。わかりやすく言えば、原初の魔女の現代版だ」
推測するために口をつぐむ。すると、ギードはわかっていない場所があると感じたのか、補うように説明してくれた。
「一部例外はあるが、今この世界で流通している魔法はもれなく全て原初の魔女が開発した魔法だ。それを魔法使いが紐解いて使えるようにしていくんだが、ここまではわかるよな?」
「ロストテクノジーを少しづつ復活させていってるってことね。伝わってる」
「こっちに伝わらない反応だが、まあ、わかってると信じておく。でだ、その記録されたどれかの魔女の魔法を全て修得し、さらに追加でその分野をさらに発展させることができるような奴を今世の魔女と呼ぶんだ」
「つまり魔法の開発者が原初の魔女で、その開発者を越えたら今世の魔女ってことね」
「それそれ。ただその開発者一人一人が世界を動かすレベルだってところも覚えておけよ」
魔女が作った魔法の世界。国の名前からして魔法との結び付きが強いとは思っていたが、想像よりも遥かに魔法色が強い。歴史に刻まれるのが偉人の活躍じゃなくて魔法の軌跡。しかも、それが世界共通。
「ちなみに、白煙の魔女テレーゼは今世の魔女じゃない。紛れもなくこの世界で最強の白煙の魔法使いだが、テレーゼは戦闘の魔法ばかりで全てを網羅しているわけじゃない。ただ隣国の敵さんが、相手にしててヤバすぎて勝手に魔女って言い出して定着しただけだ」
「ふーん。少し意外かも」
「敵に恐れられてるってところか?」
「そこは想像通りだけど。テレーゼお姉様って魔法に関しては何でもできそうなイメージだったから」
「あー、そっちな」
落下するエリゼを受け止めたり、燃やしたり、爆発させたり、手のひら程度の人形を作ってみたりと、煙を使ってあらゆることをやっていた。それでもまだテレーゼは今世の魔女ではないのだ。俄然本物の今世の魔女がどんな人間なのか気になる。
「豆知識だが、テレーゼみたいに目的があって魔法を極める人間は今世の魔女にはなれないとされている。今も昔も魔女になる奴は、共通して魔法のために魔法を学ぶ異常者だけだ」
「異常者って……。急に会いたくなくなった」
今世の魔女……。魔法にしか興味がない人間……。あいにく、魔法そのものに関わりが薄いのでどんな人間かはパッとは想像できない。しかし、別世界出身の頭を掘り返したら、嫌な名詞が思い付いてしまった。……マッドサイエンティスト。それの魔法版が今世の魔女なんだろう。
確かに、そう例えてしまえばテレーゼは今世の魔女じゃない。わがままで、プライドが高くて、気まぐれだが、だからこそ普通の人間だ。理解できるタイプの魔女だ。
「目的のために魔法を使う……か。テレーゼは一体何のために」
テレーゼのことを考えてテーブルの上を見つめているとその奥で扉が開いた。そこから地を這うようにして水蒸気が薄く床を濡らし、そのあとにギードが現れる。
油で嫌な輝きがあった黒髪はさらりと流れる。伸びきっていた髭は跡形もなく根絶され、薄汚れていた肌の汚れは落ち下からは白く若々しい肌見せている。そして、その中心に変わらず鎮座しているのはサファイアとでも言いたくなるような深い青い瞳。
「ギ、ギード」
「何だよ」
「爽やか系イケメンはギードの性格には合わないとだけは忠告しておく」
「下らないこと言ってるのは伝わってきたよ。それよりも話の結論だ。護衛云々の話なら、魔女レベルとまでは言わないが、俺以外の実力者を頼るんだな。お前を追っている相手のことはよく知ってる」
「……それ真面目な話っぽいな」
イケメンを煽てようかと思っていたが、ギードの表情も含めてそんな雰囲気ではなかった。わざわざタオルで髪を拭く手も止めて話をしてくれている。そこで空気を読まずにふざけられるほどの人間ではない。
「会ったときにもかなりの奴って言ってたね。確かにさっきの三人組、特にリーダーは判断力に長けていたと思うけど」
「違う違う。それとは別の奴だ」
「別の?」
「ああ。あの三人組に襲われているときから、つけられていたんだよ。もしかしたら、あの三人を囮にして、隙のできたところを仕留めるつもりだったのかもな」
「まさか……」
その追跡者には心当たりがありすぎる。気付かれずに俺の跡をつける相手なんて一人しかいない。ネクロマンサーだ。
いつからだ? 裏路地に入ってからか? それよりも前からか? いや、違うか。今一番大事なのはいつからかじゃないか。誰なのか。ギードはネクロマンサーに気付いた。だとしたらその正体だって見ているはずだ。だとしたら、これまで欲していた何よりの手がかりとなる。
「ギード! どんな人だった! 人相、服装、武器。知ってることがあれば教えて欲しい!」
「おいおい。落ち着けよ。話してやるから」
ギードは色っぽく湯気を纏ったままベッドに座る。落ち着いたその仕草と口調に諭されるが、それでも抑えきれない自分がいる。
「話せることと話せないことがある。それは決まりだから許してくれ」
「決まり? 何でもいいよ。今は何より情報が欲しいんだ」
「柔軟な奴だな赤猫は」
エリゼを守るために転生した。その守るための手がかりをギードは持っている。だとしたら、ギードが話す内容を選んだとしても、聞けることは聞いておいて損はない。
椅子から体がはみ出るほどに前に出る。それにギードはどこか期待するなとでも言いたげに首を振る。
「じゃあ、まず、最初に言っておくが、俺はお前側の人間じゃない」
「ん?」
お前側? 貴族と平民のことだろうか。それとも光と闇、表舞台と裏舞台の話だろうか。ギードは仕事についても詳しくは語ってくれなかった。となると、その裏舞台で知った情報だから詳しくは言及するなといった類いの前置きの可能性が高いか。
「大丈夫。私を誰だと思ってるの。ゾンビだろうと、スーレ鉱山に盗みに入った相手だろうと、受け止めて許すことができる女よ」
「おっ、頼もしいな。だったらもう少し話せるぞ。俺、実はそのネクロマンサーを知ってるんだよ。詳しく言うと、俺の命の恩人」
「は?」
……は?
「あー、今、嫌なリアクションしたな」
ギードが軽口で一つクッションを入れる。しかし、そのクッションは逆効果だ。柔らかさはない。反発するクッション。近付いていたと思っていた俺とギードを遠ざける壁。
――待ってくれ。
自分のベッドに腰をかけたギードが、両手をついて上半身を大きく反らす。緑の照明に照られたその表情からは、異様なほどに感情が伝わってこない。
「……は? 違う。違うって」
うわ言のように否定するがギードはそれに合わせて違うとは言ってくれない。
肌が泡立つ。鳥肌が立ち重心が上へ上へと持ち上がるような感覚が生まれる。
「――ネクロマンサーの、味方なのか?」
エリゼとは思えないような掠れた声が出た。こんな弱々しいエリゼを演じたくはなかった。けれど、今の俺はそんな弱さを隠せないほどな余裕がない。
ギードの青い瞳と目が合った。大きくはない一室で時間だけが引き伸ばされる。
タオルを片手に握るギード。大きな食品庫。椅子、使いこまれたテーブル。その上にあるまだ一口しか口をつけていないグラスに入った水。そして、それらが閉じ込められた内側から鍵のかけられた家。
「――そうだ。俺はお前を狙うネクロマンサーの味方側だ」
瞳が交わる。赤と青と。その色味の対立は、エリゼとギード各々の交わらない立ち位置を示した。
――やられた。ギードは敵だったんだ。
「……っ!!」
噛み締めた歯の奥からは言葉さえも出せなかった。ただ悔しさと怒り任せに、リラックスしていた体を叩き起こす。
「落ち着け。話は最後まで聞け」
「うるさい!」
ギードの制止も聞かずにテーブルを激しく揺らしながら立ち上がる。膝を打ちつけた。内側から焼けるように痛む。それでもこの裏切られた苦しみのほうが、苦しさから逃げるほうが先だ。
二重の意味で遅すぎる動きでポケットに手を突っ込む。自衛ために購入した魔道具。『敵』から逃げるためのアイテムだ。
氷雪の魔道具で壁を作って、時間を稼いで鍵を開けて逃げる。外には例の三人組がいるとは思うが、見つかっていないあいつらと目の前にいるギードなら、あいつらのほうがまだましだ。
「くらえっ!」
「俺の人間性格診断によるとだな。赤猫。お前はもう少し聞く耳を持って多角的に物事を捉えられる奴なはずなんだよ」
「……は?」
追い詰められた状況での逆転の一手。そう思っていた。なのに。
「コレは没収だ。流石に後片づけが面倒になる。自分の部屋で溶けた氷の片付けなんかしたくないだろ?」
そう言ってギードはベッドの上に座ったまま人差し指を立てた。その指先の上には青い八角形の物体、氷雪の魔道具がある。
投げつける姿勢で止まったまま、俺は目だけを右に動かした。そこには寸前まで魔道具を握っていたはずの空っぽの右手があった。
嘘だろ。確かに今の今まで魔道具を掴んでいた。指先には一秒前の魔道具の手触りが残っている。それなのに……、急に手のひらから重みがなくなった。何をされたんだ。魔法? いや、それしかない。だってこんなの……、感知できなくて、動きさえ見えないなんてっ……。
「それでもこんなところで諦められないんだ!」
目眩ましも防御もなし。これといった作戦もなしで必死で扉へと走る。ペペが俺たちのやり取りを眺めているが、そんなペペさえも今は眼中にない。
ドアに手がかかる。鍵は簡素な閂タイプ。スライドさせて引き抜けば解錠できる。
「――出ていっても構わない」
「…………は?」
「だから、出ていっても構わないって。守られる側の赤猫がその権利を放棄するなら俺も追わないって。ただその前に一度冷静に考えろと言ってはおく。お前ならそれができるだろ?」
ギードは一切動く素振りを見せなかった。変わらない姿勢でベッドに腰かけたまま。その動作とギードのある意味で緊張感のない声音で、俺の頭は一瞬だけ完全に空白になった。
「動くな」だとか、「逃げるな」だとか命令されていたら絶対に逃げていた。間違いない。けれど、ギードはいつでも逃げていいと言ったんだ。
ペペが何をしているんだと言いたげに垂れた瞼を開いて、一人焦っている俺を見上げていた。この空気の中でもペペはギードに対して警戒心はない。
落ち着け。落ち着こう。ギードは俺から感知されることもなく魔道具を取り上げた。それだけの実力差があるのにまだ俺は生きている。それだけでも十分に変だ。
狭まっていた視野が広がっていく。そうするといろいろと見えてくるものがあった。
「ネクロマンサーの味方……。……だったとしたら、そもそも今の状況になるわけがないか」
「正解」
こちらが冷静になったと判断したのか、ギードは氷雪の魔道具を指先の力だけでこちらに山なりで投げてきた。その透き通る青い魔道具を格好つけるように片手で受け取った。
「ギードがネクロマンサーと同じで私を殺そうとしていたなら、そもそもあの三人組から助けなかった。それに家に連れ込んだあとにわざわざ風呂に入って私に逃げられる時間を与えたりしない」
「それだよ。それ。赤猫はそういう所がわかる奴だと思ってた」
「試したの?」
「そう見えるか? 事故だよ。素性を教えても、もっと冷静な話し合いができると思ってんだって」
手元と目の前のドアノブとを見比べた末、ドアノブに伸ばしていた手を、近付いてきたペペの頭の上に置いた。野外に放置されていたせいで毛並みは悪いが、この手のひらに残るざらつきは生き物らしくて落ち着く。
「期待いに添えず冷静になれなくてごめん。話を聞くよ」
「そうか。じゃあ、座れよ。どうせ外にあいつらがいる間はここにいなくちゃいけないんだ。足を休めとけ」
「わかった」
言われた通りに元の定位置に戻ろうとする。しかし、その前にやることがある。
「……ギード。そのタオル貸して」
「何でだよ。まさか武器に見えるからって没収でもすんのか? 俺そんなに信用ないか? 確かに臭くはあったが、胡散臭くはないだろ」
「いや普通にさっき貰った水を今の一連の流れで溢しちゃった拭きたいだけ。大丈夫。ギードも髪拭きたいだろうからすぐ返すよ」
「その返されたタオルで髪拭かせたいのか? お前実はまだ怒ってるな? 悪かったって。こっちも伝え方が下手だった」
謝りながらギードはベッドの下から古びたタオルを取り出してこちらに投げる。そのタオルをエリゼとは思えないような男らしい掴み方で受け取って、倒れたテーブルと椅子を拭いてから元の状態に戻した。
さて、体も口も動かしたら大分心臓が落ち着いてきた。
「ありがと。じゃあ、詳しい話を教えて。そのギードとネクロマンサーについて」
「ああ。そうだな。どこから話したら誤解しないか……。関係性からかが良さそうだな。俺はあいつに幼い頃に救われてる。謂わば命の恩人って奴だ」
「命の恩人?」
「そうだ。詳しくは話さないが、あいつはそういう奴だ。お前と同じだ。お前を殺そうとしているが、その根幹は救いがたいほどのお人好しなんだよ」
ネクロマンサーがお人好し? 今も数日前もエリゼを殺そうとしている人が?
「信じられないって話だろ? まあ、そこは今は信じられなくてもいい。あいつのことなんて敵同士で理解し合う必要もないだろ。ただ、あいつは訳あって赤猫を殺そうとしている。その理由については悪いが俺からは話せない」
「……わかった。納得したくないけど、ギードにも理由があるんだろうし。でも、だとしたら、何でネクロマンサーについて教えてくれるの? そこは気になるけど」
「簡単な話だろ。自分の恩人が殺しに手を染めようとしてたら止めたくなるだろ」
ギードが裏表もなく声音を暗くする。それだけでもネクロマンサーを止めたいという気持ちが偽りじゃないと伝わってくるのは不思議なものだ。
「まあ。赤猫が狙われる理由のある悪人だったらそれもありだったんだけどな」
「その一言がいつも余計なんだよなぁ」
「そうか? 逆だろ。お前は悪人じゃない。たかが犬なんかのためにこんな場所に来て、ついでで俺みたいなのも助けちまう。そんな赤猫だから俺は死なせたくない」
エリゼだからではなく、俺の行動をギードは認めてくれていたようだ。その真面目な物言いも含めて、恥ずかしくて顔を伏せる。
「実際は打算だらけだよ。純粋に困っている人を助けたいってわけじゃなかった」
「かもな。でも、俺はそれに救われてる。だから、教えてやる。ネクロマンサーの情報だ」
これまで正面を向いて座っていなかったギードが姿勢を整えてこちらに向いた。ここからが本題だ。
「完全には話せない。そこはわかってくれ。俺があいつの素性や目的を洗いざらい話したら、今度はあいつが死ぬ未来しか見えなくなる」
「私にそんな力はないよ」
「自分の身を守るためにフローゼには話すだろ。そうなったら、間違いなくフローゼはあいつを殺す」
「それは……否定はできないかも」
ギードの言う通りだ。エリゼを生き残らせるためなら、魔法協会やテレーゼにネクロマンサーの情報を渡す。素性も居場所も全てだ。そうなるとギードの守りたいネクロマンサーを守れなくなる。
「気を落とすな。それが人間として普通だ。だから、ここはもっと根本的なところを解決させるしかない。居場所や名前や能力は明かせない。だから、赤猫がネクロマンサーと接触したときに助けになるヒントだけを出す」
「ヒント?」
「そうだ。それをどう使うかはお前次第だ」
ギードは無言のままこちらの目を覗き込む。ただ目を見られているだけではあるのだが、不思議とこの赤い瞳のさらに奥を見透かされているようだった。
「――『ノルデバルデン侯爵』」
「侯爵? ノルデ……なんて?」
「ノルデバルデン侯爵。俺から出せる最大の助言はこれだ」
この赤い瞳にギードが何を見たのかはわからない。何を思ってこのヒントを与えてくれたのかもわからない。けれど、今の一瞬で頭に焼きつけた名前が重大な意味を持つのは、ギードの確かめるような相槌で確信した。
「ふぁぁ。じゃあ、俺は眠いから寝る。何かあったら起こしてくれ」
「えっ」
「どうせ今ここから出ても例の三人組に鉢合うだけだろうからな」
と、数秒前の緊張感はどこへやら。欠伸をしながらギードは布団の潜った。ヒントだけ出して、質問も受け付けずに。
なんだかんだでこの辺りがギードの限界だったんだろう。三日も犬と睨み合いながら野晒しにあっていたのだ。どんな疲労かは想像できないが、疲れているのだけはわかる。
すぐに、いびきとは言わないまでも眠っているとわかるような呼吸が聞こえ始めた。そんな中に取り残された俺は、人目を気にせずに有畑奏真としてこめかみを押す。
「ノルデバルデン侯爵……」
控えめに声に出されたその名前。そんな手がかりのなかったネクロマンサーへのヒントは、何故だか俺の頭の中で記憶と引き合っているように感じられた。




