13 終わりの詰み
手足の末端に血が足りず小刻みに痙攣する。それらの要望に答えたように心臓が激しく伸縮し血を送り出すも、送るだけ送りそれ以上はない。なにせ、送り出された血は手足に届くよりも早くに腹にできた穴から放出されているのだから。
人体の十パーセント程度の血が失われれば出血死をするそうではあるが、このシカはもうすでにその量は軽く越えてしまっているだろう。
腹に開いた穴……、いや、最早穴と呼ぶべきかも怪しいか。腹と呼ばれる部位を喪失した肉体だろう。
食い破られた腹と出血のせいで死が近付いている。これまで何度か体感した死。あの肉体から魂を引きちぎられる瞬間の恐怖が、経験として体に残っているが、今回はそんなものを思う隙間がない。
黒指猫……黒指猫っ……。
普段はしがみつく生の縁から自らの足で離れていく。死にゆく体に別れを告げると、視界がついに暗転する。痛みはあるのだろうし、苦しみもあるのだろう。しかし、今回はそれらを意識するまでもなかった。
目を開く。幾分か狭くなった視界。穏やかなオレンジ色を背景に、またしても描かれた六十三回目のやり取りを眺める。
《転生ポイント1》 《生を諦めますか?》 YES NO
普段であれば迷うような壮絶な死に様だった。けれど、俺は間髪いれることなく答えを選ぶ。
「NOだ。あの化物を倒すまで諦めない。……諦めてたまるもんか」
黒いケダモノ。包丁のような鋭利な爪。骨の山。トラバサミ。死体死体死体死体……。アラン、ロウ……。
何度戻ってきて変わることのないスタート地点転生部屋の椅子の上で、有畑奏真の体が縮こまる。
ほんの数秒前の出来事は場所と肉体が変わったところで忘れられない。今ここに俺だった体があるとしても、あの場で死んでいった人たちを見たのも間違いなく俺だった。死んでしまったのだ。俺が初めて一緒にいたいと思えた人たちが。
「う……うぅ。くっ」
黒指猫に対する怒りがもっと沸いてきて欲しい。その方がこんなに苦しくなくていい。悲しまなくていいんだ。
漏れる嗚咽を耐えるように歯の上の空気を噛み潰す。強く握った拳は何にも役に立たなかった男の拳。
「俺は異世界に来たんだ。それなのに何も変わらない。誰も守れないじゃないか! 何のための異世界転生なんだよ!」
その答えは冷静だった頃の俺が出していた。現世でろくな生き方をしなかった人間への断罪。後悔しながら死んでいけということなんだ。
――でも、違うんだ。俺以外が死ぬのは違うんだよ……。
誰になんと文句を言ったって変わらない。しかし、頭でわかっていても、すぐに立ち直れるほど俺は強くなんかない。
机の上に顔を伏せ、目を開いたまま嗚咽を殺し続けた。喉が上下して息が詰まって苦しい。けれど、その苦しさだけが記憶から逃げるための唯一の手段だった。
「はぁ……はっはぁ」
……やり直そう。また。転生しなおそう。もうそれしか俺にはできないんだから。
「絶対にあの化物は俺が殺すから。殺すよ。アラン、ロウ。みんな」
朦朧としながら立ち上がって分厚い本を目指して足を進める。あと俺は何度これを繰り返せばいいんだろうか。あと何度繰り返せば死なずに、死なせずに未来を向かえることができるんだろうか。
縋るようにビブライアに体重を預けた。頑丈なブックスタンドは俺の体重一つものともせずに、力強く一本の足で立っていた。
微かにざらつきのある皮の表紙に頬を当てたまま考える。次はどうしたらいいのかと。
個体強化をして転生ポイントは消費してしまった。今回みたいにステータスで境遇をねじ曲げることはできない。シカに転生してまた黒指猫にぶつかりに行くのも考えたがそこまで自棄にはなれていない。その目標は確実に黒指猫を殺す術を見つけてからだ。
「だったら、これまでの経験を活かしながら、生き残る最善のルートを選ぶしかないか。復讐はそれからで間に合う」
そっと顔を上げてビブライアの表紙を眺める。そして、恐る恐るまたその一ページに指をかけた。
「だいたい、これまでのと前回の転生は根本が違ってた。……そういえば、転生ポイント。世界貢献なんて大それたことはしてないけど、人助けはしたんだし。1ポイントぐらいは……」
少なくとも、俺が関わったことでなテューダともう一人とロウは逃げることができた。この人助けが認められて、転生ポイントが増えたりとかが。
《転生ポイント1》
「そりゃそうだ……ないよな。もう消えていいよ」
ご丁寧に俺の意思によって現れてくれた数字が言葉一つでまた消えて、やや広くなった視界の中で俺は軽く溜め息を残す。
最初期にあった転生ポイント6から個体強化で消費した5を引いた1ポイント。当然だ。求められているのは貢献。そんな中で貴族なんていう重要人物を守りきれなかったのだ。0にされなかっただけでもマシなのだろう。
「……過程じゃない。結果が全て。そのためにこれまでも推測と行動をしてきたんだから」
今さら嘆いたところで変わらない。ここは誰がなんと言おうと地獄なんだから。
次は何を選ぶ? 何を選べばいいんだろうか?
そう思って本を開こうとした瞬間それが起こっていた。
指先をページの角にかける。これまでそこから一枚だけが持ち上がって開けていた。しかし、今回はその一枚が存在しない。
「は? いやいや?」
いやいや……。いや。それは違うよ。それだけは違う。
上っ面だけふざけたように笑いながらもう一度リベンジ。本の手触りではないそれを持ち上げようとするが何度やっても開けない。元から全てのページが開けないかのように一つに張り付けてあるような有り様だ。
《この書庫の閲覧権は所有している転生ポイントの数値により定まります。転生ポイントが要求値に満たない場合には閲覧はできません》
満たない場合には……開けない……、転生のためには……。
「そのページを開いて転生の意思を示す……。ページを開いて」
《転生ポイント1》
転生書庫ビブライアの本文。その最初のページの右端にはこう書いてあった。『5』と。
覚えている。この本は右下にある数字より上の転生ポイントを持っていないと開けない。たとえ左に読める『1』のページがあったとしても、その右のページに『5』があれば、そもそもページを開けない。
「ま、まさか……もう転生できないとか?」
《生を諦めますか?》
あの言葉が甦る。いつも通りに多少の苛立ちを乗せて消し去ったあの質問が変化する。
《君詰んでるけど本当に諦めなくていい?》
……そんな最後の問いかけへと。
転生できない!? いや、転生できなかったらどうなる? まさかこのまま白い部屋に閉じ込められ続ける? 何にもなれずに、それこそ死ぬこともできずに? そんなはずない? ないって! だって俺にはまだ転生ポイントが1あるんだ。最低な境遇になっても転生できる生き物がいるんだから。ビブライアにも1のページがあったんだから。
「そうだ! 覚えてるよ! 左の1の方のページに書かれていた生き物は! なんと言ってもシカ以外の転生先は全部左から選んでたわけだし。そうだね。ここは初心に帰ってウサギとかどう? うん。ウサギにしよう。――転生!!」
本棚に囲まれた密室で俺の強がった声が反響することなく消える。それがよりいっそう孤独という炎を揺らしている。
「オオカミ!! ハチ!! じゃあ、クモは? ハツカネズミはいいじゃん! 異世界にしかいないムーンフィッシュはどう? ほら、全部一回は転生したから!」
思い付く限り声を大にして叫んでいく。各々の死に様を思い返せば、とてももう一度転生したい生き物じゃなかった。けれど、それでも死ぬ未来が待っていたとしても転生できないよりはマシだった。
汗が垂れる。喉が過剰な空気の行き来で傷付いて滲みる。それでも叫び続ける。ページが開けないかと爪が剥がれるぐらいに紙の束をかきむしる。
駄目だ駄目だ駄目だ!! せっかく希望が見えたんだ。せっかく俺が生きる意味を見つけたんだ。復讐でもなんでも転生をしたいって思えたんだ。それなのにこんなのあんまりだ!!
「何をしたって言うんだ……。なあ。なんで転生ポイントが1なんだ!! 頑張ったんだ! 頑張ってあんな化物に立ち向かったんだ! それなのになんで評価されないんだ!! 俺のおかげで生き延びた人もいた!! いたはずなんだ!!」
俺は役に立ったはずだ。俺は必要とされたんだ。俺のお陰で助かったんだ。俺がいなかったら、いなかったら……。
『それなら最初から黒指猫から逃がせばよかったんだよ。黒指猫の知能と実力を俺は知ってたんだから』
「……黙れよ」
『自分では勝てないけど誰かがやってくれるって信じて任せた自分の責任だ。常に最悪を推測して行動して選ぶべきだったんだよ。それを学んできた人生だったんじゃないの?』
「黙れ」
『結局また誰の何にもなれずに死んでいく。自分から何かをして誰かのためになるんじゃなくて、誰かに使われることで何かになる。それなら生きている意味なんてないよ。ビブライアの評価は正当で』
「黙れ!!」
膝から崩れ落ちた先にブックスタンドの足があった。それに割れるほど頭をぶつけるが、この部屋は自傷さえも許さずに、ズレて床に柔らかく額が当たる。
――知らぬ間に連れ去られ、殺され、死を惜しまれる時間さえも潰された。――腹や首が裂けて体を支えきれずに地面に血で焚き火を汚しながら倒れていった。――トラバサミで足を砕かれ敵のいる場に放置された。――倒した思われた相手から不意の一撃で命を失った。――時間稼ぎと復讐のために化物と対峙し呆気なく殺された。
その全ての責任は俺にある。半端に黒指猫の居場所のヒントを渡し、半端に黒指猫への恐怖を伝え、半端に手助けをしようとし黒指猫が騙すための材料を与えた。
――だから結果を出せなかった俺に次のチャンスはない。
「嫌だ。嫌だ。嫌だ。それだけは……」
それだけはあってはならない。しかし、既に答えは出てしまっている。閲覧制限によって開けなくなったビブライア。そして、視界から消えた最後の選択の権利。開かない扉と、まともに触れることさえ叶わない周囲の物体。
理性的な俺の出したこの状況への推測は一つだった。
――もうこの部屋からは一歩も出られない。




