12 燃ゆる炎は赤くして激しく
キン。
耳馴染みのないようで一度は聞いたことがあるような音で目を開くと、辺りは焚き火に静かに照らされた暗闇に満ちていた。
何の音?
夜営地で眠っていたまっ最中。とても自然に生まれたとは思えない音で見張りのために起きていた二人がそっと他の者たちを起こし始めていた。
残っていた焚き火の淡い光が、慌ただしく起こされたアランたちの顔を下から照らす。
「トラバサミが動いたようだな」
聞き覚えがあると思ったよ。……トラウマ復活。
中腰でそっと夜の森に目を向けているのはアラン。その手には既に弓と矢が持たれている。
どうやら今さっきの音は、黒指猫を捉えるために仕掛けたトラバサミ閉じた音だったようだ。自分がかかったときの音は正直あまり覚えていないので音一つで怯えるようなことはなかったが、刃同士を勢いよく擦り合わせたような音は、無機質で力強く、生物をその間に交えたくなるような音ではなかった。
暗闇の中で火に薪をくべて背を起こすアランに続いて、各々が武器を手に取っていく。犬も起床。シカの俺ももちろん起き上がる。
「獲物がかかったのでしょうか?」
「だったとしたら、凄まじい精神力の持ち主だろうな。あの威力のトラバサミに挟まれて声一つ出さなかったのだからな」
今回はアランに同感だ。これは仕掛けに生き物がかかったときの音じゃない。肉が間に挟まればもっと鈍い音がしたと思う。根拠? 実体験。
「……誤作動が一番納得できるのだが、おそらく違う」
「どうしてそう思われるのでしょうか」
「――勘だ」
そして、その勘が正しいとわかったのは一分後。またしても聞こえた金属音。何も捕まえていない歯がぶつかり合う音だ。
二連続で同じような時間帯にトラバサミが誤作動を起こす? そんな不自然なことがこの自然豊かな場で起きるわけもない。
顔を見合せ音のした方向を警戒する。ちなみに仕掛けた場所はこの夜営地から見える場所ではない。
キン。
そして、三度目の音で確信へと変わる。
「おかしい。異常だ」
連続して誤作動するトラバサミ。そして、ここには知能の高い化物、黒指猫が生息している。となると、嫌な妄想ばかりになるのも当然のこと。
黒指猫がトラバサミを解除して回っている。根拠があるわけじゃないが、そこは間違いないと思う。
何で複数のトラバサミを解除しているのかだとか、どうやってその仕組みを理解しているのかだとかは当然のようにわからない。しかし、どうやらただのモンスターや獣の括りで捉えてはいけない相手のようだ。
あの黒い体が頭に甦る。二足歩行でも引き摺ってしまうような長い腕と長い指。猫などと付けられているが、どこからどう見ても化物のその姿。その顔には目蓋があるのかもわからない取って付けたような黒い眼球。
その化物の動きが暗がりの中で幻想として再現される。握られた手から黒い指が立ち上がる。
1……。
キン。
トラバサミがまた無力化される。仕掛けたトラバサミは二十個。既に四個解除されている。意味もなく……、まるでこちらに残りの時間を知らせているかのように。
また一つ音が鳴った。それもやけに均等な間隔で解除されていっている。まるでカウントダウンでもするかのように。
どうする? どうすればいいんだ? 相手は多分こっちを弄んでいる。「トラバサミなどお見通しだ。次はお前だ」と言いたげに順々に一つ残さず解除していってる。その異常に気付いた荷物持ちは明らかに怯えている。このままだと向こうの思惑通りにパニックになる。
キン。
また鳴った。どんどん俺たちを守る壁が減っていく。
「動じるなよ。奴が私たちを狩るのではない。私たちが奴を狩るのだ。ペリドット侯爵の徽章は必ず取り返してやらねばならん」
「はい。アラン子爵の仰る通りでございます。総員武器を構えろ。全方位を警戒しつつ影を見落とすな。相手はオオカミなんかとは比べ物にならないほどの体躯だ。目を瞑らない限りは見落とすことはない」
アランの右腕のような男性が荷物持ちの背中を強く叩いた。びくりと体は震えていたが、周りの頼もしさにか、少しだけ呼吸が落ち着いていた。
一つずつまたトラバサミが減っていく。その数を数え続けて、遂には最後の一つが鳴った。
「ロウ、ラウ。些細なことでも知らせるんだぞ。あとは君もだ。無理はしなくていい。教えてくれれば私がこの弓で仕留める」
両隣の猟犬が頷いた。それにつられて俺の頭も軽く動いた。
「よし。……来るぞ」
重なる木々の影の向こうで黒い何かが動いたかと思うと、真っ直ぐにこちらに飛んできた。小さい。あの黒指猫とは思えないほどの影だ。
「うわっ」
「……なんだ?」
その影にぶつかって一人が地面に倒れた。警戒して皆が剣に持ち変えてそちらに向けたが、そこにあったのは黒指猫の姿じゃない。大人のメスのシカだ。息もせずに虚ろな眼を見せ、死の匂いだけをこの場に漂わせた。
「あ、……あぁ」
「大丈夫だ。ただ死体を投げ込んできただけだ。怪我はないな」
「……はい。えっ!? ……アラン様!」
突如として男は焦ったように立ち上がり、後退りしながら周囲を見渡す。怪我はないが混乱は収まらないのだろう。
確かにかなりショッキングで最低なやり口だったけたど。……ん? どうしたんだ? 何を確認しているんだろう? 顔か? 全員を見て……。一、二、三……七人? は?
「――ゾイドはどこに行った」
「あぁぁぁぁ!!」
全てに気付いた瞬間に明かりの届かない森の中から悲鳴が聞こえた。聞き覚えがある声に、聞き覚えのある悲鳴の上げ方だった。わざと悲鳴を上げさせて、その死ぬ瞬間をこちらに確かに伝えてくるような弄ぶ殺し方。
声に水っぽい音が混ざって、叫びがひび割れて、夜の森に凄惨な残響だけを残して一人が消えた。死んでしまった。
「おいっ! 何があった! ゾイドは逃げたのか!」
「いえ、ほんの少しまでは隣にいたのですが、シカの死体が投げ込まれた次の瞬間には……急にいなくなっていまして」
じゃ……、じゃあ、今のシカの死体に目が向いた一瞬で、音もなく連れ去られたってことなのか!? そんなことって……!
誰も油断なんてしていなかった。猟犬だって、猟師たちだってプロの集まりだ。それなのに誰も反応ができなかったんだ。
そしてまたしてもさっきと同じように何かが投げ捨てられた。どすりと焚き火の炎を砕きながら地面を転がったそれを、今度は誰も見れなかった。
見たくても見れなかった。たとえ、それがさっきまで二本足で歩いていて、自分たちの言葉で笑っていた仲間の死体だったとしても。
「何がどうなっている! 黒指猫はわざとやっているのか!」
「構えを解くな。互いに両隣は必ず守れ。一歩で手が届くような距離に位置を取るんだ」
もう背後なんて誰も振り向くことができずに、前と横だけを見ながら円ができた。俺もその円から離れないように気を付けながら後ろへと下がる。後ろ足の踵に先ほどの投げ捨てられたシカの死体が当たった。
挑戦状のように投げ捨てられる死体。死んだあの虚ろな瞳のシカの死体。あれが自分の姿と重なって気分が悪い。
大丈夫だ。……大丈夫。今度こそは生き延びる。そのために必要な力を使うんだ。
動揺する人たちをよそに俺は自分の体に集中する。シカは草食動物ということもあって視界は広い。それに人間よりも暗がりで目が利く。五メートルほどの体格の黒指猫であればいくら闇に溶け込む色をしているとはいえ探せば必ず見つかる。
一点は見ずに視界全体をぼんやりと眺めるんだ。その中で動くものがあったらそこに視点を合わせる。
頭を高くして微動だにせずに周囲を見つめるシカ。なんとなく記憶にあるシカの姿と重なって、これがシカの正しい索敵方法なんだと理解した。
あの影は違う。黒くて大きく見えるけれど岩かなんかだ。右側の草が少し揺れているけど、あれは風でも説明がつく。じゃあ、あれはどうだ。遠くの方で輝いた黒い二つの玉。あれは自然にあるものか? いや、ない。あの二つは目だ。黒指猫の。
「キャウゥ!!」
「何!? 左か!」
可動域を最大限使って首を曲げた。ちょうど鼻先が敵の姿を指すぐらいに調整されていて、それを理解したアランがつがえていた矢を一瞬の迷いもなく放った。
矢が木や枝をものともせずにすり抜けるように通過していった。そして、その二足歩行でこちらを眺めていた黒指猫が激しく音を立てて動きを見せた。
「ワンワンワン!!」
「ワオーン!!」
「いたぞ!!」
激しく動き回るその黒い巨体へ向かって矢が集中砲火。アランほどではないが、皆、弓の扱いはうまい。当たってはいないが、確実に追い詰められている。
枝を砕き逃げ回る黒指猫。乱暴でいて野性的な動きには、俺の見たことのない黒指猫の狂暴性が現れていて、これほどのエネルギーを持った動きをしていたんだと痛感する。
トラックが縦横無尽に駆け回ってるみたいな感覚だ。ぶつかるだけでも体がバラバラになる。
「ウパ」
「よおし。当たった!!」
「お見事です! アラン子爵!!」
愛くるしい鳴き声を書き消すように俺たちの歓声が上がった。暗い恐怖に呑まれかけていたところでの一矢。向こうにはダメージを与えて、こちらには勇気を与えてくれた。
これが俺の索敵のお陰って思うとなんか嬉しいな。こうやってやっていけば、いずれは転生ポイントが増えていってくれるだろう。
「バウ」
「キュウ」
「ワーウ」
ロウとラウが褒めくれていたようなので偉そうにふんぞり返ってやった。すると、「調子に乗るな」とロウに前足で殴られた。
「矢は足りるか?」
「はい。当たればですが。いかがしますか? 武器を持ち替え、近接戦に切り替えるものも策とは思いますが」
「距離があるから戦えているのだ。あのレベルの獣相手に近付ける者はいない。動きが速く力もある。ノルデバルデン候でもない限りは、あんなのと正面切っては戦うべきではない」
ノルデバルデン候とやらは知らないが、正面戦闘を避けるのは同感。自分の五倍ぐらいもあるような相手が五指全てに包丁なんかよりもうんと長い爪を持っているのだ。魔法の力をいまだに正しく理解できていない俺からすれば、人という種族でこの黒指猫に挑むのは無謀としか言えない。だからといって、あの速度の相手に弓だけで致命傷を負わせられるかも怪しいところではあるけれど。
獣狩りの真価を見せてくれ。アラン。
「落ちぶれた私ではなく、先代がいてくれれば真向勝負もできたかもしれんがな」
真価を見せてくれ!!(悲痛)
「しかし! その先代の血は引き継いだ。やると決めればやる! 矢の心配はなくなってからすればいい! それにいつまでも向こうが遠巻きに様子を見ているとは思えんからな!」
「はい! では!」
七人全員が構えた弓から身が引き締まるような音が奏でられる。たまに当たっているのか、よしと声も上がっている。武器一つ持つだけで巨大な怪物をも圧倒する。これが人間なんだ。早く転生したい。
「何本当たった?」
「おそらくは四本かと。あの大きさであれば毒は五本で致死量です」
「そうだといいな」
黒指猫の大きすぎる影を青い瞳に映しながら、意味深にアランが呟いたのを聞き逃すことはできなかった。
夜営の際に聞いた話だが、ルーレイン家は領民を守るために、代々獣を狩る知識と技術を研鑽し続けたそうだ。獣の追跡から、行動を推測したトラバサミの設置、さらには毒矢まで……。いわば技術を引き継ぎ積み上げた凡人。その経験と知識を持ち合わせたアランが言葉を濁している。十分不安になれる。
問題なのはアランの腕前ではなくは相手の方だろう。毒は俺の世界だととんでもない武器だが、残念なことにここは異世界。毒を有効に利用する世界であれば、それに対して耐性を持つものが多いのではと思ったり。それに黒指猫の知性も気になるところ。トラバサミを解除したり、こちらの心情を揺さぶったり。そんなことをする相手が毒を無闇に食らい続けるだろうか。
言い様のない疑念が頭を浸す。一向に動きの変わることのない黒指猫は、顔も見えないほどの距離から黒い影だけを揺らして逃げ惑っている。
……けど近付いてきてるか。
「キャャゥ!!」
「来るぞ! 回避しろ!」
木の間から黒い影が飛び込んできた。焚き火から離れるように動いたアランと猟犬二匹の背中を見て、迷うことなく横に飛んだ。その場所をしなる黒い腕が通りすぎると、鳥肌が立つような風切り音がする。
ジュワッと、焚き火に液体を被り煙が立ち込めていた。赤い炎にくべられたのは赤い血。回避が遅れてしまった二人のものだ。
「武器を持ち替えろ!」
「嫌だ! 死にたくない!!」
「ダメだ!! コリン!! 離れるな!!」
「あぁぁぁ!!」
この中で最も臆病だった荷物持ちの男が、荷物をほったらかしにして闇の中へと消えた。黒指猫は追わなかったが、その向こうで無感情な金属音がして悲鳴が響く。
トラバサミ! 何でだ! 黒指猫が解除したはずだ!
「こいつ! トラバサミを解除したと思わせておいて、仕掛け直していたのか!」
アランの丸い顔から脂汗が垂れる。焚き火の炎があるのに、その汗はやけに冷たく見える。
最悪だ。黒指猫は近くにいて三人は死んで一人はトラバサミ。人数半減で、周囲には黒指猫が仕掛け直したと思われるトラバサミの山。逃げるのも戦うのも死路にしか見えない。
死の手が迫る。振り切ったと思っていた死の手が俺の襟元を掴んで引っ張る。
「まだやれる。テューダは負傷者を頼む。少しの間私が持ちこたえる」
「しかし!」
「早くしろ! これ以上死人は出したくない!」
テューダは心配そうな顔をしながらも素直に一度頷いた。多分あの出血量だと、爪にやられた二人は死んでいるだろう。けれど、それでも簡単に見捨てられるほど人間の感情は単純じゃない。
しかし、問題は本当にアランでやれるのか。ロウとラウに、あと二人生き残っている猟師はいるが、あまりに実力差がありすぎる。
「行くぞぉぉ! ロウ、ラウ! 足だ!」
「ワウ!」
「ワン!」
二頭の猟犬が互いに交差しながら走り抜ける。黒指猫の長い腕が二頭を捕まえようとするが、開いた手の中に収まるのは雑草のみ。散った細長い草はロウとラウの巻き上げた風に乗って高く舞う。
二頭が息を合わせたように黒指猫のくるぶしに噛みついた。痛みがあるのかはわからない。それでも煩わしくは思ったのか、激しく足を振って犬を振り払おうと踠いていた。
でも、足りない。暴れまわる黒指猫にアランは近付けていない。時間は稼げても黒指猫は倒せない。あと一手。何か俺にできることはないか? シカの種族としての利点を考えるんだ。草食動物らしい俊敏さと視野の広さ。あとはこの頭に生えた立派な角……。
トラバサミ、弓、剣、犬……。あとは……。
そうか! 毒だ!
黒指猫に毒矢を当ててはいたが、ここまではまだ効果が見えていない。察するにまだ量が足りていないんだろう。アランたちもさっきそういう話をしていた。
この場にはアランとテューダとあと二人いる。その二人は弓を構えてはいるが動けていない。ロウとラウがいるため迂闊に矢を放てないのだ。
だったら俺がやる。問題は言葉が伝わるかどうかだ。
黒指猫はアランと二頭に任せて、もう手遅れの二人の手当てをしているテューダの元へ。近くに転がっていた矢筒を噛んで、その前へと転がした。
「どうしたんだ? 矢筒? 私にも戦って欲しいと?」
違う違う。
頭を大袈裟なほど横に振ってから、今度は角で矢筒の下の方を叩いた。
「この矢筒を……ん? まさか、矢筒の底に仕込んである毒を角に塗れってことか!」
今度は縦に大きく首を振る。よかった。ちゃんと伝わった。
背が低くてすばしっこい猟犬は、黒指猫に器用に噛みつけた。その原因は単にスピードだけの話じゃないんだ。図体が大きい黒指猫だから背の低い二頭に対応ができなかった。それと同じで、俺が頭を低くして突っ込めば、この角を突き立てられる。
「わかった。任せてみるよ」
テューダは矢筒の底を躊躇なくナイフで切り落とした。そこにはベットリと松ヤニのような黒っぽいものが付着していて、それを服の切れ端で拭って俺の角の先に塗りつけていく。
「よし。これでいい。頼んだからな。シカ君」
「キュウ」
あとついでにそのナイフも借りていくよ。
テューダの手を軽く噛んでからナイフを手放させ、ナイフの柄を噛んで持ち上げた。人間とは違って口が前に長いお陰で、横向きにきちんとナイフを咥えることができる。これもシカの利点だったようだ。
――今回こそは越えてみせるんだ。一時間で死ぬ地獄の境遇から。
ロウとラウが暴れる黒指猫に負けて口を離して飛ばされていった。その合間にアランが斬りかかるが、贅肉が邪魔をして速さが足りない。結果反撃され火花を散らしながら剣で耐えることしかできなくなっている。一歩ずつ着実に黒指猫に追い詰められている。
「ぬぬぬっ!! 負けんぞ! 私はルーレイン家だぁぁ!!」
わかってる。負けさせない。一度は敵だったけど、あれも人々を守るためってことは伝わっているから!
大きく息を吸ってから吐き出した。クリアな視界で弱々しい炎が揺れる。それが大きく瞬いた瞬間、俺は硬い蹄で地面を蹴っ飛ばした。
「おお!! シカ君!! 君かっ!」
黒指猫のガラス玉のような二つ目がギョロリとこちらを見る。しかし、アランの決死の剣の妨害によってこちらに攻撃はやってこない。だから、俺はアランが攻撃を止めてくれることを信じてひたすら頭を下げたまま地面を蹴る。
あと少し、届く!!
体が急に重くなった。前に進む力が押し止められて足が曲がる。けれど、そこからあと一歩踏み込んで、首を大きく上に突き上げた。
「キュァァァ!!」
「ウパァ?」
黒指猫の膝下に俺の角が突き刺さった。既視感のある光景だったが、今回はそれだけでは終わらない。
黒指猫が鞭のように腕をしならせ背中を刈り取ろうと動いてくる。それをシカではあまり見かけないサイドステップで回避して、さらに横に頭を振る。今度は角での攻撃じゃないし、そもそも相手を傷付けるための動きでもない。
ほら。俺はここまでやったんだから選手交代だ。ロウ。
口に持っていたナイフを回転しないように意識して放り投げた。それに噛みついていたのはさっき黒指猫に振り払われていた猟犬の一匹ロウだ。強気な性格のロウはナイフを空中で受け取ると、「ありがとよ」と言いたげに強い眼差しを向けてから、黒指猫に飛びかかった。
足元で銀のナイフが輝き、それをちょっとした殺人鬼並みのナイフ捌きで振り回すロウ。ナイフの裂傷程度ではあの体はびくともしないだろうが、毒が加われば話は違う。
どこか表情の見えなかった黒指猫が動揺したように動いた。逃げるように背を向けて走っていく。それでも、毒が効いたなら逃げても関係ない。勝負ありだ。
ふらふらとした足取りから黒指猫の体が倒れる。二足歩行から四つん這いに。背の低い草むらを長い指で掴んで前へ前へと逃げようとする。
ちょっと前までの俺みたいだ。必死に生にしがみついて、苦しさと恐怖から逃げようとするみたいな。
強敵を前にもはや哀れみさえ感じられた。けれど、その背を追うアランとロウを止めようとはちっとも思わない。
「これで終いだ。化物よ」
「ウパー」
「あっ、何?」
ドクリと胸の音が聞こえた。さらにもう一度鳴って、視点が一点に集まって狭窄する。
二本の黒い爪。それが何故かアランの背中から生えていて……その先から赤い雫が滴って……、ドロリとした液体が鎧の腰の部分に染み込んで……。
ア、アラン?
「キュァァ!!」
「アラン子爵!!」
「ゴポッ……グッ」
あぁぁぁぁ!! あああぁぁぁっ!!
二本の爪が引き抜かれ、さらに出血が激しくなる。貫かれたのは胸部よりやや下。肺や心臓は外れているかもしれないが、何かしらの内臓はやられてしまっている。
助かるのか? いや、助かってくれ! ここは魔法と剣に生きる異世界なんだろ? だったら、このぐらいの傷……腹を貫かれたぐらいの傷は治してくれ!!
怒りで呆然とするロウとラウの二頭。あまりの事態に硬直するテューダと二人の狩人。そして、黒指猫の姿など目に入らずに倒れたアランに駆け寄っていく俺。
近付けば何かできることがあると信じていた。けれど、近付いてわかったのは想像よりも傷口が大きかったことぐらい。手で圧迫して止血ができるようなものじゃない。
くっ……死ぬな! 仲間として認めてくれたんだ! 俺に存在意義があるっていってくれたんだ。認めてくれたんだよ!! それなのに何で! 何で!
「ゴフッ。……ヒュー、ヒュー。す……まな。逃げ……」
「キュウ……」
できない。逃げろなんて。そんなこと。
青白く冷たくなり果てるアランに涙が滴った。自分のための涙ではなく、他人を思って流れた涙は、これまでのどの転生での死よりも胸を引き裂いた。
アランに落ちていた影が動く。目の前で黒指猫が立ち上がった。そして、俺の目の前に輝く物を摘まんで見せつけていた。
ガラスの瓶だった。飲み口を切り取って開かれたガラスの瓶だ。おそらくは、毒の解毒剤なんだろう。毒は解毒剤とセットなんだ。だから、アランたちも解毒剤を持っていた。それを黒指猫は知っていて誰かの持ち物の中から解毒剤を奪い使ったんだ。
思い当たるのは黒指猫との最初の攻防。シカの死体を投げ込まれたあと、注意がそちらに向いている間に狩人の一人を連れ去り殺害した。あの瞬間だ。あの瞬間に既に毒の存在を悟り、持ち物を奪っていたのだ。
どこまでも……、どこまで俺を出し抜くんだよ! どこまでも俺を地獄に追いやりたいんだよ!! この世界はぁぁ!!
「もう手遅れだ!! こちらに奴を倒す手立てはなくなった!! 逃げるぞ!! ロウ、ラウ!! シカ君!! 君もだ!! 子爵の意思を無駄にするな!!」
テューダが叫びを上げて撤退を指示している。それに向かって怒りが沸くのは仕方ないだろう。どれだけ冷静に分析して、こちらに打てる手がないとわかっていても、ゲームみたいに簡単にボタン一つで逃げたりはできない。俺には体があって心がある。その逃げるだけの行為だって身を切るよりも辛いんだ。身を切ったって許せないんだ。
俺は死んでも甦るよ。何度でも、多分満足しない限りは蘇り続ける。違う体で、違う人生で。でも、この人は、アランの命は一つしかないんだ。もう何度生き返ってもこの人とは会えないんだ!
「行くぞ!! 早く!!」
テューダと二人が弓矢で牽制しながら遠ざかっていく。その指示に従って、悔しそうに耳と尻尾を下げてラウが撤退開始。けれど、もう一匹のロウの方は毒ナイフを咥えたまま動こうとしない。
「ロウ!!」
離れていくテューダたちとラウを見てもロウを足を動かさない。ただ頭を上げたまま、覚悟を決めたような表情でその場に留まり続けていた。
『俺は行かない。こいつを倒さない限りは先に行くつもりはない』
その佇まいから伝わる覚悟に、テューダたちは息を噛み殺す。ラウは戻ろうと振り返ったが、それをテューダが許さずに抱き抱えていた。
「ワオーン!」
「ワウ……」
言葉少なな別れの言葉だと別の種の俺や人間にも伝わっていた。けれど、テューダたちは立ち止まることなく森の中を駆けていった。
「ワァウ」
『おまえも行けよ』か?
乱雑に頭を振るロウだったが、どうしてもその言葉だけは受け取れない。
この永遠と続くような過酷な死のループから抜け出したかった。生き残るためにこのシカ転生を選び、生き残るために個体強化も施した。それでも……、それでも退けない。恐いし、死ぬのもわかっている。それでもどうしてもこの怒りをぶつけずに逃げることはできなかった。
殺してやる。こいつは絶対に……。
俺とロウは黒指猫に向かって駆け出した。みんなが逃げるための時間稼ぎなどとは微塵も思っていない。ただの暴力でこの黒指猫を痛めつけようとして……。
視界に長い黒い腕が映っていた。その先でロウの首から血が吹き出していたのが記憶に焼き付く。それでも、歯を食い縛って、目を血走らせて、黒指猫に突っ込んでいく。地面を蹴ろうと足を回す。けれど、何故か蹄は空を蹴っていた。角を掴まれて持ち上げられていたんだ。
くそっ! くそっ!
前足で蹴りつける。その瞬間、ポキリと音がした。足で奴を蹴りつけて骨を折ったんだ。そうに決まってる。
どさりと縦に強い衝撃を残して地面へと落とされた。落下の苦しさはあったが、それ以外に痛みはない。だから、またこの角で……。
ズブリ……。
へっ?
アレ? 変だ? なんで頭からじゃなくてお腹から角が生えているんだ?
「ゲッボッ……」
内側から喉を伝って血が逆流する。目が回るような痛みに足が痙攣して、頭が回って吐き気がして。また血を吐き出して。
死ぬ……、死ぬ……のか。
角に塗っていた毒が一瞬で回ったのか、体が痺れたように動きを失っていく。もはや目蓋さえ上げられないような様になって、俺は黒指猫に片足を掴まれて逆さまに持ち上げられていた。
憎たらしいほどに純真な目で悪意と狡猾さを隠した猫の面。それが縦に伸びて下から白い歯が見える。シカの体を一口で両断できるような鋭い歯の並び。トラバサミなんかをよりも長い歯が、俺の柔らかな腹部に穴を開けながら、毛皮に舌で触れる。
それでも、恐さに震える中でも俺の意思は変わらない。転生生活で初めて抱いた感情を道連れにこう誓う。
必ず……必ずだ。俺はお前を!
体が大きく切り取られた。その瞬間の痛みを噛みしめて、憎しみと共に眼光で烙印を押す。
――必ず転生して殺しに来る。
そして、暗くなる意識と世界から無情にも引き離される。そんな中で燃え続ける焚き火の赤い炎は、何よりも赤く俺の胸に復讐の炎として焼き付いた。




