11 二度目の出会い
猫背の黒い影が森の緑の中に消えた。俺の五感から化物の存在が外れ、緊張感という重りがなくなり体から力という力が抜けた。
体格も力も速さも……おそらく、生物としての格差が歴然だったであろう二足歩行の猫の化物は、信じられないことにただの雄鹿の一撃で立ち去っていた。
逃げた? 逃げんたんだよな? 助かった?
助からないと思わさせられるほどの実力差と威圧感があった。オオカミ? スライム? 人間? そんな俺の想像の枠に嵌まった強さと風格じゃない。特にあの速さは一般道でも中々見かけない。
体が急に軽くなった気がした。泥の中から飛び出したような解放感で足が軽くて膝から先が左右に揺れているようだ。
崩れていた足に無理をして力を入れて立ち上がり前へ。また前へとを繰り返す。
……あの化物は何で退いたんだろう。傷を負ってまで追いかけたくなかったとか? 食料自体は俺を狩る前に出会ったリスとか鳥とかいろいろあるだろうけど、そんな人間みたいな考え方をするだろうか。知能があるからこそ傷を負わされた相手を仕留めようと躍起になりそうなものだけど。
「キュン」
心なしか背筋を伸ばして角を誇らしげに掲げてさらに駆ける。隠れるとは正反対の走り方だったが、それでも追われる感覚はない。振り返ってもあの黒い巨体は嘘みたいに存在しなかった。
テンポのいい俺の蹄の音が時計の秒針となり時間が進む。この下方補正のかかった今の境遇では基本的に生存可能時間は一時間。今回は開始から二十分程度を安全確保と個体強化に費やした。そこから始まった化物との逃避行が十分ほど。
「……ッキィ。キュウ」
――まだ本格的な死のリミットから抜け出せてない。あと三十分。個体強化もした。その上で一度は危機から逃げきったんだ。今度こそは……。
――ただ前へ――化物のいない遠くまで。
走る。まだ遠くへ。時間を越えるまで。リミットを過ぎるまで。
柔らかな葉が頬を叩いた。穏やかな日差しに夜の風情がやや混ざる。
――はぁ、はぁ……。まだ走ろう。気配がないだけで追われてるかもしれないんだ。
草花に反射していた日差しが、いつの間にか傾いて眩しさが消えた。
足が緩む。逃げろと背中を叩いていた声は聞こえなくなり、思い出したように疲労の蓄積した足の回りが遅くなる。
……逃げきれた……か? 本当に?
ついには足を止めて振り返る。夕暮れに差し掛かっているせいか、森の雰囲気は違って見える。不気味さから穏やかさに。耳をすませば長閑な鳥のアクビが聞こえてくる。
「……ッ。ハァ」
冷静さが取り戻されると、急に胸の苦しさがやってきて俺は大きく息を吸った。吸って吐き出す。ただそれだけの生き物として当然の動きだが、その一呼吸一呼吸が生きている証だった。
――死のリミットを越えた。越えたんだ。一時間が過ぎたんだ!
がくりと膝をついて頭を地面に預ける。これまでの苦しさが涙となって流れてくる。
や、やっと……。やっと生き残ったんだ!
「キャウゥ……」
嬉しさが胸に溢れて溺れているような感覚に陥った。湧き続ける胸の感情。あの世界では味わってこれなかったもの。命の価値。それが初めてわかった気がする。
まだやれる。今度こそは転生ポイントを貯めて……。
「ワン」
は? ワン?
聞き間違いと思いたい声だった。けれど、聞き間違いがないほどはっきりとした犬の声だったんだ。涙を堪えようと固く閉じていた目は、草食動物の本能を思い出し一瞬で開かれた。ピントの合った先、背丈のない草むらの向こうから黒い頭が覗いている。しかも、鏡写しにでもしたかのように反対側にも同じような犬が。
背筋がぞわりと文字通り毛が全て逆立つ。経験した死の記憶が一瞬で掘り出されて、トラウマと一緒に顔に出る。
……っ! この犬! あいつらだ!
真っ黒でスタイリッシュな犬。一般的にペットショップで見かけるような犬ではなくもっと筋肉質で、普通の犬と比べると一般人とプロレスラーぐらいの差がある。
そのプロレスラー犬ことドーベルマンもどきには首輪が嵌められている。一度は見たその首輪。
「ほー、まだこんなところにも鹿がいるとは」
記憶にある声で目が開かれる。誰かの仇といえば自分の仇。俺を殺すように指示したあの小太りの貴族の男。
――獣狩りの貴族ルーレイン家――
頭が痛くなったのは慣れない角が生えているからじゃない。撃ち抜かれた頭蓋と脳の痛みを覚えているからだ。
畳んでいた足を一斉に起き上がらせて、頭を軽く下げる。あの化物にも通用した突進の準備だ。
あの状況から生き残ったんだ! こんな人間なんか殺されてたまるものか! まずは一撃を食らわせて、そこから全速力で逃亡。犬には追い付かれるだろうけど、その都度、角で抵抗していけばいい。あとは銃だけど……銃持ってない?
敵として意識して見ていると、この前とは少し装いが違うのに気がついた。まず武器が違う。銃はなく、片手に弓と肩から矢筒を吊り下げている。衣服も違う。以前は貴族らしい青と白の目立つ服装だったが今回は鎧だ。それも貴族に似つかわしくないような鈍色のシンプルなもの。
俺の威嚇行為を見て両隣の狩犬が低く唸る。けれど、その主の様子は少し違った。
「どーどー、驚かせるつもりはなかったんだ。落ち着いてくれー。君を狩りに来たわけではない」
「……キュウ」
狩りに来たわけじゃない……?
獣狩りを名乗り猟犬を連れ弓まで持った相手をはいそうですかと信用できるような生活は送ってきていない。そこで信じて油断して六十一回死んできたのが俺なんだ。そして、その内の一回の死因に目の前の男は関係している。
男から離れるように後退る。しかし、男も猟犬も俺の動きに反応している様子はない。
……本当に殺すつもりがないのか?
少し顔を上げて男と目を合わせた。すると、男は重そうな頬の肉を持ち上げて朗らかに微笑んだ。
「おぉっ? 賢いな。私の言葉が通じたか。獣を前にしてに言うようなことではないが自己紹介をさせてもらおう。私はルーレイン家の当主アラン。獣狩りを生業とした特殊な貴族なのだ」
「……」
獣に言うような話じゃないなあ。
前に殺されたときに聞いた話ではあったけれど、それを狩られる側の生き物に話すのはいかがなものだろうか。いや、狩られる側っていうか、実際狩られた経験付きなんだけど。
しかし、残念なことにシカの喉と口では人間の言葉は扱うことができず、声にならない不満だけが眉間の痛みと共に目元に現れる。
「待て待て。そんな目で見るな。そんなただ狩りをする人間というだけでは爵位など与えられるわけがないだろう。何でも狩って売って生計を立てるのが並みの狩人。私は獣狩りのルーレインだ」
狩人と獣狩り。漢字は違うが感じは同じ。これを聞いて安心できる獣などいない。
逃げる構えを取りながらさらに見つめていると、アランは釈明しようとしゃがんだ。少し頭を下げてえいっとすれば目ぐらいは持っていけそうだったが、敵意が感じられなくて復讐心は冷めていた。
「私は危険な獣を狩る専門の貴族だ。国や民から危険だと判断され討伐を依頼されたときにだけ弓を持つ。だから、君のようなただ森で静かに暮らすような生き物を狩ったりはしない」
前の俺は山菜採りの夫婦を殺したオオカミだったから殺されたが、今回は全課がない健気なシカ。だから、わざわざ狩ったりはしないということらしい。理解はできるけれど……。
「おお! わかるか! こんな森の中にいるというのに人の言葉が伝わるとは! いや、これは私の実力を誇るべきか。森と関わりが深くなると生き物と会話ができるようになるのだな。流石は私」
違う。それはこっちの理解力の問題。それと、もしかしてこういうの他の生き物でもやってる? やめた方がいい。爵位取り上げられる。
獣を狩るだけで爵位を持つこと自体少し違和感があるのだ。そもそも本当にこの人は貴族なのだろうか。
隠す気のない疑いの目に、両隣の猟犬が座ったまま睨みを効かせた。誰かがそう呼ぶのなら信じてもいいが、自称ほど意味のない語りはない。
そんなときガサリとアランの背後の茂みが揺れ動いた。例の化物かと思い体が反応してしまったが、そこには五メートルを超えるような巨体ではなく何倍も小柄で小物っぽい男がいた。
「おお。追い付いたか」
「アラン子爵。危険な場所です。あまり一人で先行なさらないでください」
……子爵か。本当に貴族だったのか。回収早っ。
獣狩り程度で国王から直々に爵位を与えられることはないだろう。そう思っていたのだが、どうやら本当に爵位を賜っているようだ。具体的に子爵などと呼ばれれば信じる他ない。
今話しかけてきていた人の後ろからさらに六人やってくる。各々狩りと呼ぶには過剰な装備で、弓や剣を携えており、盗賊団でも潰しに行くかのような物々しさではあるが、最低限の狩人らしい素朴さは持ち合わせている。
そんな人たちがアラン子爵の周囲を取り囲むように並んでいく。ついでに俺の脱出経路も消えた。オーマイガー。
「何やらお話のようでしたが……そちらは?」
「おお! これか。人語を理解する珍しいシカだ。ちょうど会話が弾んでいたところでな」
「えーと。アラン子爵……。日頃から言っておりますが、御坊っちゃまにも悪影響が出ますのでお控えした方がよろしいかと」
「何がだ?」
自分が変だとはちっとも思っていなそうなアランは天然丸出しの真顔。それに狩人たちが全員で乾いた笑い。ここで俺が話が通じている素振りでもしてあげればアランは報われるのだろうが、他のペットとかにもやり始めたら哀れなので、通じてないと言わんばかりに草を食む。
そんな俺の態度を上から注意深く男が見てから咳払い。
「しかし、どういたしますか? 結局目標は発見できず、痕跡すらありませんでしたが。それに夜も近い」
「ああ、『黒指猫』のことか。数少ない情報から知性は高いとは知っていたが、流石の相手と言ったものだな」
語り合う二人を下から眺める。二人とも……いや、全員表情が少し固い。獣狩りの仕事の話だろう。
黒指猫……か。さっきの話からして人間に危害を加えるような生き物を狩ろうとしているんだろうけど、今回はどんな相手を狙っているのだろうか。名前からして、黒くて、指が特徴的で猫っぽいぐらいしかわからないけれど。……って。
「キャオン!!」
あいつか!
思い出したのはつい先ほどの恐怖体験。とても生半可な生き物では太刀打ちできないような力と狡猾さを持った五メートルを超える二足歩行の黒い猫。あろうことか、このアランたちはその化物を目的としてやってきていたのだ。
まさかあの化物を狩りに来ているなんて! 無謀すぎる!
「どうした? 知っているのか?」
こちらの動揺が伝わって、驚いたようにアランがこちらを見る。それに従うように他の者らからも一斉に視線が集まった。
知っているさ。それから逃げてきて今ここにいるんだから。
思い出してしまい体が震えだす。逃げたらいいのか、それともこの人たちになんとかして情報を伝えればいいのか。
怯える俺の意味ありげな反応で、シカと会話などできないと苦笑いを浮かべていた人たちの表情も変わる。隣で犬が落ち着けと尻尾を低くして近付いてくるけれど関係ない。いち早く逃げてこの森から離れなければ命はない。
「落ち着け」
落ち着け? 落ち着いてなどいられない。今度こそは逃げ切らないといけないんだ! 転生ポイントを消費した。これまでみたいに死んだら先がない。だから……!!
「キャャ!」
「――落ち着くのだ」
逃げ出そうと後ろを向いた瞬間、体が温もりに包まれていた。死の瞬間に味わうような焼けるような熱じゃなく、もっと穏やかな毛布にでもくるまれたかのような温もり。
あ、ああ。
震えていた景色が落ち着いた。その停止した視界の中心で、俺の瞳をアランが覗き込んでいる。この自然に溶けこみそうなほど深い緑色の穏やかな眼差しだ。
「安心しろ。少なくとも今このときに襲われる心配などない。ロウとラウも警戒していないだろう?」
猟犬の威厳を脱いだロウとラウの二頭が俺の脇を鼻でつつく。「心配すんなよ」と強い方がロウで、「大丈夫?」の心配そうな方がラウだ。
殺されたあのときは、話も聞かずになんでもかんでも殺してくる狩人ぐらいにしか思っていなかった。けれど、俺は元は人間だったんだ。今こうして向けられている感情の高潔さは胸に沁みるほど伝わる。
「キュウ……」
「落ち着いたか? もう大丈夫だ。私たちが来たからには、もう化物と会うことはない」
穏やかな声音に諭されて、逃げろと急かしていた心臓の音が遠退いていく。代わりに大丈夫とそれだけが心の中で響き続ける。
ようやく……ようやく、この世界で信じられる誰かに会えた。六十回を超える死を巡って初めて。
――ありがとう。アラン。
感極まってしまい、シカだからとか関係なく言葉が出なかった。けれど、心の中でそう呟くと久しい感情が湧いた気がした。
「うむ。やはり君は強いシカだな。黒指猫のいる森でよく生き延びた」
「アラン子爵。……このシカ。かなり怯えていましたね。何かあったのでしょうか」
「わからん。ただ私の言葉を理解しているのだとしたら、私たちの話で黒指猫を思い出させてしまったのかもしれない」
俺の頭をアランが撫でた。くすぐったいし、人間の感性からしたら恥ずかしいけれど、抵抗するほどの気持ちにはなれず目だけを細めておく。
アランは角を辿って俺を撫で終えると、触れていた手をまじまじと見ていた。汚かっただろうか。
「んん? ……この血はなんだ?」
みんなはアランの赤く汚れた手ではなく俺の方を向いていた。「お前が怪我をさせたんだな」なんて敵意を向けてきているわけじゃない。どちらかというと驚かれているような反応だ。
血なんて出ていないはずなのに、全員の目が一ヶ所に集まっている。俺の頭部の方だ。
もしかして、知らない内に頭に重傷を負わされていたのか? だから、あの黒指猫は俺を追撃しなかったとか……。
不安に塗り潰されて命の砂時計が落ちきったように感じた。確かに逃げられたと安堵した瞬間に殺されるなんて、幸の薄そうなキャラの定番の死に様だ。そして、今の俺の人生は幸が薄いどころか一時間で死ぬような運どころじゃない運命に支配されている。だから、ここで死ぬ可能性も十分にあり得る。
次の瞬間、角をアランに掴まれていた。
「この血はいったい誰の血だ?」
誰の……? 俺のじゃなくて?
ここまでのシカ人生を思い返す。まずは草むらで個体強化をして、次に黒指猫と鬼ごっこ。そこで逃げきれないと悟って決死の反撃で……。
そうか……。あの化物を刺したときの。黒指猫に立ち向かったときの血だ。
アランがもう片方の手で仲間から布切れを受け取ると、丁寧に血を拭き取った。そして、それを犬に嗅がせると両方とも興奮したように高く吠えた。
「当たりか。お手柄だぞー。これで痕跡を辿りやすくなる。なんて幸運なんだ。それに君、黒指猫を相手にして無傷とは。やはり素晴らしいシカだ。どうだ? これが終わったら私の元に来んか?」
私の元に来ないかということは、貴族のペットして飼われないかってことか。これはどうすべきなんだろう。この無限に続く過酷な死の転生の中で初めて掴んだ人間との関係。しかも、相手は貴族であり、人々を助けるための仕事をしている。転生ポイントの獲得にも一役買える可能性もある。
でもな。潜在的に恐いのは変わらない。この人はまだいいけれど、直接俺を殺したことのある息子スレイとも接点を持たなくてはいけなくなるのは流石に抵抗があるような……。
「夕飯は望み通りの食事を料理長に作らせよう」
「キャウゥ!!」
この命尽きるまでお供します。ご主人様。
なんとこのお方はこの人間の舌では到底耐えられない不味い食事から解放してくださるらしい。それなら、過去の遺恨も忘れてお仕事をさせてもらいましょう。
足を華麗にクロス。そこから執事のように穏やかなお辞儀。
「おお! 見たか! やはり人語が理解できるのだ!」
「……た、確かに。そう見えましたね」
「ふむ! では、今日はこの辺りで夜営としよう。二組に分かれ片方はトラバサミを仕掛けて……」
でもトラバサミはノー。
歓喜に満ちていた俺はその言葉を聞いていつの日かを思い出し、ジェットコースターのようにテンションを急落させて、足をクロスしたまま項垂れるように頭を地につけた。




