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死んではじめるビブライア  作者: 細川波人
序章 無限転生
11/22

10 個体強化


 『転生書庫ビブライア』。無限に転生を繰り返し、転生ポイントなるポイントを貯めて最強を目指し、異世界を満喫するための希望の本。現世で地獄を見せられた俺に与えられた二度目のチャンス。

 しかし、そのビブライアは残酷に俺に指を突きつける。「これまで世界に貢献してこなかったお前がまともなスタートラインに立てると思うなよ」と。


 最初の数回は考えて選んでいたが、それ以降は徹底して左の上から順に転生し続けていた。そして、遂にはその左のページに書かれた生き物全てに転生し終えていた。し終えて、希望だけが消えた。

 見下ろせば各々の名前の隣に死に様だけが頭の中だけで追記されている。


 希望は残りの右半分。角に1と書かれた左のページから、角に5と書かれた右のページに。この中から少なくとも生き残れると思えるような生き物を探さなくてはならない。


「……これでダメなら、もう無理なんだろう」


 ここまで回数だけを重ね続けて、様々な情報と対策を用いて挑み続けてきた。しかし、このままでは変わらないのだ。どれだけ努力をしようとも、策があったとしても、不可能なことは存在する。ピラニアの飼育されている水槽に金魚が放り込まれたとして助かる可能性はあるだろうか? 一日を生き残ったとして、次の日があるのだろうか? 最低の境遇という名のガラスに囲われたままでその外にある幸福の元へとそのヒレを動かせるのだろうか?


 《転生ポイント6》


 境遇は変わらない。水槽の中から出ることはできない。だったら……。


「内の脅威を払うために――使うしかない」


 武器を手に入れる。これまではその手段を選ばなかったが、事ここに至っては、後先など考えることなどできない。


 転生ポイント6。幻影のコインを手の中で握る。


「転生ポイントを使った強化。これに託すしかない」


 先のことは後で考える。今はこの一度しか使えない強化を用いる転生先を選ばなくてはならない。


 強いキャラを選ぶのか。そもそものバランスを考えて選ぶのか。


「……これだ」


 ある生き物を指差した。次があるとどこか諦めていた転生で、初めて本番という意識を持つ。胸が重い。それでも希望の光を選ぶ。この転生生活を変えるために。


「転生」


 静かにその覚悟を呟き、そして魂の入れ換えを俺は深く目蓋を閉じて待ちわびる。




 これまでとは一つ違った心情と覚悟で向かった世界。その大地に足の裏を着けた生き物はこれだった。


 シカ。


 優れた脚力と特徴的な角で、並の草食動物よりも外敵への対応力のある生き物だ。


「キュイイ」


 ――悪くはなさそうかな。


 日差しによってできた自分の影は大きく、一番欲していた角という立派な武器も持ち合わせていた。

オスでいてそれなりの体格と立派な角を持つシカ。転生ガチャは当たり。まさにここで賭けに出るべきだと言わんばかりの好条件だ。


 あと肝心なのは周囲の状況だ。最初期のウサギ転生のように外敵が複数いて、取り囲まれているような状況は最悪。逆に一体だけ絶対的な存在がいるだけならまだ逃げ道があり助かる可能性が高いのは実証済み。


 森に囲まれた見渡しのいい草原。こんな背丈の草原をバックにシマウマとライオンが追いかけっこをしている姿が頭に浮かんだ。


「キュゥ」


 今回はサバンナでもないし、あんなところよりは木が生い茂っている。不安になる想像をしても始まらない。ライオン出ないよね……?


 人よりも若干動かしにくい頭を振ってから、姿勢を低く保ち木の生えた森へと向かっていく。最優先は安全確保。こんな草原のど真ん中で駆け回ったりなんてしたら、それこそライオンが飛び出してくる。


 耳や目を動かしながら、敵のいなさそうな方角の森に入り込む。緑の景色に茶色が混ざる。夕方の日差しが相まって、ややオレンジ色の雰囲気が立ち上ぼり、どこか古風な香りがした。


 逃走経路はありそうだ。俗に言うところ獣道ではあったが、崖に通じているだとか、落とし穴のような窪みがあるわけでもない。何かに襲われればこの道を全力疾走すればいい。

 しかし、それ以外はあまり整った地形ではないようで、意識していなければ滑るし、木の間に角が挟まる。悪くはないが難易度の高い地形ではあるようだ。


 緑の茂みを見下ろして、熱い風呂の温度を確かめるような動きで前足を茂みに突っ込み、安全を確認して左足と体を突っ込んだ。そしてそのまま四つ足を折り畳むとあら不思議。角の生えた茂みに早変わり。


 角が飛び出しているが、森ということもあって、遠目からでは葉の付いていない枝にしか見えないだろう。ここはその森のアドバンテージを活かして隠れさせてもらう。……そんなところで本題だ。


 興奮で瞬きの回数が減る。少し乾いた目に瞬きと共に涙を投入してから、俺はそっと目を瞑った。


 『個体強化』


 祈るように心で呟いてから目を開く。すると、そこにはこの森には似つかわしくないフォントと色合いのウィンドウが浮かんでいた。


 《個体強化》 消費転生ポイント  5 10 50 100 500


 ……今回はこのサービスに親身になれる。前までは関係ないものと思って通り過ぎていたけど、今は興味を持って足を運べてる感じがする。見ているものが同じでも、心情次第でここまで変わるものなんだな。


「キュゥ……」


 まあ、そうは言っても手に取れる商品なんて消費ポイント5の個体強化しかないんだけれど……。


 その隣の高額商品をないものとして視界から消して、その個体強化の中で最安で最弱であろう5の数字をじっと見つめる。


 ――やるべきか――やらないべきか。


 瞬きも忘れた丸い目にウィンドウの光が映る。人工的で以前の世界を思い出せる雰囲気のそれと真剣に向き合い考える。本来の世界と馴染み深く見えるウィンドウのデザインがすり減った俺の魂を本来の形に戻ろうとしている気がした。


 ――ここで強化してしまえば次に使える転生ポイントはなくなる。つまり、転生ポイントを貯められていない現状でできる一度だけの強化のチャンス。失敗すれば残るのは転生ポイント1。今以上に転生の境遇にマイナスの補正がかかり、この先の打開が難しくなる。


 考えれば考えるほどリスクは出てくる。だが……


 ――仲間と安堵した矢先に肉体に歯を立てられ……

 ――無害な生き物に転生し、悪意ある人間に焼かれ……

 ……意識が保てなくなるような浮遊感の恐怖と共に地面に魂を散らし……


 喉が大きく上下する。


 ――俺は変わるために立ち上がってここに来たんだ。それなら……。


 《5ポイント。個体強化》


 チリンとキャッシュレス決済のようなこの異世界に相応しくない音が頭の中で流れていった。そのあとに現れたのは体の変化……ではなくまたウィンドウ。


 《筋力向上》 《防御力向上》 《持久力向上》 《スキル獲得》 


「キュー!?」


 想像していなかった表記で覚悟が肩透かし。目を丸めながらその表記を黒い目で追う。

 

 《筋力向上》、《防御力向上》、《持久力向上》、《スキル獲得》。ここも選択なのか……。悪くはないし、特化したキャラを作れるのは俺好みではあるけど想定外だ。どうしようか。


 攻略のテンプレートがわからない。どの選択がどんな風に影響を与えるかわからない今は選択肢の数が後悔の数になりそうだった。


 落ち着け。投げやりにならずに考えよう。5ポイントはもう使っているんだから。


 近くにあった枝を噛む。「汚い」と子供にだったら注意しそうなものだが、シカだから気にしない。今は体の衛生面を気にするよりも精神面の安定が大事だ。 


 人間で言うところの爪を噛み推理するアレを、シカになった俺は木の枝を噛んでやる。歯茎に木の硬さがダイレクトに伝わる。ちょっとしたその刺激が無駄な不安を削り落とした。なるほど、あの人たちはこういう気持ちだったか。


 雑念が減ってきた。考えようか。どの選択が生き残りに繋がるか……。単純な生存能力であれば、《防御力向上》、《持久力向上》辺りがベストではあるだろう。シカという生き物のイメージにフィットするのもこの二つだ。ただ、これまでの転生では、必ずといっていいほど何かと遭遇して殺されている。つまり、そこで抵抗できるだけの《筋力向上》も今の状況に則しているとは思える。


 あとは《スキル獲得》。興味深いんだけど……。


 シカの頭を横に傾けて新しい思考が降りてこないかと試してみる。けれど、どれだけ頭を傾けたところで、《スキル獲得》は博打要素が強い気しかしなかった。


 そもそもの話なのだが、この個体強化は5ポイントの個体強化。上に10、50、100、500と四段階があると知っているため、ここで得られるスキルがろくでもないのではと思ってしまっている。いや、実際確率はそっちのほうが高いに決まっている。


 だからこそ博打の《スキル獲得》は選べない。やり直しが利かないからこそ慎重に選ぶ。


 現世でのゲームのスタイルは攻撃力ガン振り、たまに難易度が高いゲームに当たったときは、防御力に特化して耐久戦をしたり。持久力は地味で瞬間的な効果は実感しづらいが、最後にあってよかったと思えもする。

 

 ――迷うのなら一番好みなスタイルを選ぶか。


 結局は理性を置き去りにした勘で決める。……つまり脳筋。この俺の経験に基づいた勘が幸をそうすることを祈る。


 《――筋力向上》


 パッと中央に集まるようにしてウィンドウが消えた。その瞬間、体がミシミシと音を立てているような感覚に陥る。いや、実際に内側では小さく音が鳴っている。筋力の増強。筋繊維一つ一つが作り替えられて、これまでよりも一段階上の肉体に変化する。


「キュ……」 


 おお! 変身! 内側だけっ……!!


 外面上の変化はない。腕や足が闘犬のようにムキムキになったりはしていない。気持ち少しだけ体は軽いように感じるが、その程度といえばその程度。


 《筋力向上》。この大雑把な筋力の括りであれば、力だけでなく速さも身に付くと推測していた。攻撃力だったり脚力だったり、力と速度を同時に上げられるベストチョイスだと思ったんだ。思ったんだけど……。


「キュウウ……」


 実感ないなぁ……。


 木陰から立ち上がる。肩というか肘というかに乗った葉が生まれ変わった筋肉から滑って落ちた。


 手応えはないがやってしまったからには変えられない。5ポイント強化だから上がり幅が少ないのは当然。他の選択でもこの程度の変化しかないはずだ。


 ――嘆いている暇はないか。前向きに森を抜けることだけを考えよう。


 栄養補給のためにと草を口でむしる、みずみずしさとえぐ味のある苦味。とても不味いのだが、それでも吐き出しはしない。


 喉を緑色の健康食品が通り過ぎてから、俺は弾むように走り出した。


 ――敵は今のところなし。獣臭さもなし。今回の敵は獣じゃないのか?


 六十一回の転生での死に様は多様だったが、根本的なところは『捕食者に狙われたため』が主だった。残りの一割ぐらいに人間の狩りや理由のない殺害などはあったが、基本的に森の中であれば外敵に狙われることが多かった。


 シカ転生での想定の敵はオオカミやクマなどの肉食の大型動物だ。しかし、今回はそれらの生き物の痕跡がない。臭いや足跡、その他の生活感がない。


「キャウウ……」


 となると考えられるのは人間だろうか。狩りに来た人間。冒険者なんかもあり得るだろう。ただ何というのだろうか。雰囲気が変だ。静かすぎる。


 自分以外に目に入る生き物はいない。虫などは探したら見つかるとは思うが、その他の草食動物、爬虫類、鳥類などがやけに静かだった。


 ――ものすごく嫌な予感がする。


 死に続けた数々の転生の経験の中で、これに似た状況に覚えがあった。まだ一つ一つの転生を大切にしていた頃の話だ。ハチ転生。良くも悪くも、このビブライアの本当のシステムを見抜いてから行った最初の転生。そのときはスライムという敵が存在し、そのせいか周囲の草原に他の生き物の影一つ見られなかった。


 あれと同じだ。――何かいる。


 身を低くして警戒の網を広く張る。視覚と聴覚で近くから事細かく安全なエリアを探る。


 入り組んだ草むらを一つずつ確かめる。ここには誰もいない。その向こうも安全。その木の影の向こうも……?


 ふと目の端に生き物の姿を捉えていた。人間世界では見たことない緑の肌に大きな逆三角形の頭。高いを通り越して長い鼻の下には、半開きの口があって白い不揃いな歯が並んでいる。


 ゴブリン? でも、何であんなところで踞っているんだろう?


 俺を狙う脅威かもしれないと頭に過ったが、それにしては様子がおかしい。ゴブリンはこちらのことなど気にも留めずに、さっきの俺のように茂みに体を突っ込んで身を隠している。

 

 ――怯えている? 何にだ?

 

 暖かな日差しとは真逆に悪寒がする。夜風に背中を撫でられたような体が硬直する悪寒だ。


 ――感覚が鋭敏になる。意識するのは木や茂み。やはりだ。ここにもいる。こっちにも。あのウロの中にも。他にも……。


 ――みんながみんな隠れている――。


 カラン……。コツ……コツコツ……。


 何かが地面を転がる音がした。気配を消している他の生き物が鳴らした音ではない。

 足が止まり頭だけが音のした方へ動く。木陰の向こうに白い山が見えた。所々黒ずんで汚れたそれの白さは無機質に死の色を伝えてくる。


 骨の……山っ。


 大小様々、かつ部位も異なる骨が山積みにされている。その中に骨としての印象が強くある人間の頭蓋骨もいくつか含まれており、これまでの死では経験してこなかった恐怖が芽生え吐き気が襲う。


 折れそうになる心を沈め、息を殺して身を屈める。草むらに同化するように意識。視線も可能な限り外し、ただ流れていく景色を黒い目の中に映す。


 ……っ、あんなの。


 こんなにも恐ろしいとは思わなかった。頭蓋骨の形状などよく目にする。アクセサリーや海賊の旗印にもされるぐらいだ。嫌悪感なんてほとんどなかった。しかし、それが実物となって目の前にあればどうだろう。あの異様な白さと生きていた痕跡として残る血の汚れ。それが無造作に積み上げられればどれほど生々しく胸を抉るか。


 止まりそうになる息をなんとか保つ。一つ一つの呼吸が恐ろしい。何せ、ここにはこの骨の山を積み上げた何者かが存在するのだから。


 息を整えていたとき、その何者かは現れる。まるで示し合わせたかのようにこちらがもっとも怯える瞬間に、最初からそこにいたと言いたげに骨の山の裏から現れる。


 はぁっ、はぁっ……はっ。ダメだよ。アレは。アレはこんなレベルの場所にいていい生き物じゃない。


 肌が冷たくなる。体の温度が失われる感覚。しかし、胸だけは生きているのだと、生きていたいのだと強く脈打ち本能に訴えかけている。


 それは「?」だった。そう表すことしかできない存在。現実の生き物もファンタジーな生き物もそこそこに知識のある俺でも初めて見る姿だ。オークやトロールなどの生半可なモンスターとは一線を画す。モンスター……いや、怪異や物の怪の方がフィットする。常識の外の存在。俺の知る世界の生き物では決して手が出ないであろう存在。


 ナマケモノの体を五メートルまで引き伸ばしたような骨格。しかし、その全体のパーツは猫が近い。ただ猫にしては背筋が伸びすぎていて、長すぎる腕の手首を地面に引き摺りながら歩く姿は生物的に合理的とは見えずに不気味さが増幅される。


 黒い影が白骨の山の上に座る。そこで何もかもを見透かしたような目で、ただの動物とは思えないような豊かな表情で化物はニヤリと笑った。びっしりと針のように細い歯が、口の中で生い茂る。 


 なんなんだよ……。あんなのもこの世界にはいるのか。


 たとえ俺が強装備を身に付けた冒険者に転生したとしてもコイツとは戦いたいとは思えない。強さはわからないが、それでも近付きたくない。人間が得体の知れないものに感じる恐怖と同じだ。勝てるビジョンもなければ、戦えるビジョンなんかも一切浮かんでこない。


 二足歩行で骨の山を漁る怪物。その骨の山の内側に緑に光る何があったが、それに意識を向けるだけの余裕はない。


 シカが、ゴブリンが、リスが、鳥が、トカゲが、虫が。その全てが息を殺してそいつが過ぎ去るのを待つ。しかし、残念なことにここは奴の根城。立ち去るにしてもかなりの時間がかかるだろう。その中でこのプレッシャーを浴び、身を捩ることも許されず耐え続けるしかない。


 誰が先に動くか。誰かが必ず死ななくてはいけないデスゲームのような中で、俺は耐え続けることしかできない。


 頼むから誰かこの状況を変えてくれ。


 誰かが動けばその他全員が動き出すような緊迫感。体の動きと反して心臓がうるさすぎる。それを聞こえないでくれとただ目を開けたまま願い続ける。


 化物の小ぶりな頭が少し高くを向いた。その頭に付いたやけに小さな黒い目が一点を見つめている。あの場所には確か青い鳥が隠れていた。


 気付いたのか? 気付いたんだ。これであの鳥をあいつが追う間に……。


 と、逃げる策を立てたところで頭が別の方向へ。今度はリスの隠れた木の穴の方だ。微かに見えていた鼻と目が化物の視線で完全に動きを止める。


 ……いや、おかしい。気付いていないわけじゃない。これは多分っ。


 ――黒い目が今度は俺の方を見ていた。気持ちが悪いぐらいに感情の表れたその顔。面白がって残酷に笑嗤う目と、あろうことか俺の目は合ってしまった。


 『品定めをされている』


 逃げないと! でも、身体が……動かない。


 腰を抜かすとか力が入らない表現はいくつかあるだろうが、俺の身体に起きていたのはそんな状態ではなかった。緊張しすぎて身体に力が入りすぎて動かない。強すぎる生存本能のせいで身体が動かなかったんだ。


 死んだ……。


 そう諦めて目を瞑ろうとしたしたとき、不意に緊張が解けた。それが視線が外れたからだと気付けたのは、別の声が聞こえたのと同じ瞬間だった。


「ギィ」


 潰れた喉に無理やり風を押し流したような声は哺乳類よりも昆虫類などの出す音に似ていた。その声の持ち主はゴブリンだ。子供のゴブリン。俺の次に見られたゴブリンは堪らず声を上げてしまったのだ。


 ゴブリンは自分の失態に気付いて命からがら草むらから出て走り出す。それに大きすぎる一歩で追い付いた化物は、刀のような爪の生えた長い指をゴブリンの頭部に巻き付け持ち上げていた。


「ギッ!! ギィ!!」


 手の中で踠くゴブリンだが、化物とは何もかもに差がありすぎる。ここから待っているのは死しかない。

 その頭が潰される瞬間に動き出そうと身構えていると、ゴブリンの足が地面に下ろされていた。落とされたとかではなく、下ろされていたんだ。


 その生物としても捕食者としても異様すぎる動きに、またしても俺たち動物は身を固める。思考が読めない。、人間の知能がありそれ以外の生き物だった経験もあるのに、全くとしてその動きの原因が掴めないでいる。


 そんな中、ゴブリンの細い緑の足がペタリと地を踏んで後退る。その目の前に突きつけられていたの化物の手だった。細長い掌と、それよりも更に長い手指。その一本だけが意味ありげに立てられている。


 俺だったらこう解釈する。「1」と。


 他の動物では気付けないその指の動きに敏感に反応する俺。ここから順当にいけば次は。


 折り曲げられていた中指も立つ。「2」と。


 間違いない。カウントダウンだ。何のかは知らないし知りたくもないけれど、この状況、鬼ごっこの鬼が時間を数えているようにしか見えない。


 そういうことだ。やっぱり遊んでいるんだ。


 獲物に猶予を与えて逃げさせる。それを追いかけて捕まえ今度は殺す。なんて残虐な生き物なんだ。なんて凶悪な存在なんだ。ここが異世界だったとしても酷すぎる。


 怒りと恐怖がせめぎ合う。視線の先ではゆっくりと折られた小指も見えた。勘だけど、多分折り返し。


 生き残るために極限まで頭を回転させていたゴブリンが減り始めた指の本数の意味を悟った。しまったと、別の種族でもハッキリとわかるような表情をして、悔しがるような声を上げながら走り出す。


 化物は焦らずにゴブリンの背中を目だけで追う。指を折り曲げる速度は変わらない。それだけでもこの化物の余裕がありありと伝わってくる。

 

 息が詰まる。あとはあの一本で。


 ――折れ曲がる。第二間接が曲がって第一間接も曲がる。そして、その長い爪が微かに親指の付け根に触れた。


 途端に風が吹き抜けた。違うか。吹き抜けたのは化物。そのあとに取り残された空気が風になって周囲を揺らした。

 化物の動きを合図に俺たち動物たちも一斉に走り出す。ゴブリンが向かった方の逆へだ。


「キュウ。キュウ」


 走れ! 走れ! 生き残るために個体強化をしたんだから! 運命を変えるために今回の転生を選んだのだから!


 静けさが消えざわめく森。一分経っただろうか、そこでゴブリンの痛烈な悲鳴が聞こえた。ゴブリンらしい声だったが、その断末魔の切れ目に押し潰れるような音が混ざり、俺の頭は恐怖で黒く染まる。きっとあの白骨の山にさっきまで生きていたゴブリンの骨が加えられるのだろう。


 あのゴブリンのお陰で逃げられているなんて人間のできた思考はできない。あのゴブリンがもっと時間を稼いで死んでくれればという人間らしくて腐った感想は、噛み締めた歯からギリギリ出なかった。


 逃げる。逃げ続ける。息切れ関係なく、他の生き物よりも速く駆け、置き去りにした生き物を文字通りの肉の壁にして。


 少しずつ死の匂いが近付いてくる。またどれかが死んだんだと伝わってくる。多分トカゲか虫だ。

 

 ――小さな声が聞こえた。一瞬の喚くような声はリスだろうか。


 後ろの壁が減っていく。ゴブリン、虫、トカゲ、リス。あと思い出せる生き物は鳥と俺だけ。


 黒い影が見えた気がした。実際は振り返っていないので見えているはずがない。けれど、その俺の作り出した恐怖という影に尻を叩かれてまた速度を上げる。


 逃げきろう。せめて鳥とは一緒に逃げきりたい。だから俺よりも先に行かないでくれ。もう、化物から逃げられたと安堵したい。


 蹄で枝を蹴りつけ、毛の下にある肌を僅かに傷付け。それでも進んでいると高い鳴き声が聞こえた。本来愛くるしはずの声音は、絶望に染まった潰れた音に変わる。しかも、一瞬の死の声じゃない。ゆっくりと消えていくその声は化物に弄ばれた証拠。


 ――もう壁はいない。次は俺の番だ。


 よりにもよってこの覚悟を決めた回で、こんな異質な敵と遭遇しなくてはいけないんだ。そこまでして俺を殺したいのか? そこまでして苦しめたいのか?


 物音が近付いてくる。わざと聞こえるか聞こえないかの不安にさせるような物音を立て俺で遊ぶ。遊ばれる。


 ……強者が弱者を蹂躙するなんて当然だろ? そうだったろ? ここまでずっとそうだったんだから。


『いや』 


「キュウ」


 違う。そんな常識は存在しない。相手の思い通りに死ぬしかない? そんなのは絶対に嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。


 もう――。


 体を食い破られて、骨を砕かれて、地面に叩きつけられて、焼かれて、斬られて、弾丸で脳を壊されて、溺死して、窒息して。死んで死んで死んで……。今度はあの骨の山に仲間入りして……。


 NO。NO。NO。


 ――死にたくない!!


 気付いたら振り返って頭を軽く下げていた。もう俺は追われて狩られるだけの命じゃない。立ち向かい生き残る命だ。


 俺の背中を目掛けて飛び込んできていた巨大な影があった。その掴みかかろうとしてくる腕の内側に斜めに踏み込んで初撃を回避。そして、そのまま踏み込んだ足と後ろ足で思いっきり地面を蹴って頭を前に……。


「ウパ?」


 化物の似つかわしくない高い鳴き声が上から降ってくる。俺に見えているのは緑の地面。そこに上から赤い雫が一つ落ちて砕けた。俺の血ではない。化物の血。


 もう一押しっ!


 歯を食い縛ってさらに前へ。前足を曲げて強く地面を蹴った。しかし、今回は手応えなし。敵の姿を捉えられなかった俺の体は軽く跳ねるだけに終わっていた。


「キュウウン!」


「ウパァ?」


 化物は猫の頭を傾けた。相変わらず二足歩行で人間が着ぐるみでも着ているかのようだったが和みはしない。大きすぎるし、爪も鋭すぎる。


 警戒は解かずに目の前に集中。頭を低くして、恐怖を捨てて目を合わせる。絶対に目を背けるな。どれだけ不気味でも、どれだけ気持ちが悪くても目を反らし弱さを見せたら死ぬ。


 どう来る。どう来るんだ?


 化物の視線が外れた。ゆっくりと俯いて、傷ができたと思われる場所をじっと丸い目で見ていた。そして、後ろを向いたかと思うと長すぎる両腕を引き摺りながら、森の中へと戻っていった。


 はぁ、はぁ、はぁ……。


 残された俺は苦しいほどの呼吸にも気付かずに、ただ目を見開き頑なにその消えた背中を眺めていた。


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