第7話 俺は君に殺してほしい ③
雲ひとつない三日月夜。何となく眠れなくてその辺を歩いていると、細い道の向こうから誰かが歩いてきた。
俺は慌てて脇の藪に身を隠し、様子を窺う。
(トオ?)
鈴虫の鳴き声が響く夜道を、トオが一人で歩いてくる。こんな夜更けに一体どこへ行くのだろう。
不思議に思って見ていると、道の左右に広がる林が何だか危ないものに見えてきた。事情を聞いて、できるなら家へ帰るように伝えたいが、俺は「コン」としか鳴けないキツネ。
情けなさに自分の前足を見下ろし、せめてこっそりついて行こうと思って顔を上げた、その時。
道の向こう側の岩に腰掛ける男の姿が目に留まった。いつからいたのだろう。というか、あんなところに岩などあっただろうか。
「もし」
男がトオに声をかけ、彼女が「はい?」と返事をする。俺は思わず声を上げそうになった。こんな夜更けに、どう見ても怪しい男に、あんなふうに返事をして足を止めるなど。
早く逃げろと言いたい。しかし俺はキツネで、彼女に伝えられる言葉を持たない。いっそ飛び出してあの男の脛に噛みついてやろうかと思い、ふと気づく。
男が纏う着流しの藍鉄色に。腰に下げた打刀に。出で立ちは品があるが、どこか荒んだ目の風貌に。
葬式の日に見かけた、匂いのない男だ。
『難儀なものだ』
あの日、俺を見て呟いた男は憐れむような顔をしていた。
キツネ姿の俺が、「コン」しか言わない俺が、まるで、鳴き声以上の言語をもっているのを見透かすように。
男がトオを見上げてフッと笑う。
「吉兵衛の家はどちらの方向か、知っていますか?」
流暢でありながら、どこか使い慣れていない様子の丁寧な口調。男の問いに、トオが「あなたも行かれるんですか?」と尋ねる。
「私もちょうど行くところなんです。よかったら一緒に行きませんか?」
俺はまた驚愕した。彼女が優しいことは知っているし、それは彼女のいいところだと思うが、よりにもよって、素性のわからない男相手に、その優しさを発揮するなんて。
(……?)
そう思った瞬間、胸にチリッと何かが燻るような感覚がした。虫にでも噛まれたかと思って見下ろすも、ふさふさのキツネの毛があるだけ。
「では有り難く、ご一緒させていただきます」
男が言って立ち上がった。トオと並んで歩き出す。
(何やってんだよ、トオのやつ)
俺は藪に隠れつつ彼らを追った。
二人の足音だけの時間が続く。俺は気の利かない男に苛立った。俺だったら面白い話をたくさんして、絶対にトオを退屈させないのに。
「そういえば、不思議なことがありましてね」
沈黙に耐えかねたのか、トオがヘラっと笑って話し始めた。「へえ」と彼女の話に乗る男に俺はまた苛立つ。
「最近、私の家の前に、毎日栗やキノコが置いてあるんです」
「ほお。それは不思議なことですね」
「毎日ですよ。本当に、一日も休みなく。栗は必ずあるんですけど、他は日によって違っていて、アケビとか、ムカゴとか」
「全て山で取れるものですね」
男が「『不思議』ということは、誰が置いているかわからないのですか?」と尋ねる。トオが「ええ」と含みのある返事をして、
「いつも知らないうちに置かれてるので、誰なのかわからないんですが、その……あり得ないとわかってるんですけど、もしかしたら、キツネが持って来てくれてるんじゃないかと……」
その言葉に、俺は何だか嬉しくなった。会わなくても、話せなくても、彼女はあの栗に俺の存在を想ってくれていたのかと。
しかし——
「置かれている栗やキノコは、あなたが食べられる状態のものなのでしょう?」
男が尋ね、トオが首を傾げる。
「食べられる、と言いますと?」
「虫がついていたり、割れていたり、腐っていたりしないということです」
「ええ。そうですよ」
「必ず、全てが?」
「はい」
「それは流石に、キツネには無理でしょう」
男はヒラっと手を振って「ただのキツネに、栗を選別する能力はありません」と続ける。
「キツネの仕業と考えるより、神が与えてくれたと考える方がしっくりくるかと」
そしてとんでもないことを言い出した。
『カミ』——フクロウから聞いて初めて知った、あの声の主の名前。
俺はさらに苛立つ。よりにもよって、あれが栗を運んだなどと思われるのは納得できない。いっそ北風の仕業だと思われていた方がマシだ。
トオが「神様……」と独りごちる。
「確かに、神様かもしれませんね」
俺はガッカリして項垂れる。
(俺の名前はカミじゃない。六蔵だ)
道の向こうに百姓の家が見えてきた。トオが「秋の初めに、父を亡くしまして」と続ける。
「家にひとりになって、寂しくて……でも、毎日あの栗が置いてあるのを見ると、自分はひとりじゃないって思えて少し心強いんです。見ていてくれるものがいるんだって」
男が「そうですか」と微笑む。手本のような笑顔がどうにも胡散臭い。
「では、毎日神に礼を言わなければなりませんね」
トオが「ええ」と答え、二人は百姓の家へ入っていく。あれが吉兵衛の家だ。俺は藪の陰で立ち止まる。
少しすると、ポンポンポンと木魚の音が聞こえてきた。窓の障子にチラチラと火の明かりが揺れていて、坊主頭の影が映っている。
(おねんぶつだ)
また少しすると、別の人間が三人ばかり連れ添って、吉兵衛の家へ入って行った。坊主がお経を唱える声が聞こえてくる。
去年、あるいはそれより前。今と同じ季節に死んだ人間のために人々が集まり、その人を思うための時間。
死んだ人間はそうして、死後も誰かの心の中にあり続ける。
キツネの俺は、ここにいる今だって誰の心にもいられない。
(いや、キツネになる前もそうだったか)
あの頃、俺は『人間』だった。それは確かなことだと思うけれど、同時に、どうしようもないほどに違ったのだとも思う。




