第5話 俺は君に殺してほしい ①
赤い井戸の横でトオが麦をといでいる。
俺は彼女に見つからないよう草の陰に隠れて、その姿をずっと見つめている。
彼女の父親が死んでから数日が過ぎた。きょうだいも母親もいない彼女は、今日もボロボロの家にひとりで暮らしている。
俺がキツネになってあの森に戻ってから、トオが川で魚取りをするところを頻繁に見かけた。
ここ数日、彼女は一度も森を訪れていない。
魚取りをしていたのはきっと、ずっと、病床の父親に栄養のあるものを食わせてやるためだったのだろう。
彼女の細腕で獣を狩るのは難しいだろうし、もしかしたら、彼女自身は魚があまり好きではないのかもしれない。
こんなどうしようもないことをつらつら考えながら見ていると、ふと、どこかから男の声が響いてきた。
「イワシはいかがー。イワシー、イワシだよー」
見にいくと、行商人がイワシのカゴを積んだ車を押し歩いていた。その向こうに見える弥助の家から「五尾くれるかい?」と女が顔を覗かせる。
行商人がイワシを掴んで走っていくのを見送って、俺は車に近づいた。以前、田中の家の魚嫌いの子供が話していたことを思い出す。
『魚の何が嫌かってさ、そりゃあ、あの鼻がもげそうになる匂いだよ』
イワシは傷むのが早いから、半刻も置けば川底の藻を煮詰めたような匂いを出す。トオが魚嫌いなら、きっと堪えきれずに怒り出す匂いだ。
俺は行商人の車から、一等匂いが酷いイワシを取った。念の為、二番目と三番目に臭いイワシも取る。
田中の家の玄関先にいる行商人を横目に、そっとトオの家まで戻る。彼女はまだ麦をといでいた。俺は気づかれないように裏手へ回り、家の中へイワシを放り込む。
(トオは俺をイタズラキツネだと思ってる。俺がやったとすぐに気づいて怒るだろう)
彼女が家の中へ戻るのを待とうかと思ったが、俺はすぐに森へ帰った。
怒りはすぐに吐き出すより、一晩寝かせた方がずっと濃く、ドロドロしたものになることを知っていたから。
動物は一晩もすれば怒りなど忘れてしまうけれど、同じことを何度も考え続ける人間は違う。
俺はそれを実感したことがないけれど、人間を観察したから知っている。
* * *
翌日、昼飯時にトオの家へ向かっていると、遠くに見える家から彼女が出てくるのが見えた。何となく物置の陰に隠れ、そっと窺う。
(何で、怪我してんだ?)
トオは持ってきた桶に井戸水を汲み、中の布切れを絞って左の頬に当てた。そこだけ皮膚が赤くなっていて、口の端が少し切れている。
彼女はそのまましばらくじっとしていると、はあ、とため息をついて家へ入って行った。俺は不思議に思い、音を立てないように窓にぶら下がって中を覗く。
彼女は昼飯の途中だったらしい。囲炉裏の横に座り、食べかけの茶碗を持ち、一口食べたら「いたた」と言って頬を押さえる。
またため息をつき、茶碗を置き、ぼんやりと宙を見上げて少しして、「あのイワシ……」と独りごちた。
「あれ、やっぱりあのキツネがやったのかな」
そこでようやく、俺は自分がしでかした取り返しのつかないイタズラに気づいた。
イワシが減っていることに気づいた行商人は、どういうわけか、無くなったイワシがこの家にあることに気づいた。もしかしたら、俺と同じように匂いを頼りに辿り着いたのかも。
それでトオが盗んだと思って——彼女を、叩いた。
俺のせいで、可哀想に、彼女はあんな傷をつけられた。
(どうしよう)
俺は途方に暮れて、しかしふと思い出した。俺は彼女を怒らせて、彼女に殺されるために、イワシを盗んだ。
頭の中に、光の中で聞いた声が響く。
『キツネの言葉は人間である彼女に伝わらないが、イタズラをして彼女に殺されるその瞬間だけ、君はその声を取り戻す』
人間だった俺を殺した村人たちは、皆、例外なく、怒っていた。
だから彼女も怒れば俺を殺すだろう。俺はその時に、彼女を泣かせたことを謝りたくて。
ただ、それだけなのに。
「あのキツネ、私のことが嫌いなのかな」
宙を向いて呟く彼女は、寂しそうで悲しそうな顔をしている。そんな顔をさせたいわけではない。悲しませたくない。泣かせたくない。
(どうして、こんなことになったんだ)
あの声は一体何を考えているのか。
キツネになった俺が死ぬ物語を作りたいなら、最初から俺が話せるようにしてくれればいいのに。
そうすれば俺は、トオの前で死ぬほど苦しんでいるフリをして、死ぬのが救いだから殺してくれ、と懇願する。
それで全てが解決するはずだ。
彼女は困っている人を決して見捨てない、優しい人だから。
俺に名前をくれた人だから。
(ああ、そうだ。そうだった……)
考えて、俺はようやく気がついた。
謝罪のためのイタズラで彼女を悲しませてしまうなら、いっそ俺が謝罪など諦めてしまえばいい。
もう二度と彼女に会わず、ずっとシダ草の下の巣穴に篭っていれば——何もしないでいれば、失敗することもない。
(わかった。そうだ。それが一番、きっと、正しいことだ。でも……)
俺は謝りたい。
言いつけを破ったことを。彼女を泣かせたことを。
——そんなことをして、一体何になるのだろう。
トオにとって俺は何者でもなく、すでに死んだ人間で、また死ぬキツネなのに。




