第2話 雨上がりの川のほとりで
土砂降りの雨が三日間続き、ようやく青空が戻ってきた快晴の朝。
キツネになってからも、俺のやることは変わらない。
朝、目覚めたら川へ顔を洗いに行く。他のキツネと出くわすと不思議そうな顔で見られるが、俺は特に気にしない。
顔を洗ったら食事を取る。人間の子供だった頃と比べると、より高い木に登って木の実を取れるようになった。
またここでも、俺が近くにいるウサギを無視すると他のキツネは不思議そうにするが、俺は生き物を殺すのが嫌いだから、よほど腹が減った時に仕方なく虫やトカゲを食べるくらいだ。
食事を済ませたら、宙の匂いを嗅いでトウを探す。クンクン鼻を鳴らして歩いていたら、不意に頭上から声がした。
「お前はいつも、何をしてるんだい」
大きく開いた木のウロから、フクロウがこちらを見下ろしている。
「お前さんは、やることがあって戻ってきたんだろう?」
「ああ。そうだ」
「だったら、そんなキツネのようなことをしている場合じゃない」
「ほっといてくれよ。久しぶりの晴れの日なんだから」
フクロウは「そうも言っていられないだろう」と続けるが、俺は無視して歩き出した。匂いの方角から、トオが川にいることに気づいたから。
秋の森を進む。赤く色づいた葉がはらはらと音を立てて落ちる景色の中に、百舌鳥の鳴き声がきんきん響く。
群生するススキを掻き分けて進むと、穂から溢れた雨粒が陽光を透かしてキラキラと輝く。
小川に出ると、川縁にしゃがみ込むトオの姿が見えた。俺は慌てて近くの萩の木の陰に身を隠す。
どうやら彼女は魚を取っているらしい。雨で増水した川から、藁で編んだ網カゴを引き上げる。
(……成長したな)
死んだ俺がキツネになって戻ってくるまでの間に、こちらでは数年の歳月が経過したらしい。
人間だった頃の俺より大きいが、しかし『子供』の域にあった彼女の手足は随分と伸びて、丸みを帯びていた造形はすらっとした大人の面影を帯びている。
おそらく年齢は十六歳くらいか。長い黒髪を後ろで束ねていて、前の彼女と変わらないのは、栗のような焦茶色の瞳と、纏うボロボロの黒い着物くらい。
トオは網カゴを覗き込むと、ホッとした顔でため息をついた。中に手を突っ込んで、紛れ込んだ枯葉や枝を取り出していく。
ふと、何かに気づいた様子で顔を上げた。周囲を見まわし、網カゴを置いて川上の方へ歩いていく。
俺はトオの姿が見えなくなったところで木陰を出た。網カゴに歩み寄り、中を覗き込む。
小魚が数匹と、大きなフナが二匹、それから立派なウナギが一匹入っている。俺は小魚を選んで咥え、川へ放り投げていく。
三匹目の小魚を咥えようとしたら、ウナギが首に巻き付いてきた。俺は慌てて網カゴから顔を出し、ウナギを取ろうと頭を振って、
「あっ!」
トオの声。俺は驚いて顔を上げた。あんぐりと口を開けた彼女が、「もうっ!」と言ってこちらへ駆けてくる。
「またイタズラしたの!?」
彼女は網カゴを覗き込むと、また「もうっ」と言ってこちらを向いた。俺に巻き付いたウナギは取れない。
「そのウナギは返してくれない? お父ちゃんの好物なの」
彼女が困り顔でこちらに手を出す。俺は元々ウナギを逃すつもりはなかったし、返してやりたいのも山々だが、ウナギはなかなか離れない。
「……どうしても食べたいの?」
俺は否定に首を振ろうとしたが、そこへちょうどウナギの頭が口に入ってしまった。トオは俺がウナギを食べようとしていると思ったらしく、
「しょうがないね。じゃあ、あげるよ」
ため息混じりに言うと、網カゴを持って立ち上がった。村の方へ歩き出す。
「クーン、クーン(違う。俺はウナギなんかいらない)」
俺は弁明するも、その言葉は決して届かない。
トオはススキの中を抜け、森の向こうへ消えた。
サラサラと川の流れる音と、白々しい快晴の空。百舌鳥の声を遠くに聞いて、俺はウナギの頭を噛み潰した。
首を締め付けるヌルヌルとした感触が離れ、ぼとりと落下音。
俺は、生き物を殺すのが嫌いだ。
* * *
殺したウナギを咥えてトオの家に行くと、彼女は病に伏せる父の看病をしているところだった。
俺は戸の隙間を覗き、前足で端を掻く。音に気づいた彼女がこちらに来て、
「持って来てくれたの?」
俺は肯定のために「ふんっ」と鼻を鳴らしたが、彼女は「いいよ、あげるよ」と言って戸を閉めてしまった。
仕方なく、俺はウナギを咥えたまま帰路に着く。シダ草の下に掘った巣穴に着き、入り口のところの草の上にウナギを起き、穴の中へ。
暗がりの中で体を丸め、昨日聞いた彼女の言葉を思い出す。
俺に向けたものではない。村人と彼女が話すのを盗み聞きしたものだ。
「お父ちゃんに精がつくものを食べさせたいから、明日は川にウナギを取りに行こうと思うの」
俺は彼女を悲しませたいわけではない。
ただ、小魚を何匹が逃して、彼女を怒らせたかっただけだ。
取り返しのつくイタズラ——それで、彼女と話をするために。




