第1話 シダ草の茂る森の中
俺は生まれてからずっと名前をもたなかったが、ある日、『六蔵』という名前になった。
彼女がつけてくれた。
俺が死ぬ、三日前のことだ。
* * *
自分がいつからそこにいたのか、詳しいことはわからない。
ひとりでずっと鳴いていたら、口の中に温かく甘いものが入ってきた。
それをずっと吸っていた記憶はある。
俺が『俺』を知った時、隣に老いた山犬が寝ていたから、あの温かいものは山犬のお乳だったのかもしれない。
よくわからないまま、しばらくその山犬と一緒に暮らした。
やがて山犬は冷たくなって、いつまで経っても動かなくて、俺はひとりで暮らし始めた。
シダ草が茂る森の中。
その時には、食える木の実の見分け方も、酸っぱい虫と甘い虫の違いも、喉が渇いたら川へ行けばいいことも知っていた。
いつ知ったのかは、わからない。
俺は山奥のシダ草の陰に穴を掘って、そこで朝と夜が出たり入ったりするのをずっと見ていた。
することと言ったら、『声』が聞こえた時にそこへ行ってみるくらい。
雨上がりの草原を鳥がつついて歩いていた。
木の幹から滲む樹液に虫が集まっていた。
二匹のキツネがじゃれ合っていた。
それから、俺と同じ形の生き物が暮らしていた。
あれが『人間』というもので、それと似た姿の俺も『人間』なのだと知ったのは、森で彼女と出会した、ある晴れた日のことだった。
「あらっ! びっくりした!」
彼女は俺を見るや否やそう言って、目をまん丸に開いて、それからすぐに細めた。
「あんた、こんなところで何してるの? 一人?」
彼女は俺に尋ねたが、その時の俺には彼女の言葉を理解することも、返事をすることもできなかった。
俺は言葉をもたなかった。
彼女は尋ねながらもその問いの答えを知っているようで、俺の前にしゃがみ込むと、「かわいそうに」と言って俺の頭を撫でた。
それから、肩に巻いていた布を取り、俺の腰に巻きつける。俺はその時、自分が素っ裸であることに気がついた。人間が服を着る生き物であることも。
「捨てられたの?」
彼女はまた尋ね、俺が答えずにいると目を伏せ、それから「ごめんね」と呟いた。
「連れて帰ってあげたいけど、うちにはあんたを養う余力がないから」
そう言ってしばらくじっとして、また俺の頭を撫でると「元気でね」と言って帰って行った。
それ以来、俺には『したいこと』ができた。
朝、シダ草の下の穴で目を覚ましたら、川に行って顔を洗う。
木の実をいくらか食べたら、森の中を太陽に向かって歩いていく。
その先には『村』があって、俺は日が暮れるまで、藪に隠れてその景色を眺める。
彼女はその村で暮らしている。人間がたくさんいる景色の中に彼女の姿を見つけられるかどうかは、その日次第。
彼女を見つけることが、俺の『したいこと』だ。
しばらく見ているうちに、俺は彼女の名前が『トオ』であることを知った。皆が彼女をそう呼んでいるからだ。
それから、たくさんのことを知った。
村に住む人間は『村人』。
彼らの棲家は『家』。
彼らが毎日行く、水が張ってある場所は『田んぼ』。平らな土の場所は『畑』。
俺は『言葉』を得ていった。
村人の中には、俺と同じ大きさの人間がたくさんいる。彼らは『子供』。
子供が動くと、体が大きな人間は「わっはっは」と言ったり「こらあ!」と言ったりする。
それを薮の陰から見つめる俺には、彼らの会話を理解するほどの言語能力はまだない。
意味のわからない声を、ただの音として聞く。
ふと、大人が長く何かを話した後、子供の名前を呼んで頭を撫でることに気づいた。
(俺も、何かをしたら、撫でてもらえる?)
俺は子供を真似てみた。
平らに均してある畑を掘る。中から出てきたものを投げる。
家の横に広げてある乾いた草を混ぜる。吊るしてある赤い実をむしって落とす。
俺は色々と試してみたが、大人たちは俺を蹴ったり殴ったりするばかりで、撫でてくれることも、名前を呼んでくれることもなかった。
それからしばらくが経ち、俺は気づいた。
そもそも、俺には名前がない。
(名前は、誰に貰えばいいんだろう)
今になって振り返ってみると、心底愚かな思考だったと思う。
名前をもたない時点で気づくべきだった、とも。
ある日、俺がいつも通りに村へ行こうとすると、森の出口にトオが立っていた。
「トオ」
俺は嬉しくなって彼女の名前を呼び、走り出した。
彼女の前で立ち止まってから、自分が初めて言葉を発したことに気がついた。
「あんた、喋れたんだね」
トオは微笑むと、俺の前にしゃがんで、しかも、俺の手を取った。
とても嬉しかった。
嬉しくて、何かを言おうと口を開く彼女より先に、俺は言った。
「名前、欲しい」
ずっと、名前をくれそうなものに会ったら言おうと思っていた言葉。
村人たちの言葉を聞いて、自分が欲しいものを伝えるにはこう言えばいいと理解していた。
なぜ、この時、俺は彼女が名前をくれそうだと思ったのか。
これについては今もよくわからない。
トオは「名前……」と呟くと、しばらく黙り込み、やがて「『六蔵』ってのはどう?」と尋ねた。
「ロク、ゾウ……」
「そう。この辺りの伝承にある、優しいキツネの名前だよ」
「ヤサシ、キツ……」
言葉のほとんどを理解できない俺に、トウは自分の胸に手を当てて「トウ」と言い、俺の胸に手を当てて「六蔵」と言った。
そこでようやく俺は理解する。
「俺、ロクゾウ!」
やっと手に入れた名前に飛び跳ねると、トウは俺の手をぎゅっと握って「六蔵、聞いて」と言った。
「もう村に来ちゃダメ。みんなあんたのイタズラに怒って、次に来たらボコボコにしてやるって言ってるから」
「ボコ……」
「ええっと……村、来る、ダメ。わかる?」
「ダメ……」
俺は記憶の中の村人の様子に、彼女が発する言葉を探した。
『ダメ』
大人が子供にそう言って、それまでしていたことをやめた子供が撫でてもらう。そんな場面を思い出し、
「わかる!」
俺は言い、トオは「よかった」と言って手を離した。
「元気でね」
それから、村の方へ戻っていく。
俺は不思議に思いながらも、その背中を見送った。
(『ダメ』の後は、撫でて貰えるはず……)
しばらく考えても、彼女が去った理由はわからなかった。
とりあえず俺はシダ草の下の穴に戻り、『村に来る』をやめた状態でいた。
太陽が月に変わり、また太陽が出て、月が出て、太陽が、月が——
三日後、俺は彼女が撫でるのを忘れてしまったのだと結論して、彼女の家を訪れた。
『村に来ちゃダメ』をすっかり忘れて。
* * *
それからのことは簡単だ。
俺は村人たちに見つかり、『ボコボコ』にされ、死んだ。
死の間際、俺は自分の身に起こっていることが理解できなかった。
ただ痛みだけがあって、何かを喚き散らす大人たちの向こうに、何かを叫ぶトオの姿をぼんやりと見ていた。
その時の俺にとって、世界のほとんどは『何か』だった。
死後、完全な言葉を得た俺は、ようやくその時の『何か』を知った。
大人たちが発していたのは『罵詈雑言』。
トオは「やめて!」と言って泣いていた。
どうしようもない、過去の話だ。




