脱走
2026.05.24 改稿
短時間で気まぐれな牝馬の気が変わらないか、メイヴィスは考えたが厩務員に連れられた牝馬は本当に気性難であるのか疑わしいほどご機嫌であった。メイヴィスを見つけるとすぐさま駆け寄って顔を擦り付ける。人懐っこいその様子を見ていた他の厩務員も目を丸くしていた。
「わっ」
背に乗る時もおとなしい。ぐんっと視界が高く、広くなり、メイヴィスは新鮮な気持ちで息を吸った。遠くの方でサイラスやクリスタ、ルーナも楽しんでいる。声が届かないほどの距離であれば、メイヴィスも少し緊張が和らいだ。
馬の手綱を引っ張る調教師に声をかけ、広場の奥の方へ行くよう指示を出す。すると、「いかがですかメイヴィス様」と、いつのまにかクリスタが背後まで来ていた。
「……公爵令嬢様。いつのまに」
クリスタは調教師もつけず、一人で手綱を引いて馬を乗りこなしていた。
「ふふ、乗馬は得意なんですよ」
ゆらゆらとクリスタの馬が近づく。クリスタに撫でられて嬉しいのか、上機嫌だ。
「馬が好きなんです。賢くて、愛らしくて」
そうですか、としか返せず、メイヴィスは口を閉ざす。どうしたものかと黙っていると、メイヴィスの牝馬が落ち着きをなくしていく。どうやら、クリスタの乗る牡馬が気に入らないらしい。牝馬が威嚇すると、牡馬は気圧されて急旋回する。その拍子に、クリスタは落馬してしまった。
「あっ!」
悲鳴が聞こえ、侍女たちが一斉にクリスタの元へ向かう。幸い、彼女が馬に踏まれることはなかった。
「公爵令嬢様!」
叫ぶが、騎手のいなくなった牡馬は走り出し、メイヴィスの牝馬もなぜか後を追う。調教師の制止は間に合わず、手綱は取れてしまった。
コントロールを失ったメイヴィスは、落とされないように牝馬に縋るしかない。牝馬はメイヴィスのことなどお構いなしで牡馬を追い詰める。これが本来の気性の荒さなのだと思い知らされる。止まらない激しい揺れに、目を開けることすらできなかった。
(懐いてるって思ったのは、気のせいだった)
懐いていたのかもしれない。だが、それよりも牝馬は、気に食わない牡馬を蹴りに行くことを優先したのだ。馬はあっという間に草むらから芝生養生中の砂地へと移動していく。牡馬と牝馬は、噛み付いたり蹴飛ばしたりと怪我は免れないほどの争いをしていた。調教師たちは馬に追いつくのに時間がかかり、その間メイヴィスはたった一人で耐えるしかなかった。しかし、牝馬が突然立ち上がり、振り落とされないように首にしがみついていたメイヴィスの腕が外れる。そのままメイヴィスは背中から硬い地面に叩きつけられた。
「侯爵令嬢様!」
それから何分経っただろう。メイヴィスを呼び、助け起こしてくれたのはカレンと一人の騎士だけであった。医者も人員も、ほとんどがクリスタに割かれていることは言うまでもない。
「カレン」
「動かないでください! 今テントにお連れします」
引きずられるようにして、メイヴィスはテントに連れて行かれた。靴を脱がされ、裸足になる。靴はテントの外に放り投げられた。
「侯爵令嬢様、服を脱がせますね。申し訳ありませんが……」
そばに立っていた騎士が状況を察知してテントから出ていく。メイヴィスはカレンの手を借りて服を脱ぎ、とりあえずいつもの格好に戻った。カレンはブローチをつけ忘れることはなく、メイヴィスはげんなりした。
うつ伏せになって背中を晒すと、カレンが息を飲む音がする。が、メイヴィスは痛みで動くことができない。医者もいない中、医学の知識が豊富なわけではないカレンが下手に処置をするわけにはいかなかった。
「カレン。いるんでしょう」
待つしかない。それを覚悟した瞬間、外から女の声がした。草を踏みしめる足音がたくさん聞こえる。
「何?」
カレンが返すと、「殿下がお呼びよ」と女は言った。どこか妙だった。サイラスはクリスタにつきっきりのはずだ。クリスタが落馬した時のサイラスの様子を目撃していないので断言はできないが、確信はしている。そんな中で、医学の知識があるわけではない、クリスタと何か関係があるわけでもないカレンを呼び出すだろうか。カレンも同じことを思ったのか、メイヴィスの顔を見て、テントを出て行く。喋り声は聞こえたが、何を話しているのかまではわからなかった。
「侯爵令嬢様」
やがてカレンが戻ってきた。
「申し訳ありませんが、少々席を外します。すぐに戻ってまいりますので、お待ちください。動いてはなりませんよ」
メイヴィスは目で返事をしてカレンが出て行くのを黙って見送った。そして、手が届く範囲にあった古書を何とか開く。持ってきた覚えはないのだが、好都合だ。
「あーあ、また怪我かよ。見てらんねえな」
現れたコーディが患部を見て顔を顰める。メイヴィスはそれに関して何も言えなかった。たまに外に出てみればすぐに傷を作っているのだ、悪態をつきたくなるのも理解できる。
「……痛みだけでも何とかなりませんか」
尋ねると、コーディは腕を組んでため息をつく。
「綺麗さっぱり治ってたら怪しまれるからな。いいぜ、何とかしてやる」
横になっているメイヴィスのそばに膝をつき、コーディはメイヴィスの手を取った。水分のない、カサついた手だった。
「ほら、終わったぞ」
「嘘みたい……」
ズキズキと鈍い痛みが、綺麗さっぱり無くなっている。
「あっこら、動くな。怪我したところ綺麗にしてやるから」
消毒液が傷口に触れても、しみない。鼻歌でも歌いたい気分だ。
「ありがとうございます」
処置が終わり、メイヴィスは服を着る。コーディに素肌を晒しているが、恥ずかしいとは思わなかった。
「踏まれてはいないか」
「はい、なんとか」
何で医者は来ないんだ? とコーディは外を覗く。それにギョッとして、メイヴィスは後ろからコーディの服を引っ掴んだ。
「あの、見られたら困ります!」
「大抵の人間は俺を見ることはできない。大丈夫だ」
出会ってから少し経つが、いまだにこの精霊の生態をよく知らないことに気がついた。
「そういうことは……先に、教えてください」
「ああ、悪かったよ」
コーディを雑に押し除け、メイヴィスも外を見る。
離れた位置にある別のテントが騒がしいが、視界に入る場所に人はいない。あそこがクリスタのいるテントなのだろう。
(ん?)
違う場所へ目を向けると、金色の髪が森の奥へ消えて行くのが見えた。綺麗に巻かれたその髪は、見間違いでなければクリスタのものだ。
(追わないと)
まさか治療中のクリスタがテントから抜け出したとは思えないが、その正体は気になる。視線を下にやり、靴を探した。しかし、そこには短い草がちまっと生えているだけで、先ほどまで履いていた靴はどこにもなかった。
(どうして?)
だが、じっくり探している暇はない。このままでは見失ってしまう。メイヴィスは裸足のままテントを飛び出し、森へ駆け出した。
「侯爵令嬢、どうした! どこへ行く!?」
古書を持ち出す暇もなかった。メイヴィスは自分を呼ぶコーディを置いて、森の奥へ消えていった。




