ツケの支払い
2026.05.24 改稿
「久しぶりに顔見せたかと思えば、今度は離宮へ療養だと?」
精霊に唆され、城を出てから実にふた月が経とうとしていた。その間、メイヴィスはまったく書庫を訪ねていなかったため、当精霊は大層お怒りである。というより、拗ねている。
「この寒さですから、体調不良者が多いようで」
メイヴィスも疲労と風邪が重なり、ひと月以上も意識がなかった。その間に何があったかは知らないが、今年の王都の冬は極寒だとカレンが言っていたので、おそらくそれが原因なのだろう。
「お前も寝込んでたんだろう。だから行くのか」
心なしか声が暗いが、メイヴィスの状況を把握していたとは流石精霊といったところか。
「本当は部屋にこもっていたいですが、人が少ない方がいいかと思って」
「ああ、まあ……お前は、その方がいいだろうな」
「離宮のことは知っていますか?」
王族ともなれば別荘の一つや二つ、あるのが当たり前だ。しかし、その詳細はもちろん知らないし、知る機会もない。精霊は「あー」と宙を見た。
「避寒地なら南のハルジオンだろうな。あそこは暖かくて過ごしやすいと思うぜ。娯楽はないけどな」
そういえばそんな名前だったと頷く。
「あるのは広大な土地と、温泉くらいか」
「温泉?」
「あったかい湧き水のこと。ただのお湯だと言われることも多いが、成分がまるで違う。療養目的なら必須だな。お前さんは元気なら勧めるが、体調が悪ければやめておけ」
ふぅんと曖昧な返事をして、メイヴィスは小さな簡易ベッドに倒れ込む。惹かれない広報だ。
「人が少ないとはいえ、警戒はするに越したことないぞ」
「警戒?」
はて、と顔を向けると、精霊はいつにも増して真剣な顔つきだった。
「お前はブローチを受け取った。それは、妃になる意思があるとみなされる」
メイヴィスの意思がどうであれ、サイラスから装飾品を受け取ったのは事実。少なくとも、サイラスはメイヴィスをそのように扱うということ。可能性がゼロであっても。
「受け取ったというより、置いていかれたんですが」
事実を述べるが、精霊は腕を組んで呆れたようにため息をつく。
「誰が信じるんだ、そんな話」
「そうですよねぇ……」
「令嬢本人はともかく、面倒なのは侍女たちだ。忠誠心が高い人間ほど、自分の主人には妃になってほしいと願うもんだからな。これから嫌がらせが始まるぞ」
メイヴィスは目を伏せる。コーディの忠告はありがたいが、残念ながらメイヴィスにはその嫌がらせを防ぐ手段がない。かといって、攻撃に転じれば彼女たちの思う壺。
「私は侍女が戻るまで、耐えなければなりません。何があっても」
弱者は、それ以外に選択肢がない。シャロンの不在は不幸中の幸いだ。彼女が嫌がらせの対象にならずに済む。カレンはあくまで命令でシャロンの代行をしているに過ぎないので、対象にはならないだろう。カレンの仕事はメイヴィスの身の回りの世話であり、警護ではない。嫌がらせはすべてメイヴィスに向けられる。
「……侯爵令嬢。前にその侍女を探すのを手伝ったよな」
「? はい、覚えてますよ」
精霊の話に繋がりが見えず、首を傾げる。
「その時の対価、俺は考えておくと返事したな」
「対価……」
何でもすると言ったが、この精霊はその権利の行使をしなかった。
「じゃあ、俺をハルジオンへ連れて行ってくれ!!」
思いがけない提案に、メイヴィスは叫ぶことはおろか、声を上げることもできなかった。そうしている間に、コーディは古びた本を差し出す。
「これさえ持っていってくれたら、俺もついていける」
「そんなことでいいんですか?」
他に使い道があっただろうに、と思いながら尋ねる。
「ああ」
「そこまで温泉に入りたいとは知りませんでした」
「違う違う、そんなんじゃねぇよ」
入れないし、と続く。
「では、なぜ」
追及すると、精霊は少し間を置き、天を仰いだ。あまり言いたくなさそうだ。腕を組んだ指先がトントンと二の腕を叩いている。
「言いたくないなら無理には聞きませんが」
「……お前さんを一人にしとくのは、少し心配だからだよ」
視線がかち合う。冗談めかして吐いたセリフではないようだ。心の内を見透かしているような瞳。こうして時折、メイヴィスは目の前の青年が人外であることを思い出す。
「そんなこと言うのは、あなたくらいです」
少し笑いながら茶化すが、精霊の顔つきは変わらなかった。
「そうでもないさ。お前さんの侍女だって、少なからず心配しているはずだ」
思い出すのはたった一人だ。
「シャロンのことですか? シャロンは、まあ……そうかもしれませんが」
そうだと信じたいだけ。
「違う違う。今の侍女」
まさか否定されるとは思わず、メイヴィスは精霊の言葉を飲み込むまで少し時間がかかった。
「……カレンですか? 彼女は主人の命令に従っているだけで、私には何の情もないと思いますよ」
メイヴィスが妃の座を望んでいないことはとっくに理解しているだろうが、それだけだ。彼女は本当の主人の命令に従い、メイヴィスを誘導している。
「そうかな。お前さんが行方をくらました時はかなり動揺してたが」
「監視を命令されていたのに逃げられたのですから、当たり前だと思いますが……」
「逃げた本人が言うかね?」
チクリと刺してきた言葉は無視し、メイヴィスは話題を戻す。
「ハルジオンには広い土地があるとのことでしたけど、何か用途があるのですか?」
あからさまな誤魔化しに精霊は肩をすくめたが、それ以上言及することはなかった。
「あそこは国境に近いから、民家は少ないが広大な土地があるんだ。いつ何があってもいいように厩舎もあって、馬も飼育されている。だから大きな土地が必要なんだよ運動のために乗馬もできるらしい」
「馬、ですか……」
メイヴィスの表情が暗くなるのを見て、コーディはあらと眉を上げる。
「動物もダメなのか」
「少なくとも、実家の動物たちには嫌われていましたね……」
苦笑しながら告白する。メイヴィスの周囲には小鳥や蝶すら寄ってこなかった。馬に近づいては威嚇され、鶏に近づけば盛大に鳴かれた。だが、どんなに気性の荒い動物でも、マリアだけにはよく懐いていた。
「そうか。まあ、誘われても断ればいいさ」
「断れると思いますか?」
立場が低いメイヴィスが、高位の人間の勧誘を断るのは至難どころか、下手をすると不敬にあたる。最初から誘われなければ、それが最善であるのだが。
「……無理か?」
「難しいかと」
わかっているだろうに、それでも尋ねてくる精霊に淡々と返す。
「その場で倒れるとか」
「不自然すぎますよ」
無茶な提案に笑うと、精霊もつられて笑う。
「また考えよう。時間はまだあるから」
メイヴィスはそのことばには特に反応せず、古書を自室へ移した。




