離宮へ
2026.05.24 改稿
三日後、メイヴィスはコーディの宿る古書を片手に馬車に乗り込んだ。その胸には、カレンによって無理やり付けられたブローチが光っている。出る寸前まで粘ったが、勝てるはずがなかった。
「ハルジオンには一週間ほどで到着するそうですが、体調が悪くなったらおっしゃってくださいね」
正面に座るカレンはにっこり笑顔でメイヴィスの恨めしげな視線を封じる。
「ハルジオンでの滞在期間はどれくらいでしょうか」
諦めて、ほかに気になることを尋ねてみる。
「全員の体調が良くなるまでと聞いております。ひと月かもしれませんし、雪が解けるまでかもしれません」
「そうですか」
吹雪は止み、風のない穏やかな曇天。ただ雪が積もっているため、急がないのだろう。とはいえ。
「そんなに長い間、城を空けて良いのでしょうか」
仮にもサイラスは王太子。本人にしかできない仕事も多くあるだろう。呟くと、カレンは「ご心配には及びません」と返してきた。
「殿下は離宮へ滞在中の間も公務を行うとのことです。侯爵令嬢様のおっしゃる通りお忙しい方ですが、どうしても離宮を訪れたかったようですよ」
「……殿下はそこまで体調を崩されているのですか?」
メイヴィスの知るサイラスは、そこまで体が弱いイメージはない。体格も良く、風邪ひとつ引いたことがないような顔をしている。仕事を持ってきてまで離宮に向かう理由がわからなかった。
「基本的に丈夫な方です。病気もなく、本当に健康体で育ちましたよ。長い間殿下を見ている私も、殿下が離宮に行きたがる姿は見たことがありません。もしかすると、ご自分のためではないのかもしれませんね」
離宮に向かう理由がサイラス本人の都合ではないとすれば、答えは自ずから絞られる。
(なるほど、公爵令嬢様のためか)
周囲からの反発を避けるため、サイラスはクリスタだけではなく、妃候補全員を連れ立っての療養を考えたのだろう。カレンもそれをわかっていて暗に伝えているのだ。
「侯爵令嬢様、こちらをお飲みください」
器を差し出され、受け取る。中には緑に濁った液体が揺れていた。
「酔い止めの薬です。長い旅になりますから」
幸い、量は多くない。あっという間に流し込み、器を返却した。しかし後から襲ってくる苦味に顔を歪める。
「ほかにも体に違和感がありましたら、すぐにお知らせください」
軽く頷いて会話は終わる。窓の外を見ると、いつの間にか王都を出ていた。タイヤが吸収した衝撃が体を揺らすが、そこまで不快ではない。
(痛い)
寒さのせいか乾燥のせいか、目が痛む。瞬きをしているとじわりと涙が滲んだ。感情からきたものというより、生理的な反応である。
「侯爵令嬢様? 大丈夫ですか」
目を閉じて黙り込んだメイヴィスの様子を不審に思ったのか、カレンが声をかけてくる。
「少し、目が痛くて。寝ますね」
「かしこまりました」
体は左右に揺れるが、目を閉じているといつの間にか周囲の音は聞こえなくなった。
「侯爵令嬢様、到着しましたよ」
ぽんぽんと優しく体が叩かれる。座席に寝そべって眠りこけていたメイヴィスは、うめきながら体を起こした。
「到着……?」
寝ぼけ眼で反芻すると、カレンは「ハルジオンです」と答えた。確かに王都とは違ってぽかぽかと暖かい陽気を感じる。
「あれ、先ほど出発したばかりでは」
カレンを見ると、困惑した顔で「いえ、もう王都を出て七日目ですよ」と返される。そして、この七日間で滞在した土地名を挙げられるが、どこにも停泊した覚えがない。
「今日は何日ですか?」
そう尋ねて戻ってきた答えも、出発から七日後。どうやらおかしいのはメイヴィスのようだ。
「あれ……」
真っ白だ。この七日間、自分がどこで何をしていたのか、まったく記憶がない。一ミリも、一文字も、紙に書けることがない。メイヴィスの日記は七日前で止まり、七日分の空白がある。
「侯爵令嬢様、動けますか?」
カレンの不安げな問いに答えられない。思い出そうとすればするほど、あの酔い止めを飲んだところで暗転する。
(ただの物忘れ、で片付くことなの?)
いくら忘れっぽいメイヴィスでも、ここまで酷いことは今の今までなかった。
「……あ」
腕を動かすと、硬いものに触れる。精霊が宿る古書。彼なら、何か知っているだろうか。
「侯爵令嬢様、少し休みましょう。せっかく療養でいらしたのに、体調を崩されては意味がありませんから」
こちらは私が持っていきますね、と明らかに重いその古書を軽く持ち上げ、カレンは先に降りていく。メイヴィスはフードを目深に被り、その後を追った。なるべく早く、精霊と会話がしたい。
カレンはメイヴィスを部屋に案内し、古書を机に置く。
「侯爵令嬢様、私は報告に向かうので席を外します。後ほどお水をお持ちしますね」
やや忙しなくカレンは部屋を出ていき、メイヴィスはポツンと部屋に取り残される。だが、うららかな陽気を塞ぐようにカーテンを閉め、すぐさま楽な服装に着替えた。
「……」
古書の表紙に触れ、ひとつ息を吐く。この七日間の移動の記憶がない。こんなことは、他の誰にも言えない。頭がおかしいどころの騒ぎではなくなってしまう。病院に閉じ込められるだろう。それはそれで一向に構わないのだが、その道を辿るのはシャロンを自由にしてからである。
「コーディ」
名を呼び、本を開く。古い本は紙も劣化し、丁重に扱わねばすぐに破損するおそれがあった。
「おお、やっと着いたか。おはよう、侯爵令嬢。体は大丈夫か?」
にゅっと現れた精霊は呑気に挨拶をしてくるが、それどころではなかった。
「あの……実は、この七日間の記憶が全くなくて。心当たりはありませんか」
「はぁ?」
怪訝な顔をするということは、精霊が何かしたわけではないようだ。
「出発時に酔い止めの薬を飲んだことまでは覚えているんです。馬車の中で眠って、次に目が覚めたらもうハルジオンに到着していて……」
メイヴィスが不安に駆られていることを悟り、精霊はふむと考え込む。
「記憶が飛んでいるんだな。それはちょっと、いやかなり危険だ」
こくんと頷く。メイヴィスはこの七日間、ずっと眠り続けていたわけではない。誰かと言葉を交わし、食事をし、眠りについたはず。その一切を覚えていないということは、自分に危険が迫っていることも認識できないということ。言われたことも覚えておらず、その言葉に対して何を返したのかもわからないのだ。
「体が痛いとか、記憶以外に違和感はないか」
「いえ、そういったものはなくて」
「こっちも異常は把握していない。ただ、お前さんはこの七日間、一度も俺と会っていないのは確実だ」
誰の目があるかわからないので、自分が古書を開いていないのは納得できた。精霊の様子からして、本当に何もなかったのだろう。
「なら、いいのですが……これからこんなことが増えるかもしれないですね」
「否定はできないな。常に誰かがそばにいてくれればそれが最善だが、お前さんはそれを望まないし」
メイヴィスのそばにいるということは、即ち危険から守るということ。怪我はおろか、下手をすると命にも関わってくる。そんな仕事をやりたいという人間はいないだろう。
「眠り続けている方がずっとマシですね」
「それもどうかと思うが……」
「このブローチのせいってことはあり得ますか?」
胸元を指差すと、精霊は「流石にそれはない」と真顔で否定した。
「冗談です」
笑ってみせるが、半分は本気だった。これを着けてから間もないうちの出来事であったので。
「そんな冗談が言えるなら大丈夫そうだな。栄養剤食って、温泉浸かってこい!」
精霊にバシンと背を叩かれ、メイヴィスはよろめきながら栄養剤を一粒袋から取り出した。




