人形
2026.05.23 改稿
「……」
カレンが退室すると、サイラスが徐に椅子から立ち上がり、その音でメイヴィスは大袈裟に肩を震わせてしまう。が、サイラスはメイヴィスではなく、窓に近づいて外を眺め始めた。
「怪我の具合はどうだ」
しばしの無言の後、サイラスは尋ねた。顔はやはり窓の外に向けたまま。
「もう大丈夫です」
所詮は打撲なので、症状は内出血程度だ。そこまで引きずるような怪我ではない。脳に障害を負っている可能性は否めないが、あれからかなり時間が経過しており、悪化もないのだからもう言及の必要もないだろう。
「……」
サイラスは無言で窓のそばから離れ、メイヴィスの背中側に歩いてくる。背中に視線を感じるが、振り返る勇気はない。
「マリアがいなくなって、何年経った?」
「は……」
唐突な話題の転換に、メイヴィスは固まる。
(殿下はまだ、マリアのことを?)
マリアを覚えている人間はそう多くはない。クリスタという王妃に最も近い令嬢が現れてから、マリアは何となく口に出せないタブー的な扱いになってしまっていた。
「来月で……ちょうど7年になるかと」
これだけは忘れもしない、マリアが亡くなった日。
あの年は大寒波に見舞われ、マリアも高熱を出して寝込んでいた。メイヴィスはマリアに付いていた侍女から面会謝絶を言い渡され、部屋でふて寝していた。両親は長女を心配こそすれど自分たちの仕事や生活もあったため、マリアのそばにずっといたのは侍女だけだった。しかし、侍女がマリアのためにお湯を持ってこようとそばを離れたその隙に、マリアは部屋を抜け出した。そして見つかった時には、吹雪の中庭園で倒れており、冷たくなっていた。
死因は凍死だった。
あの時ふて寝していたメイヴィスは、皆よりマリアの訃報を聞くのが遅くなった。唯一情報をメイヴィスに教えてくれていたシャロンもメイヴィスに付き添って、周囲と断絶していたためだ。まさか自分が眠っている間に姉が死ぬとは夢にも思わず、その後のことはあまり覚えていない。両親が酷く悲しんでいたことくらいしか。
なぜマリアが雪の積もる庭園に出たのかはわからないが、下がらない熱にやきもきして手っ取り早く冷やそうとしたのではないか、と医者が言っていたらしい。
「そうか」
尋ねておいて、あまり興味がなさそうな相槌だった。クリスタやカレンを追い出し、メイヴィスだけを残したのはこれが理由だったのだろう。当事者以外には、あまり聞かせたい話ではない。
(マリアの葬儀には、殿下もいらっしゃっていたはず……なんだけど、何も覚えてないな)
毎年、命日が来るたびにサイラスはマリアのことを思い出しているのだろうか。
(いや、それはありえない)
クリスタがいながら、マリアのことを思い出している暇はなさそうだ。マリアをまだ思っている、というより、メイヴィスを見て思い出しただけなのかもしれない。メイヴィスとマリアは、似ても似つかないが。
(この7年の間、殿下は一度も侯爵家には来なかった)
マリアを想っているのなら、命日に花か手紙を送ってきてもおかしくないのだが、それらも一切なく、両親が「冷たい」と文句を言っていた気がする。別の令嬢と懇意にしているのだから、死んだ元婚約者のことなど気にかけるわけがないだろうに。
「殿下。姉のことはどうかお忘れください。今の殿下には、公爵令嬢様がいらっしゃるのですから」
サイラスとしては、ただの雑談なのかもしれない。しかしやはり、未練があるような言動は慎むべきだ。気持ちがなかろうと。
「ですが……姉を気にかけてくださり、ありがとうございます」
返事はなかった。振り向いて顔を見る勇気はない。どんな感情なのか、メイヴィスには知る由もなかった。
「……首を見せろ」
「えっ?」
靴音が近づく。振り返るより先に、首の後ろに何かが触れた。布の感触だ。
「殿下、何を」
「動くな」
後ろ髪がどかされ、首がさらされる。
「この痕は?」
「それは……いつのまにか、できていたものです。お見苦しいでしょう」
遠回しにやめろと伝えると、サイラスの手袋が離れていく。メイヴィスは、首の後ろに傷跡のような凹みがあった。ある日シャロンに指摘されて気がついた。だがそれは癒えることもなく刻まれたまま。
「いつも着込んでいるとは思っていたが……まあよい。ドレスを一つ仕立てておけ」
また疑問が口から溢れ出る。今度は音にもならなかった。
「意味は、わかるな?」
それはまるで処刑宣告だった。ドレスを仕立てろ、ということは近いうちにメイヴィスを公衆の面前に出すということだ。公衆でなくとも、誰かの前に。
「……承知、しました」
自分の手元にいくらあるか思い出しながら、メイヴィスは返事をした。
(お金も、マリアがこっそり渡してくれたものだからなあ)
要は遺産である。残りは両親が回収しただろう。メイヴィスに侯爵家の資産が渡ることはなく、妃候補になってもそれは同じだった。本来であれば、親が娘にいくらか持たせるのだ。それがないメイヴィスにとって、マリアの遺産は何かがあったときの最後の砦。とはいえ、豪華なドレスを作れるほどの大金ではない。安いドレスすら難しいだろう。
(マリアのドレスは、すぐに両親が売ってしまって何も残らなかった)
唯一残った一着を加工し、今着ている。
「話は以上だ」
サイラスの言葉を合図に、メイヴィスはすぐさま立ち上がり、部屋を出る。ただならぬ様子で出てきたメイヴィスに、控えていたカレンは驚いて一歩下がった。
「侯爵令嬢様、殿下は何と……」
「いいえ、何でも。体調管理をしっかりするよう、お叱りを受けてしまいました」
するりと横をすり抜け、廊下を辿る。
「左様ですか」
カレンはそれ以上追及しなかったが、わかっているはずだ。メイヴィスの言葉が偽りであることを。
(何が目的なんだろう)
メイヴィスをお披露目したところで、王室に利はない。王太子妃が正式に決まるまで、部屋に閉じ込めて最終的に追い出せばいいだけの話。
(考えても、わかるわけないか)
サイラスは何も言わない。その行動の理由を。
決まったことを淡々と告げ、反論を許さない。メイヴィスの事情など何一つ考慮せず、こうして無理難題を吹っ掛ける。
(あんな綺麗なドレス、私に用意できるわけないのに)
煌びやかな彼女たちのドレスを思い出す。良家の令嬢なら、あれが普通なのだろう。残されたわずかな資産を、そこに投資するのはやはり抵抗がある。売ったとしても二束三文の可能性が高い。
(やめよう)
信頼は最初から地の底。これ以上失うものも、得られるものもない。
(私がドレスを用意できなかったとして、私以外の誰も困らないなら)
無理に従うこともないだろう。
『マリアに触らないで! あなたの病気が感染るでしょう!』
咳き込むマリアに伸ばした手が、乱暴に押しのけられる。その勢いで、小さなメイヴィスの体は床に倒れた。
『メイヴィス』
弱々しくマリアの呼ぶ声が聞こえる。
『おかあさま』
何かが明確に変わった、あの日。マリアが、サイラスに見初められて、少し経ったあの日。
マリアとメイヴィスは、同じ時を過ごすことを禁じられた。唐突に。
両親、特に母は、マリアに降り掛かる不幸全ての原因が次女のメイヴィスにあると思い込んでいた。そのため、マリアの周囲からメイヴィスという存在は徹底的に消された。やがてそれはマリアに限らず、侯爵家全体からメイヴィスが迫害される結果を招いた。
『不幸を感染させる不吉な娘』だと。
メイヴィスは、自分からマリアに会いに行くことをやめた。これ以上、両親に嫌われたくなかった。陰口や嫌がらせを避けるため部屋に篭り、マリアの回復を祈った。マリアが王太子妃になれば、両親は自分を見てくれる。そんな淡い期待があったのかもしれない。
だが、現実はそううまくはいかなかった。
『メイヴィス』
引きこもるようになって初めて会いに来たのは実父だった。珍しく上機嫌で、久しぶりに名前を呼ばれた。
『マリアが寝込んでいて寂しいだろう。ほら』
そう言って取り出したのは、金色の髪に美しい緑の目をした人形。どこかマリアに似ていた。
『これは……どうしたの?』
『普段なかなか構ってやれないから、ささやかなプレゼントだ。大事にしなさい』
父から直接贈られたプレゼントは、これが最初で最後だった。
『ありがとう、おとうさま』
幼いメイヴィスは、これを機に家族が元に戻ると思った。しかし、父が部屋を訪ねてきたのはその一度のみだった。メイヴィスが以前より寝込みがちになっても誰も気にかけなかった。シャロンが慰めるように頭を撫でてくれた。代わりのように人形をそばに置いた。食べるとき、寝るとき、本を読むとき。どんな時も。
そうすれば、家族の誰よりもメイヴィスを気にかけてくれるマリアが、そばにいてくれるような気がした。
(そういえばあの人形……どこに行ったんだろう)
部屋に戻ってから気絶するようにベッドに倒れ込んだメイヴィスは、夢から醒める。
(確か、あれからマリアが元気になって、二人とも喜んでたっけ)
それも束の間の出来事だった。マリアはそれから少しして帰らぬ人となった。
(同じ頃に、あの人形をなくしてずいぶん怒られた)
そこまで小さいものではなかったのだが、結局今も見つからないまま。きっと屋敷のどこかにいるのだろう。そうでなければ、誰かが処分したか。
「……」
物覚えの悪いメイヴィスだが、嫌な記憶は残るものだ。いっときは忘れられても、きっかけさえあれば湧水のように流れてくる。
正気を失った叫びと怒り。あらゆる矛先すべてが向けられる絶望感。叩き落とされる孤独という名の地獄。
メイヴィスの人生は、どこを切り取っても傷しかなかった。
(どうにもならないことで理不尽に怒られるよりは、存在を丸ごと無視されていたほうが、楽かな……)
城に居る人間は所詮他人だ。メイヴィスがここから去れば、もうその人生が交わることはない。だが、家族は違う。この世で唯一血の繋がりがある。それらも全て否定されたわけだが。
(息をするのって、こんなに辛かったっけ)
心臓は弱々しく、けれど早く脈打っている。耳を塞ぐとより鮮明に、哀れな命を感じさせた。
すでにメイヴィスの頭から、ドレスの件は綺麗さっぱり消えていた。




