夢と目標
2026.05.23 改稿
「侯爵令嬢、お前さんなんか大変だったんだって?」
ひと月経ってもまだ傷が癒え切らなかったメイヴィスは、書庫にこもっていた。カレンはメイヴィスが怪我を負ってから、妃教育についてとやかく言うことはなくなった。それが逆に不気味だが、都合が良いのも事実。
コーディは突っ込むべきか悩んでいたのか最初こそ黙っていたが、ついにその話題に触れる。
メイヴィスは頭に入ってこない目の前の本を閉じ、寝そべるコーディの方を見た。
隠し部屋は小さいが、メイヴィスが椅子と机を陣取ればコーディはベッドを陣取る。小柄な二人は窮屈には思わなかった。
「ええ、まあ……でも、解決しましたので」
語るのも面倒だとメイヴィスは曖昧に笑ってそれ以上語らない。
「ひと月経っても治らない傷負わされて、解決ねえ」
コーディは無関係であるというのに不服そうだ。しかし、メイヴィスがルーナに怒ったところで新たなトラブルの火種となるだけで、それは火を見るよりも明らかであった。
「ただの事故ですから」
「……高さ5、6メートルの高さから落ちた人間を受け止めただけにしては、あまりにも重傷すぎる気がするが」
「草があったとはいえ、思い切り頭をぶつけましたからね。当たりどころが悪かったのでしょう」
治りが遅いのは、あまり食事を摂れていないからだろう。メイヴィスは決まって食欲がないと伝えていたが、自分が貴重な城の食糧を口にしていいのだろうかという意識が無意識に働いていた。結果、一日中天井を見つめ続ける屍のような状態になってしまった。カレンがメイヴィスが書庫に行くことを咎めなかったのは、その様子を目の当たりにしてしまったからかもしれない。
「あ、それと……近々ここを出ようと思っているんです」
「は?」
メイヴィスの発言に精霊から表情が消える。
「辞退勧告を受けたので、シャロンを解放するように頼んで、出て行こうかと」
シャロンを助けるには、もうこれしかなかった。
「は、は、何で? 何でそうなる? 辞退勧告? 誰が?」
ごろんと寝そべってリラックスしていた精霊は、弾かれたように飛び起きる。
「殿下が妃候補たちに証である装飾品を渡したそうなんですが、私には何もなくて。ここにいることを許されていない気がしたんです」
表立って候補を拒否することはできなかったが、辞退させるように持っていくことはできる。
「は〜? あれはペンダントにブレスレットにブローチだろ。三つあって候補も三人。お前にだけ渡さない理由はない。その様子だと直接言われたわけでもないだろうに、早とちりじゃねぇか」
精霊は呆れたようにため息をつき、指を立てながらぶつくさつぶやいている。
「何かトラブルがあったのかもしれん。そう早まるな」
「でも……」
「居心地が悪いのは理解できる。だが、出て行くから重要参考人を解放しろと頼んだってそううまくはいかない。無罪が証明されない限り、許可は降りないだろう。お前はここを避難所にして、うまくやり過ごすしかないんだよ」
宥めるように言われ、精霊の言うことにも一理あるとメイヴィスは納得する。突発的な行動はシャロンも迷惑を被る可能性があった。
「それより、顔色が酷いぞ。どうせろくに食事も摂ってないんだろ」
「……」
メイヴィスが否定できずに黙っていると、精霊は即座に「いや」と否定する。
「別に責めてるわけじゃない。心配してるんだ」
自分の物言いが棘を持っていたと思ったのか、精霊は意図を説明し始めた。
「わかっています。ありがとう」
「そんなお前にプレゼント」
紫色の袋を渡され、メイヴィスは首を傾げる。
「これは?」
「栄養剤みたいなもんだ。中に小さなキューブがいくつか入ってる。それを日に最低でも一回は口に入れろ。三回が理想だが、いきなりは無理だろうから」
ころんと一つ手のひらに出してみる。茶色っぽい色をして、どちらかというと家畜に与える餌のようだ。
「これなら食事が摂れなくても気にする必要はない。食べてみろ」
促され、咀嚼してみる。硬くはないが、美味しいかと言われると素直に頷けない。
「あなたが作ったんですか?」
「そうそう。なくなる頃に部屋の机に新しいものを置いてやるから」
そばにいるわけでもないのに、この精霊には何でもお見通しのようだ。普通であれば怖いはずなのに、何も感じなかった。
「ありがとうございます」
「本当はちゃんとした食事を摂るのが理想だがな。何も食わないよりはマシだろ」
ほれ水、とコップに入った水を渡され、飲み下す。
「お前は俺を使いこなすのに時間がかかりそうだな。頼るのが下手くそだ」
精霊はベッドから立ち上がり、メイヴィスにそちらへ移動するよう促した。
「今までは、誰かに頼らずとも周囲が私の世話をしてくれていました」
だが、今その周囲には誰もいない。メイヴィスは両親に放置され、自分から何かを主張することができなくなった。提案されて初めて、頷くことができるのだ。
「人として、あまりにも未熟ですよね」
促されるままベッドに腰をかけると、肩を押されてぱたんと横になる。
「ま、そんなお前みたいな人間を救いたくて、女王は俺を飼い犬にしたんだろうなぁ」
精霊はメイヴィスの靴を脱がせて足をベッドに押し込む。そしてふわりと上掛けを被せた。
「治世者ってのは、弱者を切り捨てざるを得ない側面があるからな。わかっていても、そうはなりたくなかったんだろうな」
「……あなたは……女王陛下をとても慕っているように見えます」
温まっていた寝具はすぐにメイヴィスの眠気を誘う。
「ん? まあな。あんな良い女は、これから先どんなに生きても、出会える気がしない」
「……」
どこか懐かしむような言い方だが、寂しそうな気配はない。それが不思議だった。そこまで大切な人であるのなら、また会いたいとは思わないのだろうか。
うとうとしていると、額に手が置かれた。
「はは、もうおねむだろ。おやすみ」
電気を消され、瞼が落ちる。疑問は暗闇に握りつぶされ、どこかへ消えた。
『可愛いマリア、あなたが王妃となるのが楽しみだわ』
『今日も王子殿下がいらっしゃるのだろう? 早く支度しなさい』
両親がメイヴィスに興味を失ったのは、当時第一王子だったサイラスがマリアに興味を持った時だった。それだけで両親は歓喜し、マリアに全てを投資した。メイヴィスに与えられるはずのものも、全てマリアが持っていった。
両親がマリアを着飾り、抱きしめ、家族としての時間を過ごす中、メイヴィスは部屋の外で彼らの様子をただ見ていた。完成された家族の姿がそこにあり、自分はその輪に入ってはいけない気がしたのだ。無理に入っていけば、両親の顔から表情がなくなり、冷めた目で見下ろされることをわかっていた。
『ねえメイヴィス、これあげる』
マリアが髪留めをつける。新しいものが増えなくなったメイヴィスは、いつもマリアからお下がりをもらっていた。と言っても、両親の愛情が偏っていることに気がついたマリアがメイヴィスのためにこっそり物を買ってくれていたのだ。お古ではない。
誰にでも優しいマリア。そんなマリアをメイヴィスは恨んだことはない。羨んだことはあるが。
『……ありがとう』
マリアが妹に物を与えていることは、一度も両親に露呈しなかった。それほど両親は次女への興味を失っていた。メイヴィスの新しい装飾品も、ドレスも、髪型も、両親は気が付かない。
『殿下がいらっしゃったから、一緒に挨拶に行きましょう』
差し出された細い手を取って、メイヴィスはマリアに引っ張られるように玄関へ赴いた。そこには既にサイラスが到着しており、出迎えを待っていた。
『やあマリア』
まだ幼かったサイラスも、当時は愛想の良い少年だった。
『王子殿下にご挨拶申し上げます』
隣でマリアが礼をとり、メイヴィスも慌てて倣う。
『マリア、その子は』
『はい。妹のメイヴィスです。どうぞ仲良くしてください』
メイヴィスはその時、伏せていた顔を上げてサイラスを見た。
『よろしく、メイヴィス』
サイラスは小さなメイヴィスに視線を合わせて屈んだ。しかし、その時メイヴィスは勘付いてしまった。目の前の王子が、メイヴィスを歓迎していないと。瞳が笑っていなかったのだ。
『……』
無言で頭を下げ、視線を外した。後退りしてマリアの背後に隠れる。当然だが、サイラスもマリアにしか興味がない。メイヴィスという妹は、マリアの付属品でしかなく、彼にとっては邪魔以外の何者でもなかったのだろう。
『あらあら、緊張しているようです。どうかお許しください』
『構わないよ』
どこかへ移動する気配を感じて、メイヴィスはマリアが繋いでくれた手を離す。
『メイヴィス? どうしたの』
マリアは決してメイヴィスを邪険にすることはない。だがその優しさが、逆に辛かった。
『……あ、えっと。シャロンに用事があるから、先に行ってて』
『そう? じゃあ私と殿下は温室にいるから、後でいらっしゃい』
談笑しながら並んで歩く二人を見送り、メイヴィスは来た道を戻る。誰もいないマリアの部屋に入って、先ほど付けてもらった髪留めを外した。きっとマリアがメイヴィスのために買ったものだ。その愛を疑うつもりはない。しかし、誰の目にも触れることがないものを付けても、虚しいだけだった。
『……』
机の上に置いておくと、マリアはまたメイヴィスに与えようとするだろう。引き出しを開けて、奥深くに隠すようにしまっておく。そして、自室に戻って眠りについた。




