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妃候補の証

2026.05.23 改稿







それから何日が経っただろうか、メイヴィスは自室で目を覚ました。

やや欠けた月がぽっかりと夜空に浮かび、周囲には誰もいない。起き上がると頭が痛んだ。


「……」


手を伸ばしてみると、包帯の巻目に触れる。背中も痛い。背面全部が痛い。


「何があったんだっけ……」


記憶力のない頭では、細かいことまでは思い出せそうにない。だが、何かしらのトラブルが起きたことは理解していた。サイラスとの唯一の約束を、何も守れていない。


(怒られるのかな……嫌だなぁ)


誰かに尋ねたかったが、いざ尋ねるべき人物が思い当たらない。こんな夜では、誰もメイヴィスの意識が戻ったことに気がつかないだろう。

叩き起こさなければならないほど、切羽詰まっているわけでもなし。


「明日で、いいや」


寝起きに怒られたらたまらないと、横になる。


(あ……そうか、確か)


唐突に、自分がルーナの下敷きになったことを思い出した。こんな風に地面に仰向けに倒れたのだった。


「無事かな、伯爵令嬢様」


無事でいてもらわなければ困る。怪我なんてしようものなら、メイヴィスが責められる。メイヴィスの方が命に関わる重傷であってもだ。好きな女と興味のない女、無傷でいて欲しいのはもちろん前者。生死が左右しようとも、どうでもいいのが後者。


(見舞いに行ったら、また悪い噂を流される)


であれば、動く必要はない。メイヴィスが何もしなければ、誰も気にかけない。メイヴィスがどんな目に遭おうと、誰の日常も乱れない。心配も、不安も、誰の心にも芽生えない。


「無能で役立たずの、メイヴィス・ラングラーだからね」


意味の見出せない命が役に立つ方法を、見つけた気がした。






















早朝、軽く扉が叩かれた。メイヴィスが目覚めていることを期待していない。そんな音だった。メイヴィスは目が覚めていたが、反応せず眠っているフリをした。相手が誰であろうと、意識が戻ったことを知られたくない。

入って来た靴音は一人分だ。カレンだろうか、と出ていくのを待つ。その誰かは、メイヴィスのベッドまでやって来て足を止める。顔を覗き込んでいるようだ。ふと、顔に気配がくる。手をかざしているのか。


「……」


誰かは、全く声を発さないので正体がわからない。男か女かさえも。部屋にあった椅子をわざわざ持ってきて座ってしまい、出ていくつもりはないようだ。であれば、カレンなどの侍女ではないのか。

そんなことを考えていたが、メイヴィスはそのまま寝落ちてしまった。




















次に気配を感じた時は、ためらう暇もなく目を開けた。すると、青い目をした美しい女と目が合う。


「侯爵令嬢様!」


ルーナはすぐさま部屋を出て、医者を呼ぶように言いつける。少し騒がしくなった後、医者がやって来た。


「気分はいかがですか、ラングラー侯爵令嬢様」


医者は妻を連れていた。夫の隣に立ち、メイヴィスをじっと見つめている。


「……普通です」


視線に慣れていないメイヴィスは、ベッドから起き上がってもずっと下を向いていた。


「傷の具合を確認させていただいてもよろしいでしょうか。妻が見ます」


医者の問いに頷き、包帯を巻かれた頭を差し出す。そして服を脱ぎ、打撲痕を晒した。


「治りが遅いですね。本当はまだ痛むのでは?」


医者の妻は鋭く尋ねてきた。なぜか責められているような気がして、メイヴィスは少し手が震えた。


「……少しだけです」


医者は納得していないのか呆れているのか、暫し「うぅん」と唸って黙り込んだが、最終的には「薬を出しておきます。必ず飲んでください」と念押しするだけですぐ退室していった。


「侯爵令嬢様。お怪我以外特に異変はないですか」


ずっと部屋の隅で待機していたカレンが、医者を見送った後、メイヴィスのベッドまでやってくる。


「はい、少しぼんやりするくらいです。私はどのくらい眠っていたのでしょうか」

「約1週間です」

「1週間……」


日付を尋ねると、正確には10日経っていた。それだけ聞くと、かなり重傷に感じる。しかし、先ほど医者に言ったように、痛みはもうほとんどない。だが治りは遅いらしい。


「パリッシュ伯爵令嬢様より事情は聞いております。仔猫を助けようとして木に登ったはいいものの、突風で落下して真下にいた侯爵令嬢様を下敷きにしてしまった、と」

「……そうですね」


事故といえば事故だが、起こるべくして起こった事故とも言えるだろう。


「侯爵令嬢様は、伯爵令嬢様を助けようとなさったのではないですか?」


そこは大して重要なことではない。曖昧に笑い、返答を避けた。


「それより、伯爵令嬢様はご無事だったんですか? 先ほどお会いした時はお元気そうに見えましたが」

「伯爵令嬢様は、侯爵令嬢様のおかげで軽い打撲程度で済んだそうです。毎日こちらへ来てくださっていました」


カレンの返事に天を仰ぐ。メイヴィスの小さな体では、流石に無傷とはいかなかったようだ。


「お礼を、言わなければいけませんね」


ついでに謝罪も。庇いきれなかったことに対して。

カレンはメイヴィスの言葉の意味がわからなかったのか少し首を傾げた。だが、聞き返すことはなかった。


「王太子殿下も、一度だけですがこちらにいらっしゃったんですよ」

「殿下が……?」


怒られることは覚悟の上だ。しかし、意識が戻っていない時にサイラスが部屋に来る理由がわからない。

なぜサイラスが来たのかわかっていないメイヴィスにカレンは苦笑する。


「侯爵令嬢様のお見舞いにいらっしゃったんですよ」


普通の感覚であれば、誰もがそう思うだろう。いくら興味のない女でも、一応は王太子妃候補なのだから、と。

しかしメイヴィスはその言葉を信じていなかった。メイヴィスは、見舞いという行為には心配という感情が根底にあると思っているからだ。そしてその感情を、サイラスがメイヴィスに対して持っているとは思えなかった。


「見舞いだなんて、そんなわけ……」


つい笑ってしまう。

おおかた、ルーナに経緯を聞いて実際に何がどうなったのか知りたかっただけだろう。それはたいそう公人らしく、事務的な義務。であれば、一度だけという回数も納得がいく。


(何の取り柄もない一人に肩入れするより、大多数の幸福を求めることが仕事だもの)


王太子の立場として、それが正しいと思う。自分の娘が冷遇されたからと言って、抗議する厄介な親もいないのだ。


「冷酷に見えますが、殿下にも人の心はあるのですよ」


ややトーンが下がり、メイヴィスは口をつぐむ。目の前の侍女がサイラスの味方であると言っていたことを思い出した。誤魔化すように、『今はメイヴィスの味方』と言っていたことも。


「私は、殿下のとる行動全てが正しいと思います」


メイヴィスがそう言うと、カレンは苦い顔をして「少し出ます」と部屋を出ていった。何もサイラスを否定したいわけではない。何の役割も求めていないメイヴィスに対して時間を割き、優しさを与えるほどお人好しではないと思っているだけだ。王太子が考えなければならないのは、民の生活と国の未来、そしてごく僅かな大切な人のみ。無能令嬢のことではない。


「……お父様もお母様も、見舞いなんて来たことないのに」


どうしてサイラスが来たことを信じられようか。



ルーナが部屋にやって来たのは、それから少し後のことだった。


「侯爵令嬢様」


目覚めたメイヴィスを見つけたのは彼女だが、医者を呼んだために出直して来てくれたのだ。メイヴィスが起きあがろうとすると、止められた。


「お身体はつらくありませんか?」


体調不良は日常茶飯事なので、どうということはない。痛みにも強くなっていると思う。


「はい。もうなんともありません」


治りが遅いことは黙っておく。伝えたところでどうにもならない。だが、ルーナの表情は晴れなかった。


「何とお詫びをしたらいいか」

「いいえ。こちらこそ、毎日来てくださっていたと聞きました。ありがとうございます」


詫びなど不要だ。メイヴィスが傷だらけになったところで、誰が気にするのか。礼を伝えると、ルーナは少し目を見開いて傷ついたような顔をした。


「……お礼を言うのは、私の方です」


ルーナが俯き、さらりとプラチナブロンドの髪が流れ落ちる。


「助けてくださって、ありがとうございます」


メイヴィスは、何と返したら良いかわからなかった。ルーナを助けようとしたのは、自分に言いがかりをつけられたくなかったからというのが一番の理由だ。100%善意のように思われるのは、少し違うのである。


「軽い打撲だったとか。庇いきれなくて申し訳ありません」


無傷が理想だった。今はまだ未婚の女性なのだから。妃になるのであれば、なおさら。


「痕が残らなければいいのですが」


城の医者は優秀だろうから、きっと何も問題がないことを願うしかない。


「……侯爵令嬢様が謝ることではありません。私の自業自得ですから」


そう返され、これ以上この件について話すことはなくなった。


「そのブレスレット、綺麗ですね」


やや強引に話題を変える。ルーナの手首にキラキラと光っていたものがやけに目についた。


「こちらは……王太子殿下から頂いたものです。妃候補に渡しているとお聞きしました。侯爵令嬢様は、何も受け取っていらっしゃらないのですか?」


ルーナが光を取り込むように腕をかざすと、白の宝石の中に紋章が浮かぶ。


「私は、何も」


短く返す。不平等な扱いには慣れているので、今更どうとも思わない。


「受け取ったのはつい最近ですので、すぐに届くと思います。侯爵令嬢様はお怪我でそれどころではなかったですし……」


ルーナのフォローはやや苦しげだ。


「殿下が直々に持って来たのでしょうか」

「侍女が持ってきました。何やら曰くがあるようで」

「いわくですか」


何やら事情があることはわかるが、興味はなかった。


「クリスタ様はペンダントを受け取ったようです。あと一つはブローチだったかと。それらは王太子妃の証として選ばれた者が身につけるのだとか」

「……分割した、ということでしょうか」

「そういうことになりますね。私にも意図はわかりません」


すみません、と言われてとんでもないと返す。

ルーナがわからないということは、サイラスはその真意を誰にも語る気がないのだろう。


「では、私はこれで失礼いたします。今回のことは本当にありがとうございました。どうかご自愛くださいませ」


ルーナが退室し、部屋の色が一気に失われた気がした。


(きっと、そのブローチとやらが届くことはないだろうな)


装飾品の分割が意味するところは、今回の場合候補である証となるのだろう。しかし、メイヴィスはその席から最も遠いところにいる。本人にもその気はない。そんな証が欲しいとも思わない。


「早く出て行かないと……」


これは辞退勧告だ。万一父に問い詰めらることがあっても、そう言い訳できる。相手からやんわりと拒絶される意味がわからぬほど、愚かではないはずだ。

だがシャロンがいない現状で、メイヴィスは身動きを取ることは不可能であった。




















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