第三十話 常識の対極――即ち『常識』
「それって…天動説のことですか?」
『天陽がこの星を中心に周っている』という彼女の発言を言い表す言葉として、これ以上に妥当なものはないと確信した。
地動説――天動説とは対極に位置する世の理。幼少期から当たり前に刷り込まれてきた『常識』――それはこの世界の『異端』であり、並の人間にとっては鼻で笑うような『学説』として捉えられていると分かった。いや…学説として存在すらしていないかもしれない。
「てんどうせつ…というのは存じませんが、『天陽説』であれば存在しますよ。この世界の、常識として知れ渡っています」
常識から逸脱した僕を、憐れむような視線で見据える茶髪店員。彼女は青みの色調が増幅した紅蓮の瞳を、緑眼の角膜に転写していた。
「天陽説…」
鼓膜で響いた音の渦巻きを、脳神経への伝達の合間で噛み締めた。
天動説と発音も語感も似ている。しかし――誕生経緯には、宗教上の関連性や提唱時期などに相違がありそうだ。
「その説ってどうやって広まったんですか?」
生成りのコックコートの上に、深赤橙エプロンを着こなしている茶髪店員。金色の太陽を象った刺繍が施されたベレー帽には、僅かな温かみを感じた。
あり得るのは――ある学者による『天陽説』の提唱だろう。
「諸説ありますが…始まりは南部領領主――エリュシア=リュミエル公爵陛下であったそうです」
茶髪の後髪を団子に結いまとめている彼女は、僕の後ろの方角――南を見通していた。
笑みを含ませながらのその顔は、脳内の『憧れの的』に誇りの矢を射抜いていた。
あの白金髪の公爵か…入学式での、オカルトじみた神秘的な自己紹介が印象に残っている。
確かあのとき、「神のご加護があらんことを――」って言ってたし、恐らく『天陽』を『神』にでも見立てているのだろう。
「巷で実しやかに囁かれているのは――エリュシア公爵陛下は
『天陽様が顕現なさった御姿だ』とか
『天陽様の意志を継ぐ巫女様だ』とか…南部領領主様にまつわる話題ばかりです」
店員さんがベレー帽の刺繍に手を添えて発言を体現した後、その手はそのまま胸元に移動し、エプロン越しに心臓の鼓動をドクッ――ドクッ――と感じていた。
その容貌からは、耳の尖った白金髪エルフのような妖艶さを思わせた。
話を聞くに、エリュシア公爵は信仰対象そのもの――もしくはその後継者――南部領領民にとっての『神』に等しい存在…と言っても、過言ではなさそうだ。
「――と、少し話が脱線しましたね」
茶髪店員が手を合わせたことで、柔和な色味の白色コックコートに新たな皺が寄った。
彼女が瞼を閉じることで、その長い睫毛が更に強調された。
「具体的に、天陽説がどう浸透して行ったのか――その鍵は南部領の領民にあります」
ドアノブの穴に鍵を差し込むような動作をした彼女は、『生い茂る樹木』の紋様が肩に縫われた、淡金髪の少女を視界に燃やした。
「領民…ですか」
前習えをし、両腕を直角に曲げたそのままの体勢で、左腕だけを時計回りに九十度傾けた。形をガチガチに固めた僕は、右肘を固定させながら右腕の前腕筋群だけの自由を許した。奔放さを許可された右手は、『✓』の鏡文字のように顎の輪郭に擦り寄った。
顎に手を当て、瞬刻の間のうちに考え込んだ。
これまでに会ってきた、おおよそ南部領の領民であろう者たちを思い返した。
セリアさん――エルフィナ――そして、エリュシア公爵。
誰もが誰も、共通点を保持しているわけじゃない。だが、そこには確かに、何かしらの『しがらみ』に縛られた感情が眠っているように感じた。
彼らの抱える、苦悩――苦痛――痛みが分かる日は訪れるのだろうか…
「天陽教の元になった宗派――『フィリア教』に属していた教徒たちは、南部領領民ばかり。彼らはお慕いする『尊崇の対象』の素晴らしさを、他の領民にも知ってもらおうと考えた」
『尊崇の対象』と言ったところで、彼女の両手により、『祈りの賛美』のような儀式が取り計られた。
…なんか、どんどんスピリチュアル味が増して行ってるな。
それに、フィリア教――南部領と少し語感が似ている。もしかしたら、『ラフィリア』という名前の典拠なのかもしれない。
それに、『フィリア』という言葉にも、何か『意味』があった気がする。
どんな意味だったっけ…
「しかし――幾ら手を打っても、一世を風靡するまでには至らず、只々時間ばかりが過ぎていきました」
残念そうな声質を響かせ、フィリア教の無念さを表現する彼女は、まるで当時の俗世を熟知しているかのようだった。
まぁ…そう簡単には行かないわな。
フィリア教のしようとしたことは、人の価値観を変えるに等しいわけだし。
「そんなとき、眩く照りつける一筋の光が舞い込みました。それこそが――」
神妙さの後光が照りつける予感が迸った。
「――天陽様のお導きです」
両手を高々と上に掲げ、全身を天陽に捧げんとするその姿は、神のお迎えを心待ちにするかの如く、気味悪く静かだった。
さっきから思ってたけど、『天陽』が生きているかのような説明してるな、この人。
そうした方が説明しやすいんだろうけど…少し共感しにくい。
「天陽様の天啓は、教徒たちによってある解釈がなされました。それが――」
店員の視線の蠢きに、意識の半身浴が強制された。
「――『対話だけでは不十分である』という解釈です」
狙いが定まらない眼は、軋轢の不協和音が靡く赤髪親子で止まった。
もしや店員さんにも悟られた感じか…?
「故に、領民たちは『文書での対話』――要するに、『文字に残す』という手を打ちました」
これから食事でもするかのように箸を持つジェスチャーを見せた茶髪店員は、そのまま主菜をつついた。『文字に残す』という彼女の言葉で、記す動きをしていたのだと分かった。
「こうして――天陽教の考え方は、この世界に流布して行ったのです」
両手を横に大きく開いた女性は自身の腕の長さを自慢した後、僕に感涙の拍手を求める目をしていた。
…別に感動するまでには至ってないけどな。
茶髪店員の期待に応える道理は、僕にはさらさらなかった。
それにしても――天陽からの天啓で、『文字に残す』というところまで解釈を広げられるとは…『フィリア教』――恐るべし。敵に回したら厄介そうだ……なるべく関わりたくないな。
「どんな文書何ですか?」
話を踏まえ、『フィリア教』の痕跡がどのような形で残されているのか気になった僕は、深堀りの瞳を向けた。
文字に残すからには、きっと書物なり資料なりにまとめていることだろう。
「そうですねぇ…実物があれば分かりやすいのですが…あ」
「どうしました?」
握られた彼女の拳から、人差し指の一閃が繰り出された。店員の近辺には、豆電球の灯火が出現したように見えた。
なりやら何か思い出した様子。
すかさず、重要な情報を聞き出せそうな反応を拾った。
「そう言えば、蒼穹図書館に『天陽教の聖書』なるものがあると聞いたことがあります」
丹精な仕事ぶりが伺える手汗が滴った左手は、この大通りの奥に位置する大図書館に向かって水滴を飛ばした。
ここまで喧騒とした場所から、あの図書館を見るのは初だな…
アストラ街に来て、噴水公園――蒼穹図書館と来た道筋を思い出した。
噴水公園から図書館までの道は自然がいっぱいで、遊歩道のような花々や木々の息吹から、安らぎや荘厳を感じたが――ここらへんは人も多いし、また違った印象を受けるだろうな。
青花のせせらぎに身を預ける楼閣を見つめた。
そのとき、遊歩道と大通りを断絶するような歪な『空間』を発見した。
異質な膜――いや、『隔たり』があった。遠巻きに見るだけでは、はっきり視認できない。だが、そこには確かに『歪み』が存在した。
図書館からこの大通りに出たとき、何の障害もなく来れたはずだ。
…あんな結界あったか?
「実際に見たことはありませんが、恐らくその聖書こそが、南部領領民の『文書での対話』に当たる代物かと思われます」
両人差し指で四角を囲うような仕草をした彼女は、縁の内側の隙間から欺瞞には程遠い、爽やかな笑顔を見せてくれた。接客態度だと分かっていても、少し嬉しくなってしまった。
「教えていただき、ありがとうございます」
『天陽教』の歴史を教えてくれた店員さんに、感謝と敬意を示した。
「いえいえ!これくらいは朝飯前です!」
茶髪店員は、右手を胸上に添え『任せてくれ!』と言うように、活気強く鼻息を出した。
「ところで――店員さんの容姿…なんか面影があるんですよね」
肌色とは対象的な、緑色の綺麗な瞳孔をまじまじと焼き付けた。
いつだったっけ? 確かここ最近だと思うんだけど…
「はて?急に何の話でしょうか?」
宗教チックな話から突然日常会話に引き戻されたこの対談は、店員さんにとって予想外の刺客だったらしい。
「その…僕、《セレスティア中央魔術学院》の生徒なんです。だから――同級生の顔立ちと店員さんの面差しが、何処か似通っている感じがして」
クラスメイトの顔を頭に想像してみた。
髪色――目鼻立ち――虹彩の色――この茶髪店員と遺伝性を感じさせる人物が、どこかに…
「あ〜なるほど。それで……知りたいですか?」
親切心を表面化させた彼女は、僕の警戒心を弱めていく。その傍ら、その女性は陳列されているマカロンの後ろに隠れた茶色の包装紙を用意していた。
教えてくれるのか…優しい人だ。
子犬のように、欲望に従順な下僕となった。
「はい!是非とも教えていただ――」
「じゃあこの可哀想なマカロンちゃんを買ってくれますか?」
トングでカンッ、カンッ――と音を立てた茶髪店員は、同情を誘うような悲壮感溢れる目を向けてきた。
「…それは卑怯じゃないですか?」
反則級の手札を切ってきた眼前の店員。その瞳の奥には、悲嘆と僅かな欺瞞が滲んでいた。
人の知的好奇心を利用して、商売に起用するとは…とんでもない悪女だ。
「だってぇ〜折角作ったのに、食べてもらえないなんて、悲しいじゃないですかぁ〜」
両腕を前面空間にダイブさせ、対面冷蔵ショーケースの台上で上半身を寝転がせた店員。
彼女は至高の自信作の味を、誰かに評価して欲しいようだ。
「それは――まぁ…そうですけど」
店員さんのやり方に釘を刺そうとした。だが、僕の経験がそれを阻止した。
気持ちは分からなくはない。
僕も初等生時代に『魔法陣描画』の授業があったとき、自分でも納得のいく出来の、自慢の『オリジナル魔法陣』を作り上げた。
だが――相手が悪かったと言うべきか。周囲の人間は、僕の承認欲求を満たすまでもなく、満悦な僕の顔面を踏み躙っていった。
あのときは、きつかったなぁ…
「このお店のためを思うなら、買っていって下さいよ〜」
「…ん〜どうしようかな。結構高いしなぁ…」
値札に記された『3ルクス』という、学生の財布に全く良心的でない価格設定に、つい物申したくなった。
さっきメロンパンの『2ルクス』を見た後だから、どうしてもそっちと比べてしまう。
『1ルクス多く払う価値があるのか?』
『もし美味しくなかったら…』
と考えてしまう。
「そうですか…シクシクッ――」
「え」
ポケットに手を突っ込み、何かを手中に納めた彼女は、僕の居心地を悪くさせかねない独壇場を広げてきた。
その手を使われると…
「そうですよね…こんな売れ残りのマカロンなんて、食べても美味しくないって思いますよね…」
ヒックッ、ヒックッ――と喉を震わせる店員さんに対し、僕以外の目には『可哀想な人』だと映っていると確信させる程に、皆々慈しみの目線をちらつかせていた。
「そ、そんなことは――」
目の前の泣いている女性を頬って置ける程畜生でもない僕は、この場を落ち着かせる会心の言葉を探り探り発した。
「良いんです、良いんです。これも、私の経営努力の怠慢が引き起こした結果ですから」
狡猾にも心当たりありげな事実を織り交ぜる彼女からは、女優さながらの様相を感じさせなかった。
なんとしたたかな店員さんだ…
『女性』という性別を巧みに使った、姑息なやり口をしやがる。
「あ〜あ…店員さん泣かせてるじゃん」
黒髪少女が僕を責め立てるように諭してきた。
セリアさんも騙されているのか…店員さんと同性の彼女なら、気づいてくれるかもと思ったのだが…そう上手くはいかないか。
「いけないんだ〜ちゃんと店員さんに謝らないと駄目なんだぞ〜『ゼイル兄ちゃん』」
赤髪少年が、僕の興味を引くように語尾を強調した。
ヴァルドの中で、僕って『お兄ちゃん』なのかな?
自分ではそう思わないけど…そう思ってくれてるのは、なんだか照れくさい。
「ヴァルド!そう言う呼び名はもっと親交を深めてから――」
黒青髪の少女が、案の定『生意気坊主』を窘めた。
「あれ、もしかして嫌でした?すんません。俺、無神経ってよく言われるんです。だから、配慮の足りない発言も多くて」
『生意気』と『丁重』の中間の口調で、まるで舎弟のような雰囲気を醸し出す少年は、後ろの赤髪をはね撫でた。
「いやいや!別に気にする必要ないって!僕としては、親しげに接してくれるのは、かえって嬉しいと言うか…」
あだ名呼び。僕には縁遠すぎて、その概念すら記憶から消え去っていたと思っていた。けど、目の前のこの少年が掘り起こしてくれた。長年地中深くまで潜水していた、気兼ねない――『気の置きない関係』を。
「そうですか?じゃあこれからは、ゼイル兄ちゃんって呼びますね」
してやったりの顔で僕を見る少年。彼は初対面で僕を恐れていたとは思えない程、伸び伸びと腕を上げ、「よっしゃぁ!」と叫びながら走り回った。
「(私だって、愛称で呼び合う関係に憧れてますのに――)」
砕けた空気の佇むこの場で、羨望の呟きを発す人影が一つ――
「そ・れ・よ・り・も!」
金髪青年が僕の肩をリズミカルに叩き、僕にやるべきことを示そうとした。
うぉ!?急に割り込んできた…びっくりしたぁ…
「早く店員さんに頭下げないと! な? 俺も一緒に謝ってやるから」
胸椎のド真ん中を、トントンと指先で弾まされた。彼の優しさと鈍感さ――相反する感情が僕の中に埋め込まれた。
勝手に丸め込まれてしまったな。些か癪ではあるが…
「ゴメンナサーイ」
ドヤ顔で僕に視線を絡ませる店員に、仕方なく…やむを得ず、頭を垂れる選択を取った。
しかし、ただ素直に従うというのも面白くない。故に――ハメられた腹いせに、片言で謝罪した。
「折角だし…私、そのマカロン買おうかな!」
黒髪少女が財布をパカッ――と開け、三枚の銀硬貨に陽光を反射させた。
「私も、別の味食べてみたい…」
淡金髪少女がその眼に赤々しい円形体を映し出し、ダラダラとよだれを垂らしまくっている。
「左に同じく」
茶髪少年が懐から青銀硬貨を取り出した。彼の財布にはもう、ルクス硬貨が眠っていないらしい。
「お父さ――じゃなかった。アルディウスさんも買いますか?このマカロン」
ローブの裾を引かれたことで、赤髪男性の遠くを見据える視線がヴァルドに落ちた。
男性は大通りの最奥にある――『何か』を見つめていた。
『父親』としてのアルディウス公爵を引きずる少年は、言い淀む口先で悲嘆の念を隠し切れずにいた。
「勿の論だ!俺は甘いものには目がなくてな、ついつい手が伸びてしまうんだ。例えばさっきのメロンパンとか、後は――」
関心を喚起されたと思ったのか、彼は霊妙な面持ちから一転して、明るい振る舞いを見せる。
少し馴染みのある男性の習性に、一同の微笑みが沸き立った。
「ゼイルはどうする?買うか?もし金欠とかだったら、上手いこと言い訳付けてあげるけど」
茶髪店員に視線を送りながら、僕に選択を迫ってきた青年。
彼としては、『女性を泣かせること』が肌に合わなかっただけで、『僕が天陽マカロンを買わないこと』については、咎めるつもりはなかったらしい。
「そうだなぁ…」
鞄の中の直方体を掴み取り、金ファスナーを手前に引いた。
メロンパン屋台と喫茶店で使ったお金を差し引くと――6セリオ4ルクスか。
まぁ、かなり抑えた方だろう。
ただ、『ルミナクロス』でお金を使う可能性もある。出来れば残しておきたい。
「僕は辞めとこうかな」
金の小金属を奥に戻した。買ってみたい衝動を抑え、静かに鞄に収納する。節約家の道に進む決意を固めた。
「…そうか。なら、俺も買わないでおこう」
用意したのであろう銀硬貨を、惜しげもなくしまう彼。その姿には、同情や慈しみを超えた彼の思惑を読み取れた。
「どうして?別に買ったらいいじゃん」
彼の心理を完全には把握し切れていない僕は、率直に思いを訪ねてみようと考えた。
「だって――みんなが買ってる中、一人だけ『やめときます』って言うのってさ、かなりしんどくないか?」
天陽マカロンを見下げる下目遣い。
彼は普段より悲しげで低い声を、僕の耳に届かせた。
同調圧力に反発する――勇気のいることだ。だからこそ、行動に移すまでに逡巡の間が生じる。僕はそれを、茶髪店員への怒りの感情に身を任せるがまま断行した。
「それだったら俺は、店員さんと気まずくなってでも、ゼイルと同じ選択を取る。…孤独ってのは想像以上に堪えるからな」
その瞳孔の奥には、重すぎる『愛の餓え』を感じずにはいられなかった。
「そっか…ありがとね、リオン君」
僕と同じ、『同調圧力に屈しない』選択を取ってくれた彼。奥底の真意までは感知し得ないが、少なくとも僕を思っての発言だったのだろう。
孤独から救ってくれた彼に――まずは感謝を。
「こちら、引き渡しの商品となります」
ショーケースから遂に、トングにより天陽マカロンが飛び出した。
僕らの会話を見計らったように茶色の紙袋を用意していた茶髪店員は、迅速な手捌きで次々と人数分の赤円形体を詰めていく。
そのプロの所業に圧倒されているうちに、僕とリオン君以外の全員にマカロンが渡った。
「おぉ…すっげぇ赤い」
「これって食べても大丈夫なのかしら?」
ヴァルセレコンビの初反応は、天陽マカロンの衛生管理状態の確認から始まった。
多分、店員さんからしたら悔しいだろうな…一生懸命作ったマカロンだろうし。
「失礼な!ちゃんと食品衛生には気をつけてますから!安心して下さい!」
想像とかけ離れた反応をされた女性店員は、ハムスターのように頬を膨らませ、プンスカと蒸気を発した。
「いや別にそこは心配してないんですけど…」
黒髪少女が『いやそこかよ』というツッコミ顔をし、言い方をまろやかに変えた後に、言葉を吐いた。
「それじゃあ行くか!時間も迫ってきてるしな!」
上機嫌な様子で、赤髪男性はマカロンの入った紙袋を、振り子のように振り回した。今の彼の状態は、『両手に甘味』の状態だ。
今の時刻は――16:00頃か。
良い時間だ。そろそろ屋敷に向かわないと、帰りが遅くなってしまう。
「ありがとうございございまっ、しゃ、たっ…たっせーー!!」
最後の最後で、有り得ない程カミカミな発音を耳に轟かせた店員さん。
ようやく現れた売れ残りの救世主――客人に対して無様にも滑稽な姿を晒した彼女は、耳先から鼻頭に至るまでの顔面全土で、赤みを広げていた。
フッ…ハメられた仕返しとしては丁度いいくらいだ。清々するぜ。
マカロン屋での一局面を終えた僕らは、『一行の練り歩き』と題して、行進を再開した。
「(これであの子の学費も――)」
去り際、茶髪店員の表情には、悪巧みを全面に押し出した魔女のような悪意が貼り付いていた。
…て、ちょっと待て。店員さんに『誰の親御さんなのか』聞いてなかったじゃん。
クソッ――!ハメられた!!
「それにしても、色々お店あるよねぇ〜」
黒髪少女の一声で、視界に一瞥の動きが取り入れられた。
辺りを見回すと、壁面看板に『古文書店』と書かれた本屋――軒下の店頭棚に並べられた装飾品や魔導具が居座る『魔導具店』――様々な店舗が僕たちを出迎えてくれた。
「うわぁ…!行ってみたいところがいっぱいあるなぁ…」
興味を掻き立てる魅力的な景色の前に、一時の童心を取り戻した。
この通り以外にも、色んなお店あるのかなぁ…
「もし立ち寄りたいなら、俺は全然歓迎だぞ」
金髪青年が左手で首飾りを掴み、下を向いたまま僕に『合意体勢』万全の姿を見せてくれた
「私も、ゼイルが行きたいならついて行くよ」
青年の意見に便乗した黒髪少女は、円形体の入った紙袋を、両腕で大事そうに抱え込んでいる。
セリアさんも、僕の行き先に付いてきてくれるようだ。
「ありがとう。でも――」
――東部領の中央に立地する、鮮烈で燃えるような、赤黒い魔力が立ち昇る屋敷を眼球の隅々に納めた。
「今の僕たちの狙いは、はっきりしてる。…なら、只管に突き進むまで」
「…だな」
「…そうだね」
『三角関係』の意志は、一つの目的地に収束した。
荘厳にそびえ立つ楼閣を目指し、一行は遊歩道地帯のある大通りの突き当たりへと歩みを進めた。
例の怪しげな『歪んだ隔たり』までやって来た。
目と鼻の先のところまで接近したが、特に身体に影響はない。
「これなんだろうね?」
「“これ”? 何の話?」
金髪青年の右隣の黒髪少女が、隔たりをそのまま突っ切ろうとしたので、慌てて肩を掴んだ。
僕の質問に対し、彼女は不思議の体で肩に乗る僕の手に触れた。
「ほら、目の前にあるこの壁みたいなやつ」
触れる――とまでは行かないが、寸前のところで歪みの波紋を指さした。
それにしても…全く見たことないな、これ。欠片の見覚えすらない。
「全然見えないけど…ゼイルには、何が見えてるの?」
目の前の少女が、僕の発言の意味を理解しようと奮闘している。
セリアさん…この『隔たり』見えてないのか。
なんで僕には見えるんだ?
「あら?あなたは見えていないのですか?私は見えますわよ」
「俺も見えてるよ!」
黒青髪少女と赤髪少年が黒髪少女の様相を怪訝そうに注視している。
セレニアとヴァルドは見える…
困ったな。法則性が全然見えてこない。
「…俺もだな」
赤髪男性が腕を組み、メロンパン紙袋とマカロン紙袋の位置を入れ替えた。
彼の目には、異常なる現状が捉えられていた。
「なんだよ、みんなして。普通にこの遊歩道に入れば良いじゃないか」
金髪青年が僕の背中を押しながら、僕ごと連れて行こうとする。疑いの目を微塵も見せることなく、『悪意に引き寄せられる』ように、彼は黒の光沢の輝くプレーントゥを浮かせた。
「じゃあ、私もお先に失礼して」
「…僕もいくかな」
淡金髪少女と茶髪少年がリオンの後ろにつき、当然のように『隔たり』を突破した。
やっぱりそうか…
「お〜い!早くおいでよ!」
黒髪少女が招き猫の要領で、左拳を耳の上でウネウネさせ、『手長』状態で僕らを呼び込んだ。
「…僕たちも行ってみますか?」
『隔たり』を通過した者たちとは対象的に、隔絶されし者《こっち側》は行き場を失っていた。
超えし者《あっち側》に待ってもらい続けるのも心苦しいので、ひとまず一歩踏み出すことにした。
隔たりに触れようとしたそのとき、
空間が捻れる――母との記憶が蘇る――魔力の『拒否反応』を引き起こした。
「なんだ…これ?」
手から漂う前代未聞の蒸気の湯気が、事態の深刻さを象徴していた。
魔力が拒否反応を起こすなんて――お母さんとの『属性判定』と喫茶店での『燻み橙髪の男性』以来の出来事だ。
この歪みの正体は一体…
瞬間、生き急ぎの足音が響く。
『隔たり』の奥から、山積みの本を抱えた人影が僕らを見通した。
「『空間位相断層』発動――これは興味深い」
スチャ――
学院制服に、学者御用達の使用感満載な白衣を纏った少女が一人。




