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第二十二話 己の弱さに屈するな


カタッ――

左隣から苛立ちを露わにした男の立ち上がる音が反響した。


赤黒い魔力が重苦しくのしかかった。

重力が倍増したかのような感覚。

自身の重さをこれ程までに体験したことはない。


「そのラテの発案者は誰だ」


そのローブには魔力を抑え込む役割があるのだろう。先程までは『公爵の魔力』とやらは幾分か掻き消されていた。

だがフードから赤髪が馬脚を現した途端、明確に空気が沈んだ。大気中のマナがひび割れた。


「…分かりません。私がここのバイトとして働く頃にはもう、メニューとしてございましたので」


嘯くように淡々と告げられた。

冷え上がった汗腺が危険信号を発していた。

…これはまずい。

彼女の発言にはいつ逆鱗に触れてもおかしくない危うさがあった。

公爵の圧は何のその、気骨の強い眼勢は虎視眈々と男の瞼の裏を焼き付けていた。


「…なら、店長はどこだ」


「…すみません、店長の居所は分かっておらず――」


ミチミチ――

生地が引っ張られる不協和音が響いた。

瞬間、男の手に魔力が集中した。その腕からはローブ越しでも視認できる程に赤みが浮き出ていた。

その光景に、不快な音を耳で塞ごうとする手さえ置き去りにしてしまった。


「(…まずいですわ。このままだと周囲に影響が――)」


畏怖の念に苛まれる掌を握り締め、照準を男に合わせた。

動悸が激しい。いつもより息が上がっているのを感じる。

…僕にやれるのか?


今までの人生で格上の相手と対峙したことはない。

増してやここまでの猛者と相対することなど…一度も。

一度決意を固めたは良いものの、それまでの僕は結局逃げた身であることに変わりない。過去は――揺るぎない一定不変だ。

どんなに願っても、どんなに意志を貫こうとも、『改変』なんて出来やしない。


なら――また僕は逃げる選択を取るのか?


…違う。そうじゃない。

意志はそう簡単に諦められるものじゃないだろ。

これは僕が生きてきて、初めて手に入れた不退転の覚悟――そうあろうとした決心なんだ。

『改変』できずとも、どうにか抗う術を見つける。

少しでも見えた希望には、意地でも縋り付く。

良いじゃないか。

泥臭くったって、惨めだって、勝つのは最後まで諦め切れなかった者だ。

零れ出る希望を絶やすな。

今できる最善を尽くせ。


だからこそ、

「(…やらなきゃならないかしら)」


恐怖に押し潰されそうになる瞼を開いた。

魔力の流れを指先に一点集中した。

人には覚悟を決めるべき時が存在する。

それは人によっては幼少期にあるかも知れないし、大人になってからかも知れない。

あるいは、年衰えてからもあり得る。


人が覚悟を決める時、様々な要因が複雑に絡み合う。

僕は――

爪が見えた。折れた指を再起させた。

男を真っ直ぐ捉えた。

マナの亀裂は、僕にも侵食してきそうな異様さがあった。

――今なんだ。


僕らを警戒する一切の素振りも見せず、男の眼差しは青髪の少女一直線だった。


「(お父さん…)」


ザッ――

空気を切り裂く音が木霊する。

その手は今にも咽頭を刈り取ろうとしていた。


…やるしかない。

「(…やるしかないですわ)」


僕が知っている魔法の中でこの場の最適解は――

それは基本属性のどれにも組しない…隠匿された魔の兆候。

僕の身体に刻まれたもう一つの意志。


割れたマナを取り込んだ。皮膚の焼ける焦げ付いた匂いが鼻を掠める。

必要なマナが取り込み終わった。

後は魔法に変換すれば――



…ここで切らすんじゃねぇぞ。



捕縛プリズン

捕縛プリズン

「止めて!お父さん!」


足元から影が出現する。

チャコールローブに新たな外套が覆いかぶさった。

男の腕に柔軟な黒い帯革が絡まった。


同時に赤髪の少年の手が男の左腕を鷲掴みした。

父の愚行を止めようとするヴァルドの目には涙が溢れていた。


「…!チッ」


殺意が向けられた。

そこに父親らしさは無く、今はただ傍若無人の暴君と化していた。


「…らしくないですよ」


男には公爵に戻って貰わねばならない。


逆立った赤髪からどうにか糸口を見つけようとする。

…ヴァルクレイ家の大黒柱としての威厳を見せてくれ、アルディウス=ヴァルクレイ。


「貴方ほどの方なら、もっと別の手段も取れるでしょう?」


「…分かってる」


ぶっきらぼうに吐き捨てられた。

腕を締め付ける圧力が治まった。

赤黒い魔力は再びローブに落ちた。


ばつが悪いのだろう。

青髪店員は逃げるように厨房に姿を消した。


最大の危機は過ぎ去った。

あそこまで怒りを露わにした理由は分からない。

が、僕にも分かった事がある。

三つの魔法陣――あれは間違いなく危険だ。

そんな事、この場にいる者なら誰にだって分かること…そう言いたかった。

実際のところ、僕とアルディウス公爵以外に気づいた者は居なかった。

硬化の温度が変質する――あの瞬間まで、誰も。


いや…本当にそうか?

あの時の僕には死角があった。

銀と青に触れる瞬刻、姿が見えなかったのは――


後ろを振り返った。

黒青髪の少女と目が合った。


「…どうして」


彼女も同じ気持ちらしい。

その眼は視線が定まっていない。


セレニアという少女。

さっきメロンパン屋台で会ってから間もないお嬢様。言動の節々から伝わってくる知性と皮肉節からは素性がまるで分からない。


そんな彼女は、あろうことか僕と同じ魔法を使った。しかも詠唱破棄で。


僕が初等生の頃に詠唱破棄が出来たかと言われると…出来ていない。


なんせその頃は自分に合った魔法すらまともに分かっていなかったから。

まぁ今使ってる魔法も自分に合ってるかは不明であるが…


今度一度試してみようかな?

全六種の基本属性――火・水・雷・氷・風・土

…その全てを。

幼い頃は無理でも今は出来る…なんて夢物語も描けるかも知れない。


鍛錬を積んでみないことには分かりようもないが。


コツッ、コツッ、コツッ――

優雅な足取りが近づいた。


淡く明眸な金色の瞳には慧眼えがんが座っていた。

はち切れんばかりの心臓の鼓動を感じた。

周囲に漏れ出ようとばかりに忙しなく、やかましい。


上目遣いで見上げられた瞳孔を凝視した。

三白眼気味になったその目は真意を確かめんとしていた。

…まるで何もかも見透かされてるようだ。


「…何故その魔法を?」


あり得ない事態なのだろう。

皮肉めいた余裕な表情は今の彼女にはない。

ひたすらに真理を探求している顔つきだ。


…今の僕と少し似てるかも知れない。

謎めいた真相を追いかけようとする心。その心は高等生になってからより明確になった。

自分でも自覚する程に。

だから、正確には彼女と同じではない。

初等生から探求者である彼女と、高等生からそうである僕。

両者の間には明らかな差が存在した。


だが、大事なのは今だ。

今こうして同じ志を持った者が揃っている。

…負い目を感じている場合じゃないぞ、僕。


下目遣いで彼女を見下ろした。


「…家の魔導書に載ってただけだ」


あの魔導書は僕の自室の本棚に並んでいる。

幼い頃、誕生日に母から買ってもらったものだ。


禍々しいオーラを放っていたのをよく覚えている。

…そう言えばあの魔導書――あれに似てるな。


偽硬化による詐欺罪、及び窃盗罪――呼称するなら、『メロンパン騒動』だ。


この世界の憲法なるものは初等生時代に学習したことがある。

その時、「一部の地域を除いてこの憲法は適用されます」的なことを先生から教わった。


確か例外の地域が…

先生の言葉を思い出す。


「憲法適用外の地域は四領土の『西部』です。覚えて帰ってね!」


あれ?アストラ街って東部領の西部だったよな。

…もしやあの騒動って法的に認められたものだったのか?


なら、怪しげな男性が取っていた行動も正当化されるわけか。


…いや、おかしいだろ。

何で西部だけ認められて、他の地域は法律が適用されるんだ。

冷静に考えておかしい。

ここには意図的な策略があるに違いない。

一体どこのどいつがこんな馬鹿げた法律作ったんだ。


眉間に皺が寄る。

金壺眼となった目つきは無表情な僕の顔を一層険しくさせたように思う。


「…何ですの、その態度は。私を馬鹿にしているのかしら?」


気に障ってしまったようだ。

セレニアに対して怒りをぶつけたわけではないのだが…

当然、彼女にそんなことは分からないのだろう。


「今、私のことなんて忘れていたでしょう?」


…!?

肩が飛び跳ねそうになる。

寸前でなんとか堪えた。

…なぜ気づかれた。

十何年鍛え抜かれた僕のポーカーフェイスをこうも簡単に見破るなんて…

只者じゃない。


「…さぁ、どうだろうな?」


表情を崩さぬように顔つきを固定する。

だが、声だけは隠し切れずに少し上ずった。

あくまで年上の風格を見せておく。生意気なお嬢様に弱みを見せようものなら、何言われるか分かったもんじゃない。


「そうですの」


瞼が閉ざされた。長い上睫毛が光の反射を受けた。

上から見る光景は妖艶で、黒みと白みが混在していた。


観念したように黒青髪を旋回させ、席の方向に戻っていった。


よかったぁ…

ひとまず安心。

なんとかバレずに済みそうだ。


…てかなんで僕ばっかり責められてるんだ。

セレニアにだって「僕と同じ魔法をなんで知ってるんだ?」って聞いていてもおかしくはなかったぞ。


そこは『年下』という名の免罪符に免じて、目を瞑ってやったが。


腰に手を当て、僅かに胸を反らせた。

まぁ?僕は“先輩”だからな。余裕を見せておかないと。

鼻息を漏らした。

背中を見せる彼女に向けて、嬉々とした態度を現した。


「一つご忠告を」


お嬢様ステップが止んだ。

丁寧に手入れされた後ろ髪を見せつけながら、静かに吐露した。


足先が僕に向けられた。

精悍な眼差しは、心を貫くように僕の機微を追っていた。


…今度は何を言い出すつもりだ?

マナの循環を感じた。安堵を全身に巡らせた。

戦闘態勢…とまでは行かないが、いつでも動き出せる準備を整えた。


さぁ、かかってこい!

今ならどんな皮肉でも受け流してやれる…そんな気分だ。


いざとなればこの手で…

って駄目駄目!

それは適切じゃないだろ。

感情任せに行動をするような大人にはなっちゃいけない。


右手前方に見える赤髪の公爵が目に入った。

…大人になるって、難しいんだな。


皆が一度は想像する理想の大人像というのは、大抵現実の大人を見て崩される。

「自分もこうなるのかな…」なんて絶望して打ちひしがれるところまでがお決まりだ。


短気な部分に目を伏せれば、アルディウス公爵も父親として十分やっている方だとは思うけどね。

家族のためにメロンパンを買ってあげてるわけだし。

家族思いでもなければ、そんなことはしない。

家族を愛しているからこそ、相手が喜ぶことをするわけだ。

そういうところは見習わなくちゃな。

将来結婚するのかは分からないが、もしそのときが来れば――


反省の色を浮かべる一人の男を見つめる。


「…ごめんな、ヴァルド。怖い思いさせて」


優しい声調で語りかけていた。

彼は子供の頭を愛でていた。


――参考にさせて頂こう。

献身的な『大黒柱』さん。

柔和に口角が綻びた。


「…あなた、バレバレですわよ」


「え」


空気が一変した。

頭が真っ白になった。

あまりの衝撃に彼女の口の動きを追うので精一杯だった。


もしかして、全部バレてた…?

鼻頭に熱が上がってくる。

腰に当てていた手がストンと落ちた。


顎に手を当てた。

…いつから?

この喫茶店に入ってからか?

それとも――


「例えばその表情。隠せてるとお思いですの?無表情を気取っているのか知りませんが、言葉数が少ない割には随分表情豊かですわよ」


「…マジ?」


セリアさん達の方に顔を向けた。


「まぁ…うん。結構分かりやすいかも」


「…だな。ゼイルって言葉よりも目とか仕草で訴えて来るタイプだと思うぞ」


脳裏に霧がかかった。

ふらつく頭を両手でがっちり抱えた。

…マジか。

僕的にかなりポーカーフェイス上手い方だと思ってたんだけど…

見当違いだったらしい。今回ではっきりした。


「…はっず」


唾液を拭うような仕草で口元を隠した。

もうヤダ。こんなんじゃお婿に行けない…

婿に入る予定は今んとこないけど。


「気にすることないって。そんなゼイルも、十分魅力的だよ」


両手を後ろに回しながら、僕の顔を覗き込まれた。

顔を逸らしている僕に「お〜い」と手を振っている。


「そうそう。セリアさんの言う通り。周りの目なんて気にすんな!前だけ見てこう…ぜ!」


リオン君の跳躍が目に入った後、肩に回された腕はそのまま重力という名の重しを受けた。


「…ありがと。ちょっとマシになった」


肩の荷が下りた気分だ。

今までは他人に勘繰られるのを嫌って出来るだけ無表情を貫いて来た。

自分の心情を悟られることは、人生において損に働くと思ったから。

だが――


「もう…いいのかもな」


白状するように息を吐いた。

――自分に素直に生きてみてもいいかも知れない。

友達に恵まれた今、率直にそう思う。

互いに気持ちを共有し合い、分かち合う。

その過程で自分の意図が伝わらないというのなら、それこそ損だろう。


素直に生きてみること。それは勇気のいる一歩。

踏み出す覚悟を持つ――すなわち――


「フッ…いい顔になりましたわね」


――成長の兆し。

無表情の仮面を取っ払った。

顔の力が抜けると、不思議と清々しい気持ちになった。


公爵の重々しい足取りが僕らの間で静止した。

気まずそうな面持ちで俯いている。

…なんと声をかけていいやら。


僕らが対応に困っていると、

「…本当に申し訳ない」


深々と頭を下げられた。

その姿は魔法演習の時の担任と似ており、面影を重ねてしまう。

…少し似ているな。


入学式のやり取りを思い返す。

そういやアルディウス公爵と担任って、あの場での様子を見る限り因縁の関係ぽかったんだよな…

昔に蟠りでもあったんだろうか?


「顔を上げてよ、お父さん」


背中をさするヴァルドの右手が彼をポンポンと叩いた。

これが支え合いか。

何か…いいな、こういうの。

見ているだけで心温まる。


僕も帰ったらお母さんに感謝を伝えないと。

そうだな…花の水やりの手伝いでもするか。

不器用な僕がやることは花の死を意味してしまいそうな気もする。けど、枯らさぬよう慎重にやればきっと大丈夫だ。…多分。

これでも前よりは不器用さがマシになった自覚がある。

入学してまだ一週間も経っていないお前が何言ってんだ…ってツッコまれそうたが、そこは見逃してくれ。


「そう…だな。まずは相手の顔を見るところからだ」


反時計回りにローブが靡いた。

僕、セリアさん、リオン君。

そしてヴァルド、エルフィナ、レイヴン、セレニアの順で視線が移った。


「すまない、有望な若者たちよ」


落ち着いた態度と自然な声色で鼓膜に響いて来た。

…これがアルディウス公爵の素か。

冷徹なように見えるが…憂いが滲み出ている。

過去に何か背負った者の顔だ。

それはいつなのか…

気になるところだが、今はしまっておくとしよう。

この温和な空気を壊したくない。

だがいつか――彼の口から聞くとしよう。


パンッ――

手と手が叩き合う音が響いた。


「アルディウス公爵の気持ちは伝わりましたわ。これ以上謝られても、こちらとしては対応に困りますの。ですから、そろそろ席につきましょう」


セレニアがこの場の主導権を握った。

彼女は僕らの心情を汲み取ったかのように先導し出した。

…すごいな。

空気を読んでここまで対応出来るのか。

僕とは違――いや、僕も出来るようにならなくちゃ。

同じ探求心を持った者同士、対等でありたい。

彼女に負けてなんていられないのだ。


「そうは言っても…」


反省の姿勢が張り付いたままの公爵は、伏し目がちに黒青髪の少女に返す言葉を探っている。

…分かるよ、アルディウス公爵。

謝罪の言葉ってのは、どれだけ相手に伝わるのか分からないもんだ。

それが当の本人ともなれば、尚更。

だが、これ以上僕らに謝っても何も生まれないのも事実。

犯した過ちは、これからの行動でしか償えない。

それをセレニアも分かっているのだろう。

アルディウス公爵が気を負い過ぎないように、自ら導線を張っている。

…偉いな。


「はぁ…それでも公爵ですの?情けない…いつまで過ちをくすぶっていても何も変わりませんのよ?それに――」


やれやれと肩を上げ、頭を横に振りながら呆れたような手の形が作られた。

それにしても公爵相手にすごいこと言ってるな。

僕にはそんな勇気、まだ持ち合わせていない。

いつかは公爵相手にも堂々と意見を通せる男になりたいものだが、それはまだまだ先だろうな。


セレニアが腕組をし、人差し指をイライラと肘に当てている光景が映った。


「一家の責務を果たすのでしょう?だったらさっさと席につくかし…ら!」


「痛!」


少女の足がケツにヒットした。

鍛え上げられた筋肉だからだろうか。

かなりいい音が鳴った。

赤髪が大気圧に押されながら宙に舞った。


…強引だな。

今までの人生でお尻を蹴られた経験はない。

が、想像してみると…うん。めっちゃ痛そうだ。

なんか可哀想に思えてきた。


体を労ろうと彼に近づいた。赤髪が至近距離に位置した。


「大丈夫ですか?立てます?」


膝と手を地面につけた彼に手を差し伸べた。

女の子にケツ蹴りされるのはなかなか堪えるだろうな…


「ありがとう」


力強い握力がじんじんと伝わった。

…ちょっと痛い。多分手加減してくれたんだろうけど。

男って感じの手だ。

…家族を守るのには十分過ぎる程に。


「『一家の責務』果たしましょうね」


彼の好物を暗に示した。

彼が甘党であることは驚きだったが、今となってはすごく自然な気がする。

まぁスイーツってのは魔の引力があるからなぁ…

ここまで惹かれるのも理解できる。


「…そうだな」


互いに目が合った。

緊張が解けたように唇が綻びた。

初めてアルディウス公爵の歯列が明確に視認出来た。


「座りましょうか」


一同は皆丸椅子に腰掛けた。

あの騒ぎの後だと、この席は結構落ち着けるようになった。

…まぁ、アルディウス公爵がどんな人かあんまり分かってなかったもんなぁ。


厨房から青髪店員が戻って来た。


ジューシーな香り、オイリーな焦げ付き、そしてミルクのような甘く強烈な匂いが鼻腔を占めた。


…あの後だと身構えてしまうな。

余計な発言をしでかさないか心配だ。


お盆が仕事を始めた。


右隣の彼女に『魔獣フィレの軽炙り』

そして更に右隣の彼には『白金鶏のコンフィサンド』と『青花蜜のレアチーズ』が置かれた。


「ついに俺のコンフィサンドが…!」


リオン君が目をキラキラと輝かせている。

童心溢れるその顔はさながら子供のようだった。


「わぁ…これが魔獣フィレか。魔獣って言うからにはもっと獣感のある肉を想像してたけど、外見は案外普通だね」


セリアさんの肉分析が始まった。

魔物については『アビスラ大陸生態記録』でかなり知識がついた。

ただ、魔獣については詳しく分からなかった。

その本曰く『堕ちた成れの果て』と記載されていた。

どういう意味かは全然分からない。

だって、魔獣と聞くと魔物よりも上位の個体であることを想像するものだ。

それなのに魔物より下等な生物であるかのような表現をしている。不思議のものだ。


リュネアさんの目は、アルディウス公爵一点集中だった。


「謝るつもりはありません」


開口一番、爆弾発言が飛んだ。

おいおい。いきなりぶっ放すなぁ…

肝座りすぎだろ。


「…そうか」


一回一回の瞬きに重みがのしかかる。

緊張感がカウンター席の全席に波及した。


「…こちらご注文のお品物でございます」


左隣に『魔導クリームブリュレ』が置かれた。

甘く芳醇な香りは生唾の大量分泌を促した。


「…どうも」


スプーンを手に取った彼は表面を覆う砂糖の膜を慎重に割った。

濃密なカスタードが挨拶して来た。

スプーンの壺に乗せられた黄色の物体が――舌に迎えられた。


「…美味い」


心底満足そうな笑顔を見せてくれた。

恐れ多い厳格な顔つきが、瞬く間に少年の顔つきになった。


「それは良かったです」


「シェフを呼んでくれ…なんちゃて」


公爵渾身のユーモアが炸裂する。

必死に捻り出したのだろう。

気まずい空気をなんとか変えようと記憶の片隅にある引き出しを開けた…そんな感じがする。

何度もこすられたこのネタをここで披露するというその武勇。高く評価したい。


「はい。私がシェフでございます」


とても誇らしげに、嬉しそうにリュネアさんがはにかんだ。

このブリュレ…リュネアさんが作ったのか。

どれくらいここで働いているのか知らないが、結構すごくないか?

いやまぁ喫茶店のバイトである以上、お菓子作りに多少は精通していないと話にならないんだろうけど…


「…おま――君が作ってくれたのか?」


言い淀んだ口元には焦りが現れていた。

…成長しましたね、アルディウス公爵。


「ええ。バイト初日から今まで、苦楽を共にしてきた至高の一品です。どうぞ、ご堪能くださいませ」


上腕二頭筋を見せつけるようにして右腕を曲げ、力こぶに左手が乗せられた。

リュネアさんなりに、苦労してきたんだなぁ…


「その…悪かった。正直、気が立っていた。配慮に欠けた行動を詫びさせて欲しい」


両手をカウンターに貼り付け、土下座するかと思う程に鼻先がブリュレに接近した。


「いえいえ。顔を上げてくださいな。私の方こそ舐めた口調だったように思います。…申し訳ございませんでした」


――静寂


両者の間には先程の蟠りは解け、余韻を噛みしめる余裕が感じられた。

すると、左隣の男性から疑問が飛んだ。


「別にもう怒らないから、正直に教えて欲しい。さっきのラテの発案者は誰なんだ?」


「ああ…あれは――」


両手を交差させ、ワキワキと指を折り畳んだり広げたりしている。

言っていいか迷っている様子だ。


ラテの発案者か…

僕も気になっていた。アルディウス公爵の騒ぎが無ければ、きっと僕もリュネアさんを詰めていただろうから。


頭の中でイメージしてみる。

想像つかないが、格好良く年を重ねた熟年マスターとが発案していそうだ。


青髪を視界に焼き付けた。

彼女の唇を注視する。

彼女の一言――


「エリュシア公爵陛下のお母様です」


――その一言は空気に混沌を混ぜるには十分な威力があった。


ピキッ――

鉄の破片が目の前を横切った。


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