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第二十一話 三位一体の魔法陣


「…いいえ。あの男性とは――何の関係もありません」


彼とは一度も出会っていない。会ったことなんて――あるはずがないんだ。

…なのに


「(ゼイルさん…自分に嘘をついているのかしら。それにあの男性…何度か目にしたことがありますわ。ここにいると言うことは…まさか帰ってきて――)」


胸の軋みが脳裏に轟いた。

細胞の拒否反応が全身に結びついた。

火照りが隆起する程に肌に赤みが浮き出た。

まるで過去が蒸し返されるように――


「大丈夫、ゼイル?」


暗闇を溶かす人肌が感じられた。

掌越しの彼女の温度は僕の悪心を少しずつ払拭していった。


「大丈夫だよ。…ありがとう」


「気にしないで。私がやりたくてやったことだから」


弓なりになった目元が、僕の心に目まぐるしく色づいた。その瞳の奥は、先程の男性から僕を守ってくれた時と同じ。本質は何も変わっていない。正義感と慈愛こそ、彼女の根底に根付いた本音。


出会って間もないながら、僕はその温かさに何度も救われた。

そして――どれ程自身の惨めさに気付かされたことだろう。

考えるのも怖い。


手を握り返した。彼女の温度は何のその、冷気を纏ったような手の震えが僕の意志に反した。


「ゼイル…」


手の甲に伝う温かみが掌にも移ったように感じられた。

彼女は両手で手を包みこんでくれた。


その事実が、ただ嬉しかった。


震えが治まった拳を握りしめた。


レオニール=アルシェイド。それは――西部領エルナール領主の名だ。

彼女の素性は全く知らないと言っても過言ではない。それ程までに僕は公爵について無知…

というより、この世界の浅学非才の体現者と言ってもいいくらいには世間知らずな身だ。


自分の生きてきた環境に目一杯で、世間の“常識”とやらがいささか欠如していると言えよう。

…いや、それも言い訳か。

結局僕は、自分の薄っぺらいプライドに縋って逃げられる口実を作っていただけ――


逃げ道をなくした袋小路のように視界が揺らいだ。


――自分でもよく分からないな。

才能の無さを言い訳に逃げ続けていた僕にも、僕なりのプライドがあった。

『あいつらとは違う』

先を行く同級生たちの見下すような目が――眼差しが――

保身の正当化を余計に激化させた。

僕はあのときどうするべきだったんだ…

弱肉強食が渦巻く世界で、ただ指を咥えていることが正解だったのか?

昔も、今も、これからも不正解の道を選び続けることが僕の運命――


一本道の道筋に光が現れたように視界のブレが治まった。


――そうじゃない。

不正解かどうかを決めるのは僕じゃない。これからの僕だ。

選択が正解なのかどうかなんて誰にも分かりはしない。

それは未来を生きた者にだけ与えられる、知る特権だ。

僕は――


琥珀の瞳を目で追った。

入口に張り付く違和感の残穢の一つひとつを知覚した。


――未来に呑まれない。自分を殺さない。

意志を――貫いてみせる。


チャコールローブの影に落ちた黄色の瞳孔の機微を追いかけた。

彼の純粋な疑問と微量の訝しみが僕の網膜を貫いた。

アルディウス公爵の言葉を聞いた以上、僕には聞かなきゃならないことがある。

あの時、僕は『そういうもの』として認識した。実力者に付き人なんて必要ない――公爵には従者が存在しないのだと。

ただ、あの言葉の後では話が変わる。レオニール公爵に従者がいる。すなわち…公爵には従者が存在する。

必然――目の前の公爵にもそれは適応される。

膝を整えた。右肘全体をカウンターに預けた。


「貴方は入学式で従者を連れてこなかった。それは後ろめたい理由があったから。そうで――」


「そう言ったらお前は納得するのか?」


食い気味に遮られた。

左手で頬机が作られた。試すようなその仕草に、身がすくむ。

納得――その言葉が来るとは露にも思わなかった。素直に話してくれるとは思わなかったが…

目の前の男の心理が読み取れず、当惑する。

…何か隠してる?

僕の言葉に割り込んでまで話した意図として、それが一番妥当だと判断した。


「…誤魔化さないでください。あなたの口から聞くまで、食い下がるつもりはありません。さもなくば、納得なんて夢のまた夢です」


ローブの影から強まった光が一端を見せた。

その光からは明度が達眼を占める割合が増しているように見えた。

彼には僕の言辞が衝撃だったようだ。


「…人の目もある。ここでは話せないな」


示唆に富むような溜め息をついた。

何か思い立ったかのような様子だ。 


“ここでは”…か。場所を移したいということだろう。


「すぐにでもここを移りたいと?」


「…そうしたいのは山々だが、一家の責務をまだここで果たしていない。今ここを出たら後悔が残る」


頬机がカウンター机に隠された。彼の姿勢が余裕綽々に整われた。

彼の横顔は厨房に向けられていた。


責務って…

思わず笑みが綻びる。

彼の真剣な表情が僕の忍び笑いを助長した。


「そうですね」


アルディウス公爵を見習って姿勢を正した。

僕に付随して隣人が僕の動きを模倣した。


「楽しみだね」

彼女のはにかみ笑顔が郷愁を思わせた。その表情に、何故だかいたたまれない気持ちに襲われる。


「だなぁ〜どんな味か楽しみ〜」


指の間同士を交差させぐぅ〜と背伸びをしている。彼の「ん〜」と漏れ出た声に釣られて僕も背伸びをした。

不思議なものだ。

人と言うのは、無意識に周りの動きを真似する生き物である。真似事には、やがて自我が芽生えていく。そうして自己が形成されていくのだ。


体が鉛のように遅延を帯びた。

…僕の自我はいつ芽生えたんだ?

幼少期?それとも初等生辺りか?


鉄球が鎖で繋がれたが如く、更に体が鈍くなった。

…腑に落ちない。

むしろ最近だという気もしてきた。

だが、赤子の頃だとしても違和感はないように感じる。

成立し得ないはずの違和感に、不思議と僕の直感は『矛盾はない』と告げていた。

どういうことだ…


「うん」


考え込んだ頭では空返事が精一杯だった。

どうやら脳は糖分を欲しているようだ。ジャムパンで英気を養うとしよう。


「…あ〜」


眠気が襲った。

口元に手を当てた。酸素を取り込もうと大きく開かれた顔面はバランスが崩れて不細工になっていた…かも知れない。痴態を晒さぬよう必死に両手で顔を隠した。


「別に隠さなくていいのに」


セリアさんが僕の横顔を凝視した。

…やめてくれ。欠伸の反動で二重顎になってるし、多分すっごい不細工だから。


「生理現象じゃん。それに――」


両肘をカウンターに乗せ、両手で頬机が作られた。その頂上に顎が座った。

彼女は口角を上げ、

「猫みたいで可愛いじゃん」


悪戯に、そして明確にニヤついた。


体の熱が耳にまで伝わった。


「…うるさい」


赤い耳を残して彼女から目を背けた。


「(羨ましい…俺もセリアさんとあんな風に――)」


羨望混じりの囁きが彼女の背後で聞こえた。

僕はリオン君にも春が来ることを願った。…もっとも、今の季節は春だが。


コツッコツッコツッ――

厨房から忙しない足取りが響いてきた。

…そろそろか。


「大変長らくお待たせ致しました!こちら、ご注文の品でございます」


ティーカップと小皿、そして円形のプレートが置かれた。

何度も嗅いだ馴染み深い匂いとフルーティーな甘い香りが僕の視線を閉じ込めた。


まずは僕の品物が届いたようだ。

艶やかに添えられた青花で眼福に預かり、ティーカップの持ち手を掴もうとした。


「あ、待ってくださいね。今準備しますので」


準備?スプーンで混ぜる?

それともコースターを持ってくるとか?

いやコースターなら、はなから持ってきているだろう。

じゃあ一体何の準備を――


焚き火で暖を取るようにティーカップに両手を添えられた。彼女はいかにも事務的な態度で、お決まりの口上を紡ぎ始めた。


「熱を纏いし精霊たちよ、我が意志に応え、その姿を現せ。灯火の息吹を今ここに――」


煤塵が喉仏を掠めた。

大気のマナが焔に変質した。

水面に熱が走った。泡立った液体が湯気を漂わせている。


ファイア


下敷きになった赤い魔法陣がカップに温度を持たせた。液体に浮くネモフィラが焚き上がった。


得意属性は水属性ぽい感じなのに、火属性の魔法も使えるのか。

僕も見習わないと…


僕が今無詠唱で使えるのは水属性の初級魔法だけ。

そこから現実的に考えて達成可能なのは…

詠唱込みで扱える初級の火焔魔法と風魔法か。

どっちの方が簡単かな?

個人的にイメージしやすいのは――


青髪を見上げた。


「…火焔魔法」


尊敬の念を払うように彼女の下がり目を見つめた。既視感のある眼に安心感を覚えた。


「魔法陣はコースター代わりとなっております。大変お熱くなっておりますので、お気をつけくださいませ」


営業スマイルでお店の決まり文句を暗唱しきった彼女。肩の荷が下りたように深呼吸をする姿は、見ていて応援したくなった。


「素敵な笑顔ですね」


「え?あ、ありがとうございます。(…元はと言えばあなたのおかげだけど)」


口籠る言葉尻を不審に思いながらも、嬉しげな表情を浮かべる彼女に心が弾む。


お盆を脇に抱え、思い出したように厨房に姿を消した。…隣人の品が届くのも時間の問題だな。


「…火焔魔法が使いたいのか?」


アルディウス公爵の声が一直線上に鼓膜に届いた。

…そりゃあ使えるようになるなら願ったり叶ったりだが――


「…まぁ。容易ではないとお見受けしますけどね」


アルディウス公爵の言葉に安易に応えられる程の才ある者ではない。『持たざる者』――それこそが僕という人間。


そう簡単に扱えるわけじゃないのが魔法の現実だ。何でもかんでも想像イメージ通りに事が運ぶ程、世の中は甘くない。


「…なら、俺が教えてやろうか?」


「え?」


思ってもみない言葉に素っ頓狂な声を上げてしまう。彼の声色にはしなやかな響きがあった。


アルディウス公爵に教わる…本当にそんな事が可能なら、それ以上に光栄なことはない。


公爵――少なく見積もって、『到達者』以上の実力者。

僕のような才無き者には勿体ない享受。

だが、この千載一遇のチャンスを見逃す訳にはいけない。

これを逃せば、次いつ成長の機会が与えられるか分からない。

…答えは一つだ。


「…お願いします」


治まったはずの震えが再び拳に伝わった。

…怖いのか?

父親としての彼を見た手前、拒否反応を示されることは無いように思える。

ただ、これは――彼に対する期待だ。

こんな僕を気にかけてくれる彼ならば、下馬評を覆すこともないだろうという淡い希望。

ささやかな願い…


不安を滲ませた眼差しを向けた。


「フッ…まかせろ」


ローブが僕の体を覆い包んだ。僕の肩に筋骨隆々な逞しい腕が回された。

その腕は公爵らしいの一言に尽きる。

鍛え上げられた筋肉というのは不思議なもので、意外ともちもちしている。

…何とも心地よい感触だ。


「ありがとうございます」


期待を裏切らない反応に、暫しの安寧を嗜む。

…良かった。これで忌避されていようものなら、少なくとも三日三晩寝込んでいた。あちらから提案しておいて、それはないと思うが…

『拒絶』と言うのは豆腐メンタルの僕にとって鬼畜の所業でしかない。さながら拷問だ。


厨房から聞き覚えのある靴の響きが耳に流れてきた。

先程まで脇に抱えられ地面に対して垂直であったお盆が、彼女の仕事に駆り出され平行になっている。


「まずは…

魔導コンソメスープと魔導ラテでお待ちのお客様ですね」


クリーミーな匂いが漂ってきた。

ラテボウルとクープスープ皿が右隣の彼女と彼の目の前に置かれた。

…あれ?ラテボウルの中身が空だ。入れ忘れたのか?


「こちらはスープ用のスプーンとなります」


スプーンの壺が液体に浸り、濃厚なとろみが僅かに浮いた。

その持ち手は、スープを持ち上げる準備はバッチリとばかりに鎮座している。


「美味しそう〜」


金髪の青年の声が散布する。

コンソメの香りに思わず生唾が喉を上下する。


…僕も頼めばよかったかな。

でも使い過ぎたらお小遣いなんてすぐに無くなっちゃうし…

熟考の仕草を匂わせながら腕を組んだ。


「ご希望でしたら『ラテアート』のサービスもございますが、いかがですか?」


カウンターに品物を置き終わったリュネアさんがメモの用意をし出した。


ラテアート…

漠然と想像はできるが、実物は見たことがない。


勝手な偏見だが、『ハート』とか『チューリップ』とかを描いているイメージだ。


セリアさんはどんなアートを頼むかな?


「そうですねぇ…このお店初めて出しなぁ…」


右手を額に当て前髪が崩れている。相当悩んでいるようだ。

僕だったら何頼むかな…

ここはやっぱり――


「『オススメ』でお願いします!」


明るい表情を浮かべる右隣の彼女は、パッと閃いたような顔をした。

予想通りの反応に、勝ち星を挙げるが如く高々と拳を挙げそうになった。

…何故だか、また左手前方から鼻で笑う声が聞こえてきた気がする。


――やっぱそうだよね。

来たことがないお店の、しかも『ラテアート』と来たものだ。そりゃあ一番確実で、一番安心感のある『オススメ』を頼むだろう。


「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」


走らせ終わったペンはウイニングランのように颯爽とポケットに収納された。


どんなアートが描かれるだろうか?

このお店は『ネモフィラ』がモチーフになってるっぽいし、恐らくお花の類だと思うのだが…


あるいは――

肩を追いかけ、左手前方のカウンター席に目配せした。


赤髪の少年は何のことだかまるで分からない表情を浮かべている。

その口元にはティッシュで拭き取って尚、パンのカスがこびり付いている。


――東部領グラディアの紋章とか。


「俺のコンフィサンドはまだかなぁ…」


リオン君が悲しげに呟いた。

そういやそんなのも頼んでたな。

てか今更だが、コンフィサンドって何だ?

名前からして美味しそうだし何かしら挟んであるのは分かるが、如何せん実物が思い描けない。


人差し指で頭を描いた。

…“コンフィ”という語感からして、なんとなく『ざらざら系』もしくは『ザクザク系』が有り得そうか。


厨房から、もうお決まりの流れとなりつつある音が聞こえてきた。カウンターの奥の棚に置かれるエスプレッソマシーンに目が行った。


よくもまぁ寸分違わず同じ音を響かせられるものだ。

手にピッチャーを携えた彼女を見ながら感心した。

あ、別に野球選手のことではないからね。

…誰に向かって言ってんだ。

最近独り言が増え過ぎておかしくなってきてるかも。

片手でこめかみを押さえ、肘をカウンターに置きながらため息をついた。


「それでは始めていきますね」


ラテボウルの持ち手に端正な所作で手が添えられた。

後ろを向く反動で青髪が空間に取り残される。ライトに当てられた髪は、より一層輝きを放っている。


エスプレッソマシーンに近づいた彼女からはその表情が分からないものの、その姿は実に優美だった。


グラインダーに近づく手にはドージングカップの持ち手が握られていた。慣れた手つきだ。


ガリガリッ――

豆を挽いた音がけたたましく響いた。

ついに始まったようだ。


「ふんふふぅ〜ん♪」


鼻歌混じりに業務を遂行している。

楽しそうに作っている姿は母にそっくりで、つい目で追いたくなってしまう。


「次は…」


真ん中に穴の空いた円形の道具を取った。ドージングカップに取り付け、豆を平らに均した後取り外した。


手に茶色の物体が乗った。

あれは…タンパーというやつだ。豆を均一に押し固めてお湯の浸透を安定させる効果がある。


ギュッ、ギュッ――と圧力をかけている。


その後エスプレッソマシーンに取り付けた。

ボタンが押された。


ウーッ――

エスプレッソマシーンが低く唸り、濃い香りが空気に溶ける。細い流れがラテボウルに落ち、表面に艶のある黒が広がった。

腕時計を見た。

時間にして、約三十秒エスプレッソが抽出される音が聞こえた。


その隣に鉄の物体が置かれた。


紙パックに入った牛乳が重力に乗せられた。

傾くパックから湧き出る白い液は、ステンレスの鉄物に静かに入場した。


ピッチャーが浮かされた。

鉄物がミルクスチーマーの下に位置した。


チリチリ――シュ――

スチームノズルに当てられたミルクが、微細な泡を含みながら滑らかに膨らむ。

表面は艶を帯び、まるで液体の絹のようだった。

きめ細やかに泡立ったミルクの音が僕らの耳目を集めた。


そのままの勢いで――右手に握られたミルクピッチャー。右手の指が持ち手に通ったラテボウルという体勢を取った彼女。


30度程傾けれた左手。

ピッチャーを傾け、ゆっくりとミルクを落とす。

渦を巻くように動かされる右手。

白が黒を押し広げ、円を描くが如く広がっていく。

ミルクは並々まで注がれた。


彼女の背中が死角に隠れた。

こちらの顔を伺っている。


「ひとまずは…これでよし。

お待たせ致しました。今から『オススメ』を描いていきますので、少々お待ち下さい」


出来立てのラテは白と茶色が混ざり合って、最高のハーモニーを醸し出していた。

…飲みたい。


彼女は再び背中を見せた後、棚から瓶を取り出した。

瓶には袋に包まれた濃い茶色の液体が入っていた。


あれは間違いなくチョコソースだ。


棚の下の引き出しに手が加えられた。

引き出しからはピックとマドラーが取り出された。


「よし!準備完了!」


ばたばたと慌てながらこちらに駆け寄ってきた。

手にはミルクピッチャーとピックとマドラーが持たされている。

右隣のセリアさんはソワソワと体をくねくねさせている。


「大変長らくお待たせ致しました。それではこれより、ラテアートを始めさせていただきます」


左手のピッチャーに残ったミルクをマドラーで掠め取り、液上に白い地面が広げられた。

ラテの土台が完成した。


ピッチャーとマドラーを隅に置き、両手にピックとチョコソースの袋を有している。


ピックの先端をソースに浸し、鉄に液が付着した。


リュネアさんの顔を覗いてみた。

彼女は自分の世界に没入していた。


——その瞬間、わずかに空気が震えた。

ミルクの流れが、あり得ないほど精密に制御された。表面が不自然なほど張り詰め、形を保っている。


白い海原に一つ――、一つ――、また一つ――

真円が描かれた。


三つの円は互いに接点を持たず、一番内側の円から同心円状に広がっている――ように見えた。実際には少しズレており、歪んでいた。

本来なら崩れるはずの輪郭がぴたりと止まり、三つの円が“ずれたまま”固定された。互いに触れないはずなのに、どこかで“繋がっている”ようにも見えた。

カップの縁に刻まれた微細な魔法陣が温度を一定に保っている。


その円の中に見覚えのある形が刻まれた。描かれた線が、ただの模様ではなく“術式”として機能しているように見えた。

表面に浮かぶそれは、魔法陣のようでありながらどこか歪んでいる。


一帯を照らす青い光を受けて、白いミルクが淡く発光した。


カタッ――

左手前方から椅子を降りる音が響いた。

丸椅子を降りた初等生集団が魔導ラテを見物しに来た。


「おしゃれ〜!」


共に一斉に声を上げた。


完成したはずなのに、

それはまだ“動いている”ように見えた。


「……これ、綺麗だけどさ、何かズレてない?」


「魔法陣ガバガバじゃん笑」


「大丈夫です。仕様ですから」


まさに無表情。

リュネアさんの真剣な顔が、余計に笑いを助長した。


その場に暫しの温顔が貼り付けられた。

…誰も気づいていない。


――左隣のオーラに視界がぐらついた。

チャコールローブの奥で黄色の瞳が明確な憤怒を孕ませていた。


笑い声が一瞬だけ揃った。

——その直後、誰も声を出さなくなった。


三つの魔法陣。それらは意図した比率の大きさに見えた。

「…いや、これって――」


カウンターテーブルの下にある鞄に手を伸ばした。

そして、財布を手に取った。


「…セリアさん。アルカ硬貨出して貰っても良いかな?」


「アルカ硬貨?分かっ…た」


怪訝な面持ちで不可解そうに首を傾げた。

僕の予想が正しければ、これは恐らく――


恐る恐る財布を開けた。


「…よし!出来た!」


青髪の少女の声が空間中に目には見えぬ亀裂を走らせた。


「あつっ!」


アルカ硬貨を手に持っていたセリアさんが、丸椅子から転げ落ちそうになった。金色の煌めきを放つ硬貨は、宙に舞うことで更なる綺羅びやかさを現した。


財布の中の銀と青に恐れ戦慄く。

硬化に手を伸ばし、僕も触れてみる。


指先に触れた瞬間、違和感が走った。

次の瞬間——焼けるような痛みが突き抜けた。


痛っ――

殺意が――冷気が――指先を壊死させるように傷ませた。


なんだ…これ?


「これで“開く”はず。約束は果たしたよ――」


不気味な笑顔を浮かべる彼女は恐懼の念に駆られる程に満足げに棚に振り返った。


腕時計を見た。その方向は――南。


彼女は恩義を伝えるが如く高らかと声を上げた。


「――セレフィアさん」


その名前を聞いた瞬間、

空気の温度が変わった気がした。

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