第十六話 誘い
本をそっと閉じた。
これまで読んできた本の中でも、余韻の深さは相当なものだった。
彼女の境遇を考えると胸が苦しくなる。
僕は才のない者だったけれど、彼女はその逆。
恵まれて育ったのだと思う。
環境も何もかも、違っていたのだろう。
…だからと言って幸福になれるわけじゃない。
彼女は今行方不明だと本に記されていた。
どこで何をして暮らしているか分からないが、家族と縁を切って生きていくことの辛さは計り知れない。
…そう考えると、僕は恵まれているのかもしれない。
毎日母とご飯を食べて、友達と遊んで、学校に通えている。幸せ者だ。
…己の不出来さにさえ目を瞑れば。
本を本棚に戻そうとする。
そのときだった。
灰銀の髪が視界を横切った。
ちらっと目が合った。
彼は近づこうとはせず、本を抱えながら僕を板挟みする二つの本棚の側面からこちらの様子を伺っている――ように見えた。
違う。
あれは、“待っている”目だった。
その髪をなぞるように見てみる。
黒っぽいグレーコートに、白シャツ、黒ズボンを身に着けていた。
機能性を意識したかのような、シンプルな服装だ。
僕も私服だったらあの格好をしていたかも知れない。
彼は僕の服装を確認するなり本棚に姿をくらました。
気になった僕は本棚の側面に足を運んでみた。
……呼ばれている気がした。
「確かこっち…」
隣の本棚に行き顔を覗かせてみた。
「あれ?いない…」
逃げた、というより――
役目を終えたように、姿を消した。
周囲を散策してみる。すると不思議な本棚を見つけた。
「第二閲覧区?」
この図書館限定のジャンルだろうか?他ではあまり見ない類だ。
第二ということは第一もありそうだ。二階には無さそうだったし、一階にあるのかな?
謎めいたジャンルに胸を躍らせつつ、気になった本を手に取ることにした。
領土に詳しくなるとこの世界について深掘りやすくなるかもしれない。
まずは領土とか地域系の資料を…
「おっ」
電流が走るように目が行ったのはこの本。
『アビスラ大陸生態記録』
大陸…か。この世界にもそんなのがあったのか。
西部領、アストラ街みたいな領土・地域の名前しか知らなかった。
僕の世間知らずなところがいよいよ祟ったか?
…いや待て。十五年生きてきて聞いたがないってのは変な話だ。アビスラ大陸なんて特徴的な名前、一度は耳にしていないとおかしい。
顎に手を当てながら必死に思い出してみる。
…全く身に覚えがない。
どんなことが書かれてるんだ…
期待と疑念を胸いっぱいに広げながらページをめくってみる。
古文書のような重厚感のある紙だ。このタイプは初めてかもしれない。更に珍しいのは筆記体で書かれてあること。
筆記体なんて久しぶりにみた。
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『アビスラ大陸生態記録』
アビスラ大陸に生息する魔物は、単なる捕食活動に留まらない。
彼らは“序列”を持ち、“言語”を持ち、“意思”を共有する。
これは本来、あり得ない進化である。
観測の結果、魔物たちは外来の存在から知性を与えられた可能性が高い。
その影響は魔法体系にも及び、現在では独自の魔術体系を確立している。
……だが、例外も確認されている。
魔力を殆ど持たず、序列にも属さない個体。
彼らは“異物”として扱われ、排除の対象となる。
――弱きものに、居場所はない。
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意図的にやったかのようにページが破かれており、そのページにはこれ以上書かれていなかった。
「こんなことする人もいるのか…」
読者好きとして、このような愚行をする暴君には怒りの鉄槌を下してやりたいところだ。
が、犯人が誰か分からないのでひとまず保留しておく。
見つけたらただじゃ置かないぞ。
怒りの沸点をなんとか抑えつつ平静を装う。
ページを一枚ずつ丁寧にめくっていく。
この本には専門的なところまで細やかに書かれている。読み終わる頃には魔物博士にでもなれそうだ。
最後のページまで来た。
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それでも、彼らは確かに生存している。
…観測例は少ないが、いずれも極めて執拗な生存行動を示した。
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この本の著者は誰だろうか。
この世界で魔物に詳しい人なんて見たことがないし、そもそも魔物にすら出くわしたことがない。
噂では南部領の奥の地域にある遺跡で魔物が観測されたと聞いた。
行く機会があればその姿を拝んでみたい。
魔物博士が仮にいるとしたら研究の宝庫である北部領辺りが思いつくが、魔物の研究は未だゼロだ。
最先端の研究をしている北部領から報告が上がっていないところを鑑みると、著者の出生が疑わしくなってくる。
ここまで詳しいとなると、著者はアビスラ大陸出身…とかだろうか?
本には“例外”について書かれていた。そこには著者の感情が表れているように感じた。
もしや著者はその例外に当たるのかも知れない。
今はどこにいるのだろう…?
是非とも出生を聞いてみたい。
本の異質さに気を取られつつ、次の本を探した。
無意識のうちに“異物”が脳裏に巡っていたのか、すぐに目が行った。
「これは…」
入学初期からずっと疑問に残っていた。考えても答えが出なかった。
…この本によって答えが分かるかも知れない。少なくとも糸口は見つかるはずだ。
探究心に意識を駆られるまま本に手を伸ばす。
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『落下事案記録』
記録番号:A-01
発生日時:不明
発生地点:セレスティア中央魔術学院付近
当該事案において、上空より人型個体の落下を確認。
個体は軽度の損傷を負うも、生存を確認。
特筆すべきは、当該個体が既存の魔力構造と一致しない点である。
検査の結果、体内に未知のエネルギー循環を確認。
当該エネルギーは既存の魔力と干渉せず、独立した挙動を示す。
…本件は自然発生とは考え難い。
人為的介入の可能性が極めて高い。
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この本を手に取ったとき、思った。
あの日の出来事…手掛かりが掴めるかも知れない。
登校初日、担任に質問をされ僕が返答を濁している最中、何かが視界を横切った。
一瞬だった。耳を劈く轟音が鼓膜に響き渡った。驚きで耳を塞ぐのも忘れるくらいの衝撃が脳天に突き刺さった。
忘れるはずもない記憶だ。
この本の内容が正しければ、あの日の落下物は人型の個体…ということになるだろう。
違和感が血流を循環した。
…ん?
引っ掛かりを覚えた。
再び発生日時に目が行った。
“不明”と書いてある。あの落下現象が起こってから日は浅い。まだ四日しか経っていないのだ。
具体的な時間は分からなくとも、日にちなら記せるはずだ。
これはいったい何を意味してるんだ…?
あらゆる可能性を模索してみる。
一つの可能性が脳裏に浮かんだ。
この記録は…“あの日”の記録ではない。
すなわち、『過去』の記録。
ならば、あの日のような落下現象は過去にもあった…ということか?
確かめるように記録の本文に目を通した。
上空から落下…
点と点が繋がりそうな感覚に陥る。
記憶が蘇る。
登校初日に見た夢…
僕は空から落下していたんだ。あのときは驚いた。突然床に空洞が生じたかと思えば、いきなり上空にいたんだもの。
夢が現実に起こったものとすると、この記録は僕とお母さんの二人にまつわる記録だろうか?
…腑に落ちない。さっきから何なんだ、この違和感は。
僕の仮説は間違っているのだろうか…
もう一度本の最初に目を通した。
記録番号:A-01…
点と点が繋がる。
二つの個体が空から落下してきた場合、記録番号も二つ記されているはずだ。
それなのに一つだけということは…
にやけ面を堪えようとするが、限界が近かった。
つまりこの本の記録は、『過去』に落ちてきた一つの個体にまつわるものだ。
肩の力がどっと抜ける。
違和感が吐き出される。
やっと納得のいく結論が出た。
意気揚々と次のページをめくった。
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当該個体は後に観測対象として管理対象へ移行。
――分類:被験体
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管理対象…これは今もか?
この記録がいつのものか分からない以上は安易に判断しかねる。
今も管理されているとしたらこの個体の正体は何なのだろう?
気になる。
人型の何かか、はたまた人か、それとも別の生命体か…
胸中に“未知”を宿しながら次の本を探す。
空から落下する原因は何なんだ?夢が現実なら、他者から傷を与えられること…とかだろうか?
落下する前は地に足がついていたのに、突然床に穴が開いたというのも気がかりだ。
夢の内容を反芻しながら本棚を舐めるように見回す。
僕の疑問を払拭してくれる可能性がありそうなタイトルを見つけた。
『境界論』
何を持ってして“境界”と呼ぶのかは分からないが、この本を読めばその意味が分かるのだろう。
記憶の中の境界を頭に想像しながらページをめくった。
―――――――――――――――――――
『境界論』
世界は分断されている。
それぞれは独立した法則を持ちながら、
“境界”と呼ばれる不可視の層によって隔てられている。
境界は絶対的な壁ではない。
むしろそれは、極めて繊細な均衡の上に成り立っている。
魔力の過剰干渉、未知のエネルギーの流入、あるいは――
“意図的な破壊行為”
これらが重なったとき、境界は歪みを生じる。
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書かれてあることを理解出来なかった。脳がこの本の情報を受け付けなかった。拒否していた。
何もかも理解できない――はずだった。
だが、どこかで知っている気がした。
…この感覚は、何だ?
知らないはずなのに、理解しかけている。
まるで、一度壊れた記憶を撫でるみたいに。
知らないはずの理屈が、
まるで記憶の奥から引きずり出されるように浮かんでくる。
世界が分断…?何を言ってるんだ。僕たちが住んでいる世界とは別の世界が存在している…著者はそう言ってるのか?
あり得ない。だって…そうなのおかしいじゃないか。
動悸が激しくなっていた。混乱が脳内に渦巻いた。
そもそも境界ってなんだよ?境界が世界を隔ててる?馬鹿馬鹿しい。
嘲笑混じりにページをめくった。
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歪みはやがて臨界に達し、
――崩壊する。
その瞬間、分断されていた領域は交錯し、
存在の定義そのものが書き換えられる。
……それは災厄か、あるいは――
“再編”か。
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動揺で気が動転していた。この本の情報を必死に否定しようとした。
さもなくば、今までの人生に意味を見いだせなくなると思ったから。
僕を嘲笑うように記憶が湧き出る。
鼻につく血の匂い。
母の温かさ。
狂気と後悔を滲ませる男の手。
あの日の夢。
忘れようとしても、油汚れのように決して離れようとしない頑固な記憶。
夢の中で床に空洞が生じた原因。
それが境界に歪みを発生させたことだとしたら…
鳥肌が粟立つ。背筋が凍った。身震いが止まらない。
手の震えで本を落としてしまう。
膝が重力に従順になった。頭を抱えた。
そんなはずはない。そんなこと、あるはずがないんだ…
否定しようと抗っても、残酷にも僕の頭から汚れは落ちなかった。
「はぁ、はぁ、はぁ…」
息苦しくなってきた。十分な酸素が脳に生き渡らない。
冷静な判断が出来ない。
「苦しい…」
意識が飛びそうになった。
助けを求めるように手を伸ばした。
世界が暗転する寸前、金髪の青年の顔が青ざめていた。
「こんなの、到底受け入れられない…」
そう言い残して意識は途切れた。
「ゼイル!しっかりしろ!ゼイ―――」
視界が暗転した。
意識が沈む。
底がない。
――どこかへ、落ちていく。
…
……
………
「大丈夫、私がついてるから」
目の前には少女がいた。
優しい声色だ。
僕の体を抱きかかえてくれている。
頭を撫でてくれた。
…感触がざらざらしている。人肌とは違う気がした。
ゆっくりと顔が上がった。
その少女の眼差しを受け止めた。
呆然とした。
少女の目元を見て人間ではないのだと悟る。
ざらざらしているという次元ではなかった。
言うなれば、鱗だ。
背中には翼が生えており、頭には角が生えている。
本の内容を思い出す。
これは…魔物かも知れない。本に記されていた魔物の特徴と一致している。
なら、僕は今魔物の少女に抱えられてる状態なわけか。
…いや、どういう状況?
この子は人間の僕を抱えているわけだが、怖いとか思わないのか?
視線が落ちた。
自分の姿を見る。
…え?
視界に映る光景に当惑した。尻尾が生えており、肌は少女と同じような鱗だった。
手が頭に伸びた。
このとんがった形…角だ。
背中にも手が伸びた。
…翼だ。
これは違う。
体は動くのに、“僕の意思”じゃない。
——これは、僕の記憶じゃない。
「大丈夫、ルミナ。きっともうすぐ“お姉ちゃん”が来てくれるから」
目の前の少女が僕をルミナと呼んでいる。…可能性は高そうだ。
意識が落ちた後…
意識は魔物に飛び、僕は今魔物姉妹の記憶にお邪魔しているわけか。
お姉ちゃん…と言ったか?誰のことだろか。
周囲を見渡す。
木々が生い茂っている。緑に囲まれていると心が和む。やっぱり僕は自然が好きなんだと、改めて実感させられる。
辺りには緑と少女以外にない。少女の言うお姉ちゃんというのはこの場には居ないらしい。
いったいどこに…
「お〜い!今日もおやつ持ってきたよ!一緒に食べよ〜!」
若い女性の声が木霊する。
視界が旋回した。
「ありがとう、お姉ちゃん」
少女が僕を背中に抱えながら女性に抱きついた。
「も〜可愛いな〜」
翼を使って器用におんぶしてくれている少女の背中から顔を出し、女性の見た目を観察してみる。
老魔術師のようなローブに身を包み、髪に軽いウェーブがかかっている。少し癖っ毛なようだ。その髪は肩まで伸びており、髪色は茶色。茶髪だ。
女性の声と顔にはギャップがあり、その顔は幼い少女のような顔つきだ。
その面持ちとは裏腹に、瞳に圧を感じた。深緋色の目は何かの拍子で全てを焼き尽くさんという空気を纏っていた。
この視線には見覚えがあった。
噴水公園に行く前、この眼差しを受けた気がする。
確か本にも同じような特徴があった気が…
女性は膝を屈め、僕たちに目線を合わせた。おやつを見せてくれた。リンゴがウサギのように切り取られていた。
「今日のおやつどう?美味しい?」
可愛らしいウサギに容赦なく爪楊枝をぶっ刺し、僕たちの口まで運んでくれた。所謂、“あ〜ん”というやつだ。
「美味しい!」
うむ。ジューシーな果汁が口の中いっぱいに溢れて、甘味が味蕾を包み込む感じだ。美味しい。
「ほんと?嬉しい〜」
女性は顔を蕩けさせながら僕たちの面倒を見てくれる。
普段からこの魔物姉妹を可愛がっているのだろうか?
「よし、今日は魔法を教えてあげようか。特別だよ〜」
女性は上機嫌で立ち上がった。
「え〜!なになに!」
期待した。どんな魔法なんだろう…
「今日教えるのは中級。風属性の魔法だよ!よく見といてね!」
風属性の中級魔法…風切なら授業で使っている人を見たが、他にはどんな風魔法があるのだろう…
空気が変わった。
森中のせせらぎが女性に集まっていく。僕らの耳に届くほどの精霊の息吹が空間に響いた。
瞬間、彼女は森の支配者となる。
「嵐の渦巻く精霊たちよ、我が呼び声に応え力よ集らん。風の刃よ、今こそ放たれん。疾風の如く敵を貫け――」
精霊たちは応えたのではない。
――従わされた。
全身の力が抜けるような感覚に襲われる。まるで魔力が吸い取られるみたいな…
彼女の視線が引き上げられた。狙いが森の木々に合わせられる。
深緋色の瞳が一層赤みを増していた。魔力の圧が空気を軋む。
「風剣」
無意識に顔を伏せる。
彼女の手から発せられた風の刃は頭上を通過し、木を容易く輪切りにしてばったばったと倒していった。
「ふぅ〜…ちょっとやり過ぎたかも」
女性は元の顔つきに戻ると、焦りを露わにし木々のもとへと駆け寄った。
「我が手に宿りし聖なる光よ、失われた部位を導き、闇を払い、癒しの力を示せ。
意志と力を込めし精霊よ、今こそ成就し、傷を癒さん――」
彼女は詠唱しながら森を走り回った。
「回復浄化」
倒れ伏した木々たちは瞬く間に命を吹き返し、緑の豊かさを取り戻した。
「…みんなには内緒ね」
彼女は口元に指を添えて「しぃ〜…」と唇を尖らせた。
視界がぼやけていく。段々と意識が覚醒してくる。
記憶はここまでのようだ。
重力の犬になった体を起こすべく、無理にでも起き上がろうとする。
「――イル!大丈夫か?おい、ゼイル!」
リオン君の声が聞こえてくる。
彼はずっと僕を見てくれていたようだ。
「うん、大丈夫。ありがと」
床に張り付いたままの胴を起こし彼の手を取った。
「マジで焦ったぁ…取り敢えず、無事そうでなりよりだ」
彼はほっと胸をなで下ろし、いつもの顔に戻る。
「そういやさっき、ゼイルに似た人が図書館から出て行ってたんだけど、あの人知り合い?」
僕に似た人…意識を失う前の出来事を思い返してみる。
僕を見ていたあの男性…背丈は違うものの、容姿は僕とそっくりだった。
目が合った気がした。
…いや、違う。
あれは、“観察されていた”。
あの目は、“ここに来ると知っている”目だ。
ただ似ているだけじゃない。
何かを“知っている目”をしていた。
母親の髪は灰銀ではない。
どちらかと言えば白銀だ。
兄弟は…いたか?
——いや、それとも…
赤ん坊の頃、微かだが僕の隣にはいつも誰かいた気がする。
しかしある時からその姿は忽然と姿を消した。
あれが僕の兄弟…なのか?
朧げな記憶なので確証はない。
あの男性は…誰だ?




