第96話 訃報と叛は、同じ早さで進む
【建興元年 十月|成都】
同じ日に、二つの報せが来た。
一つは、法正が危篤だということ。
もう一つは、南が三郡、叛いたことである。
◆
建興元年、十月。朝である。
董允が、竹簡を二本持ってきた。そして、どちらを先に渡すか、迷っていた。
「董允どの」
「陛下」
「両方、渡してください」
董允は、頭を下げた。そして、二本、同時に置いた。
俺は、左を取った。そして、開いた。
《蜀郡太守・法孝直》
《十月三日、危篤》
《医官、三日と申す》
《年、四十八》
俺は、その数字を、二度読んだ。
四十八である。年表の死年は、四十五だった。三年、延びた。
そして、今日、赤が出た。
俺は、右を取った。
《南中三郡、叛す》
《益州郡・雍闓》
《越巂・高定》
《牂牁・朱褒》
《いずれも、太守を殺害、または追放》
俺は、その二本を、並べて置いた。
同じ日である。そして、同じ早さで届いた。
俺は、そこで、視界を開いた。
【法正 字・孝直】
生命危険度 赤(危篤)
年齢 四十八
延命期間 三年(継続中)
主要因
・強制休養(建興元年より三度)
・執務量の分割
・後継者三名への権限移譲
そして
・許靖
最後の一行が、赤くなかった。そして、赤い表示の中で、そこだけが、まだ笑えた。
俺は、そこで、笑わなかった。
三年である。そして、この人は、去年の東征に出た。咳をしながら、である。
出なければ、五年だったかもしれない。そして、出なければ、七所ではなく、四十余所が焼けていた。
◆
許靖が来たのは、その日の昼だった。七十を超えている。そして、この人も、そう長くない。
「陛下」
「許靖どの」
「孝直の件でございます」
「はい」
「城内に、訃報が走っております」
先走った報が、叛の報と同じ早さで駆けている。
「まだ、です」
「はい。ですが、諡の下問が、すでに二件参りました」
「……諡を、どういたしましょう、と」
俺は、そこで、聞いた。
「案は」
許靖は、答えた。
「翼侯、と存じます」
「翼は、輔けるという字でございます」
俺は、そこで、この人を見た。
十五年、法正はこの人を軽蔑してきた。「名だけの者」と呼んだ。そして、推薦したのも、この人だった。
そして今、まだ生きている男の諡を、先に選ばされている。
「許靖どの」
「はっ」
「孝直どのは、あなたを嫌っておられました」
許靖は、少し笑った。そして、こう言った。
「存じております」
「では、なぜ」
許靖は、答えた。
「四十年、人を評してまいりました」
「はい」
「そして、好き嫌いで評したことは、ございませぬ」
俺は、そこで、頭を下げた。
十六歳である。そして、皇帝である。そして、下げた。
◆
三日目を待つあいだ、蔣琬が枕元の竹簡を預かってきた。本人が、病の床で自ら整理していたものである。
竹簡が、三十本ほど。そして、木簡が、一枚。
俺は、その木簡を受け取った。そして、開いた。
名前が、七つ書いてあった。
俺は、そこで、手が止まった。
一年前、この人が持ってきたものと、同じである。
《建安二十一年 七人を、ころした》
《うち、三人は、りゆうがわからない》
そして、この人は、五年かけて名を思い出した。
そして、その裏に、一行あった。字が、乱れている。最後に書いたのだろう。
《殿下へ》
《七人の家を、探しました》
《四つ、見つかりました》
俺は、そこで、竹簡を落とした。
探した。一年である。そして、四つ、見つけた。
俺は、その先を読んだ。
《三つは、絶えておりました》
《四つは、生きております》
《四つの家に、月に一度、米を送っております》
俺は、そこで、蔣琬を呼んだ。
「公琰どの」
「陛下」
「法正どのが、米を送っていた家があります」
「……はい」
「ご存じでしたか」
蔣琬は、答えた。
「存じております」
「いつからですか」
「一年前でございます」
「はい」
「そして、私が、帳を付けておりました」
俺は、そこで、聞いた。
「なぜ、教えてくださらなかったのですか」
蔣琬は、答えた。
「……申されませなんだので」
四人目である。劉巴。潘濬。陳紀。そして、この人。
そして、四人とも、聞かれるまで言わない。
十六年、俺はそれを制度で解こうとしてきた。そして、解けていない。
「公琰どの」
「はっ」
「その帳を、続けてください」
「はっ」
「そして、私の名で、送ってください」
蔣琬は、しばらく黙っていた。そして、こう聞いた。
「陛下」
「はい」
「孝直どのの名では、いけませぬか」
俺は、そこで、答えた。
「いけません」
「なぜでございます」
俺は、答えた。
「一人の名では、十年、送れないからです」
十六年、俺はそれを見てきた。張松の人材台帳。魯粛の国境協定。楊阿七の名。
そして、全部、名を残した。
そして、名を残すことと、続けることは、別である。
三日目の朝、報せが来た。
《法孝直、目を覚ます》
起きて最初に、「許靖を代理に」という自分の言葉を、本人が取り消したという。
「三日で戻ると、決めておりました」
後年、この人はそう言った。そして、諡の件を知って、三日、許靖と口をきかなかった。
◆
南中の話に、戻る。
俺は、その日、評定を開いた。そして、諸葛亮が、地図を広げた。
「三郡でございます」
「はい」
「雍闓は、益州郡の豪族でございます」
「はい」
「太守の正昂を殺し、次の太守も追いました」
「そして、呉に降っております」
俺は、そこで、視界を確認した。
【雍闓】
統率 71
知略 83
扇動 94
交渉 88
虚偽利用 97
固有特性
【嘘をつかずに騙す】
事実の一部だけを伝え、相手に誤解させる。
備考
この人物の手口は、あなたが以前見たものと同じです。
以前見たもの。そして、俺は、それが誰か知っている。
「先生」
「はい」
「雍闓は、何と言って人を集めていますか」
諸葛亮は、答えた。
「……妙なことを申しております」
「何ですか」
「『漢が、黒犬三百頭を求めている』と」
俺は、そこで、動きを止めた。
「……黒犬」
「はい」
「三百頭でございます」
「……」
「そして、瑪瑙三千斤、斲木三千本」
俺は、そこで、聞いた。
「それは、我が国が求めたのですか」
諸葛亮は、答えた。
「求めておりませぬ」
「はい」
「そして、『そんなものは出せぬ』と申しております」
俺は、そこで、この手口を理解した。
嘘では、ない。出せない要求を、勝手に作る。そして、「こんな要求をされている」と言う。
そして、南の人々は、こう思う。漢は、無茶を言う。
一年前、呂蒙が同じことをした。
「病人が国のことを考えてはならないという法はありません」
嘘をつかずに、騙す。そして、抗議できない。
「先生」
「はい」
「これは、どう打ちますか」
諸葛亮は、答えた。
「軍でございましょう」
俺は、そこで、言った。
「その前に、一つあります」
「はい」
「求めていないと、書いて出します」
諸葛亮の羽扇が、止まった。
「陛下」
「はい」
「文書で、叛は止まりませぬ」
「はい」
「そして、南の民は、字が読めませぬ」
俺は、そこで、答えた。
「読める人が、五年前から増えています」
十字教練である。王平のために作った。五年前だ。そして、南中の兵にも、教えている。
進む。退く。待つ。水。火。北。南。敵。味方。止め。
「先生」
「はい」
「十字で、書きます」
諸葛亮は、しばらく黙っていた。そして、こう聞いた。
「……何と、でございます」
俺は、答えた。
「『犬は、いらぬ』」
広間が、静かになった。そして、龐統が、笑った。
「陛下」
「士元どの」
「四字でございますな」
「はい」
「そして、十字のうち、四つとも入っておりませぬ」
俺は、そこで、気付いた。
「犬」も「いらぬ」も、十字に入っていない。
進む。退く。待つ。水。火。北。南。敵。味方。止め。
一つも、使えない。
「士元どの」
「はい」
「十一字目を、教えます」
龐統は、酒杯を置いた。九度目である。
「何を、でございましょう」
俺は、答えた。
「『犬』です」
五年前、俺は王平についてこう書いた。
《これから、十一字目を、おぼえる》
そして、十一字目が、犬になった。
◆
その夜、俺は木簡を出した。そして、死亡年表を開いた。
二二〇——法正。丸。そして、削ってある。そして、そこには、何も描いていなかった。
俺は、そこで、筆を取った。そして、二二三の行に、書いた。
法正 四十八
そして、記号を描こうとして、止めた。
丸か。四角か。
三年、延ばした。そして、死んだ。
延ばしたことは、四角である。そして、死んだことは、丸だ。
俺は、そこで、六つ目の記号を作った。丸の中に、四角を描いた。
《延ばしたが、来た》
そう書いた。
そして、この記号を、俺はこれから何度も使うことになる。
〈あとがき〉
同じ日に、訃報と叛が届きます。
法正、四十八歳。年表の死年は四十五でした。三年延びて、今日、峠をもう一つ越えました。その三年で東征に出て、七所で火を止めています。
《七人の家を、探しました》《四つ、見つかりました》。五年かけて名を思い出した人が、最後の一年で家を探していました。
「一人の名では、十年、送れないからです」——名を残すことと、続けることは、別です。
そして雍闓の黒犬三百頭。呂蒙と同じ手口です。十一字目は「犬」になりました。
次回、二年、何もしないという作戦です。




