第93話 皇帝の第一号人事は、丞相の休暇でした
【建興元年 五月|成都】
十六年、俺はこの一行を書くために生きてきた。
そして、書いた日、丞相は寝なかった。
◆
建興元年、五月。即位から、七日目である。
俺は、董允を呼んだ。
「董允どの」
「陛下」
「人事を、一つ出します」
「はっ」
「第一号です」
董允は、筆を取った。三十三である。そして、この人は、まだ「叱る役」ではない。それは、二月後の話だ。
「どなたの、でございましょう」
俺は、答えた。
「丞相です」
董允の筆が、止まった。
「……丞相を、動かされますか」
「はい」
「どちらへ」
俺は、答えた。
「家へ」
【詔 第一号】
丞相・諸葛亮に、十日の休暇を与える。
期間中、丞相の職務は、以下の者が代行する。
軍事・戦略 龐統
財政 劉巴
行政文書 蔣琬
人事 費禕
記録監査 陳紀
名簿 関羽
丞相は、期間中、成都の丞相府を出ること。
最後の一行が、本体である。
俺は、その一行を、三度書き直した。
一度目は、こう書いた。
《丞相は、期間中、休むこと》
消した。二度目。
《丞相は、期間中、執務してはならない》
消した。そして、三度目に、こう書いた。
《丞相は、期間中、成都の丞相府を出ること》
十六年である。俺は、この人に「休め」と言い続けてきた。そして、この人は、必ずこう答えた。
「問題ございません」
「休め」は、拒否できる。そして、「出ろ」は、拒否できない。
十六年前、俺は父が趙雲へ礼を払った日に、二つの帳簿の話を思い出した。同じ本に、もう一つ、俺が長く軽く見ていた話が載っている。
人は、中身より、形に反応する。
同じ内容でも、書き方を変えると、答えが変わる。「やめますか」と聞けば続き、「続けますか」と聞けばやめる。前世で、俺はそれを小手先だと思っていた。中身が正しければ、形は関係ないはずだ、と。
十六年、俺は「休んでください」と言い続けた。中身は、正しかった。一度も、通らなかった。
通らない理由は、単純である。「休め」は、断れる形をしている。休みません、と言えば終わる。そして、この人には、断る理由がいつでも十七ある。
「出ろ」には、断る形がない。行かない、と言うには、命令に背くしかない。
十六年かけて、俺が覚えたのは、それだけである。
小手先だと思っていたものが、いちばん効いた。そして、いちばん効くものを、俺は十六年、使わなかった。
場所を指定すれば、行為が決まる。十六年かかって、俺が覚えた、いちばん単純な技術である。
◆
詔を出した。そして、その日の夕方、諸葛亮が来た。四十三である。そして、羽扇を持っていた。
「陛下」
「先生」
「詔を、拝見いたしました」
「はい」
「一つ、伺ってよろしいか」
「どうぞ」
諸葛亮は、聞いた。
「南中が、動いております」
質問では、なかった。そして、俺は、それを知っていた。
「はい」
「越巂の高定」
「はい」
「益州郡の雍闓」
「はい」
「そして、牂牁の朱褒」
「三郡でございます」
「はい」
「そして、私は十日、出よと」
俺は、答えた。
「はい」
長い沈黙があった。そして、この人は、こう言った。
「……陛下」
「はい」
「私は、十日で、何が変わるとお考えです」
俺は、そこで、答えた。
「十日では、何も変わりません」
「……」
「そして、十日出なければ、十一年後が変わりません」
羽扇が、止まった。
「……十一年」
「はい」
「なぜ、十一年でございましょう」
俺は、そこで、答えなかった。
二三四年である。そして、それは、言えない。代わりに、こう言った。
「先生は、いま四十三です」
「はい」
「そして、南中は、来年です」
「……来年」
「はい」
「陛下は、なぜそう思われます」
俺は、答えた。
「兵が、いないからです」
去年、四千二百人が死んだ。そして、三万が退却した。糧も、船も、道も、消耗している。
今年は、動けない。そして、それは、南中も知っている。
「先生」
「はい」
「来年、南へ行かれますね」
諸葛亮は、答えた。
「はい」
「そして、その次は、北でございます」
「はい」
「そして、その次も、北でございます」
俺は、そこで、聞いた。
「何回、北へ行かれますか」
諸葛亮は、答えなかった。そして、こう言った。
「……分かりませぬ」
俺は、答えた。
「五回です」
羽扇が、床に落ちた。十六年で、二度目である。
「陛下」
「はい」
「なぜ、五回と」
俺は、そこで、こう答えた。
「先生の、身体がもつ回数です」
嘘では、ない。そして、本当でもない。
俺は、五回だと知っている。そして、なぜ知っているかは、言えない。
十六年、俺はこの人に嘘をついてきた。そして、この人は、一度も追及しなかった。
諸葛亮は、羽扇を拾った。そして、こう言った。
「……陛下」
「はい」
「私は、五回、行かねばなりませぬか」
俺は、答えた。
「いいえ」
この人が、顔を上げた。
「……何と」
俺は、続けた。
「五回行けば、先生は死にます」
「……」
「そして、私は、それを止められません」
十六年である。俺は、この人の休養意思を、二から上げられなかった。権限委譲は、三から八になった。そして、五である。
十六年で、五。
「先生」
「はい」
「だから、回数を減らすのではありません」
「……」
「一回あたりの、消耗を減らします」
諸葛亮は、しばらく黙っていた。そして、こう聞いた。
「……どのように」
俺は、答えた。
「十日、出てください」
「それが、消耗を減らしますか」
「いいえ」
「十日は、減らしません」
「では」
俺は、答えた。
「十日出た人が、次に二十日出られます」
前世で、俺はこれを何度も見た。一度も休まない人は、休み方を知らない。そして、休み方を知らない人は、倒れるまで働く。
休暇は、権利では、ない。技術である。そして、技術は、練習しなければ身につかない。
「先生」
「はい」
「これは、練習です」
「……」
「十日で、失敗してください」
諸葛亮の動きが、止まった。
「失敗せよ」である。そして、この人は、七年前、俺に同じことを言った。
《書いた者に、まず、失敗させてください》
《誤らねば、育ちませぬ》
《ゆえに——小さく、誤らせます》
「……陛下」
「はい」
「それは、私が申したことでございますな」
「はい」
「七年前です」
長い沈黙があった。そして、この人は、こう言った。
「……承知いたしました」
◆
諸葛亮は、丞相府を出た。そして、黄夫人の畑へ行った。同じ敷地である。
俺は、それを聞いて、頭を抱えた。
「董允どの」
「はっ」
「丞相府の敷地は、丞相府ですか」
董允は、答えた。
「……詔には、『成都の丞相府を出ること』とございます」
「はい」
「畑は、府外でございましょうか」
俺は、そこで、笑ってしまった。
十六年、俺は条文を書いてきた。そして、条文の穴を突く人を、何人も見てきた。
そして、この人が、いちばん上手い。
俺は、詔を追加した。
《補足》
《丞相府の敷地内も、丞相府とする》
そして、その下に。
《ただし、畑は除く》
董允が、顔を上げた。
「陛下」
「はい」
「除かれますか」
俺は、答えた。
「はい」
三年前である。黄夫人は、こう言った。
「あの人は、畑が上手でございました」
「隆中で、粟を作っておりました」
「畝を細かく分けて、水の入り方を変えて、どちらが実るかを試すのでございます」
実験である。そして、この国の統計と実験の作法は、あの畑から来ている。
そして、あの人は、こう言った。
「あの畑を、誰かに引き継いでほしいと、思っておりました」
「七年目に、諦めました」
◆
十日後。諸葛亮が、戻ってきた。そして、手が、汚れていた。
「陛下」
「先生」
「戻りましてございます」
「はい」
俺は、そこで、聞いた。
「何をされましたか」
諸葛亮は、しばらく黙っていた。そして、こう答えた。
「……畝を、分けました」
「いくつに」
「四つに」
「はい」
「水の入れ方を、変えました」
俺は、そこで、視界を確認した。
【諸葛亮 字・孔明】
年齢 四十三
休養意思 2 → 2
身体疲労 61 → 58
備考
十日間の休暇は、消耗を回復させていません。
ただし、この人物は、
十六年ぶりに、成果の出ない作業を行いました。
成果の出ない作業。
十日で、粟は実らない。そして、この人は、それを知っていて、畝を分けた。
「先生」
「はい」
「実りますか」
諸葛亮は、答えた。
「秋でございます」
「はい」
「そして、私は、その頃、南におります」
俺は、そこで、聞いた。
「では、誰が刈りますか」
諸葛亮は、答えた。
「……妻でございましょう」
俺は、そこで、答えた。
「先生」
「はい」
「刈った結果を、南へ送らせます」
「……」
「四つのうち、どれが実ったかを」
羽扇が、止まった。そして、この人は、こう言った。
「……陛下」
「はい」
「それは、私が、南で読むということでございますな」
「はい」
「戦のさなかに」
「はい」
俺は、答えた。
「一行です」
一行である。
《二つ目の畝が、いちばん実りました》
そして、それを読むために、この人は生きて秋を迎える。
その夜、俺は木簡を出した。そして、新しい一枚をおろした。表題を、書いた。
《丞相の、休んだ日》
一行目に、書いた。
《建興元年 五月 十日》
《畝を、四つに分けた》
十六年である。十六年で、十日。
そして、俺には、十一年ある。
俺は、その下に、一行足した。
《次は、二十日》
〈あとがき〉
第六部開幕。皇帝第一号の詔が、丞相の休暇です。
「休め」は拒否できます。「出ろ」は拒否できません。場所を指定すれば、行為が決まる——十六年かかって覚えた、いちばん単純な技術でした。
「十日で、失敗してください」。七年前、この人自身が言った言葉です。
そして畑。「畝を、四つに分けました」。十六年ぶりに、成果の出ない作業をしました。刈るのは秋で、そのとき丞相は南にいます。だから、一行だけ送らせます。
《劉禅文庫 再読『予測どおりに不合理』——人は、中身より形に反応する。「休め」は断れる形をしている。小手先だと思っていたものが、十六年でいちばん効いた》
次回、皇帝を叱る人を、侍中にします。




