外伝・劉備伝 『名は覚える。数は忘れる』 (〜223年)
序 変わらなかった死亡記事
史書には、こう書かれるはずだった。
《章武三年夏四月、先主、永安宮に殂す》
——劉備は白帝城で死んだ。六十三である。
◆
そのとおりになった。
この外伝集で、死亡記事が書き替わらなかった、数少ない男である。
変わったのは、死に方ではない。
最後の一年に、この男が書いたものである。
週報が、六枚。名簿が、一つ。そして、一文字。
第1話 名は覚える。数は忘れる
まず、この男の頭の造りについて述べておく必要がある。
劉備は、名を覚える。
新兵三千が入った日、一巡り歩いただけで、全員の名を覚えた。三月後、厠の前ですれ違った兵に「王阿三、腹の具合はもう良いのか」と声をかけ、王阿三は感激のあまり三日飯が喉を通らなかった。逆効果である。
◆
そして、劉備は数を忘れる。
軍議で兵站官が「米、二十万斛」と言った瞬間、劉備の目は優しくなる。優しくなった目は、何も見ていない。
諸葛亮は、対策を立てた。数字を全部「多い」「足りる」「足りぬ」の三語に翻訳してから報告するのである。
これを丞相府では「玄徳語訳」と呼んだ。呼んでいることは、本人にだけ隠された。
◆
さて。この国には、週報という仕組みがある。
息子が関羽に書かせたのが、始まりである。項目を並べ、数で書き、最後に「異常」の欄を置く。「異常なし」と書くことは、許されない。
関羽は、二十年、これを嫌がった。嫌がりながら、書いた。
◆
そして、誰も知らなかったことが一つある。
劉備が、それを読んでいた。
関羽が兵の名簿を書き始めた年から、二年である。写しを、密かに取り寄せていた。
発覚は、些細なことからだった。書庫の係が、帝の借覧記録に首をひねったのである。
「陛下。雲長どのの週報の写しを、また」
「うむ」
「……恐れながら、何にお使いで」
劉備は、少し考えて、答えた。
「字の稽古だ」
皇帝が、義弟の事務書類で字の稽古をする。書庫の係は、それ以上聞かなかった。聞かない給金だと思うことにした。
本当の理由を、劉備は誰にも言わなかった。
息子が知るのは、二年後、白帝城でである。
第2話 陛下の、留守
章武元年、東征が決まった。
ただし、この国の戦は、少し変わっている。
始める前に、評定で「終了条件」を書かされるのである。
「勝つとは、何ですか」と息子が聞き、重臣たちが口々に答えた。孫権の首。荊州の返還。湘水以西の三郡。呉が魏と結ばぬこと。——一つも、一致しなかった。
条件は、三つに絞られた。湘水以西三郡の返還。呉魏同盟の解消。関羽の名誉回復。
そして、四つ目の欄が、空欄のまま残った。
劉備が、書かなかったのである。
書けば、認めることになるからだ。——自分が、悔しいだけだということを。
四十年、感情を国の言葉に翻訳して生きてきた男が、翻訳できない一行を、空欄のまま出した。
息子は、何も言わなかった。言わずに、その夜、自分の木簡に一行書いた。
《四つ目は、たぶん、俺が持つことになる》
◆
まず交渉、駄目なら限定の戦。それが、息子が父に飲ませた順序だった。
孫権は、謝らなかった。
そして章武二年、軍は東へ出た。
◆
成都で、息子は木簡を出した。表題は、四文字である。
《陛下の、留守》
毎朝、一行ずつ書いた。三十七日目。三十八日目。三十九日目。
数えない父の留守を、数える息子が、数えていた。
◆
前線では、まずいことが起きていた。
暑さを避けて、陣が林の中へ入り始めたのである。四十余りの陣が、である。
成都の息子は、七月八日、書状を出した。宛先は、江州の趙雲である。成都から前線へ直接出せば三十三日かかる道を、江州経由の中継で、二十六日に縮めてあった。
八月三日、趙雲の撤退命令が前線に届いた。
《陛下の御名にて》
——陣を、林から出せ。
受けたのは、従軍していた法正である。この人は、命令書の署名より発信元を先に見る。見て、一つ頷き、即日動いた。
八月四日から、陣は林を出始めた。七日までに、四十余りのうち三十三が、出た。
◆
火は、八月八日の夜に出た。
東風。火矢。林が、燃えた。
焼けたのは、七つの陣である。馮習と張南が死に、兵四千二百が失われた。
——歴史では、四十余りの陣が全部焼け、蜀の主力が消えるはずだった。
四十四日目の朝、成都に早馬が着いた。趙雲の字で、四行だけあった。
《殿下へ》
《八月八日、猇亭にて、火》
《陣、七所、焼失》
《陛下、ご無事》
息子は、四行目を三度読んだ。そして、床に座り込んだ。十五である。人前で座り込んだのは、十二年ぶりだった。
◆
後日、息子は龐統に報告した。
「七日でした。江州の中継で、七日、縮めました」
龐統は、報告を読んで、言った。
「殿下。それは、七日ではございませぬ」
「……何ですか」
「三十三所でございます。一所に、七百から千。三十三所で、二万を超えます」
「——」
「七日で、二万でございますな」
息子は、動けなくなった。
そして、死んだ四千二百を「歴史より少ない」と一瞬でも思った自分を、忘れないことに決めた。
——比べる相手を大きくすると、人は安くなる。
第3話 最後の週報
章武三年、白帝城。
劉備は、竹簡を息子に差し出した。
「読め」
開くと、週報だった。
《第一週》
《食事 三度》
《眠り 二刻》
《歩いた 二十歩》
《話した者 医師三名、馬良、趙雲》
《異常 あり》
息子の手が、止まった。書式である。十五年前、自分が関羽に書かせた書式だ。
「陛下。これは」
「雲長の書式だ。……二年前から、読んでおった」
読んでいたことを、息子は初めて知った。字の稽古は、嘘だったのである。いや——半分は、本当だったのかもしれない。書き方を、覚えていたのだから。
◆
《第二週》
《食事 二度》
《歩いた なし》
《異常 あり》
《備考 歩けなくなった》
備考欄である。数字で書けないことを書かせるために、息子が作った欄だった。
そこに、この人は自分の身体を書いている。
第三週。第四週。第五週。そして第六週で、字が乱れた。
《第六週》
《食事 一度》
《眠り 分からぬ》
《異常 あり》
《備考 数えられなくなった》
息子は、目を閉じた。
数えられなくなったことを書くには、数えようとしなければならない。
生涯、数を数えなかった男が、最後の六週間だけ、数えようとしていた。
◆
「阿斗」
「はい」
「書くのは、面倒だな」
息子は、少し笑ってしまった。
「はい」
「雲長は、二十年、これを嫌がっておった。私も、嫌だった」
「では、なぜ書かれましたか」
劉備は、答えた。
「お前が、読むからだ」
◆
「これも、後の人に読まれるな」
「はい」
「恥ずかしいな」
「はい。……そして、いちばん役に立ちます」
皇帝が、歩けなくなったと書いた紙である。これを読む人は、いつか同じ状態になる。そのとき、この紙があれば、書き方が分かる。
終章 一文字
劉備は、木簡をもう一つ出した。
「これは、週報ではない」
表題に、こうあった。
《四十年で、私が失った者》
「雲長と翼徳が、送ってきた」
二月前、息子が二人に頼んだものである。二人は書き上げ、成都から白帝城へ、息子を通さずに送っていた。
「何人でしたか」
「三千八百四十二人だ」
四十年で、三千八百四十二。一年あたり、九十六人。
「覚えておいでですか」
「覚えておらぬ。……そして、覚えておらぬ者の名が、書いてある。四十年で、初めて読んだ」
◆
息子は、そこで初めて、この人が泣くのを見た。
声は、出さなかった。竹簡の上に水が落ち、字が滲んだ。袖で拭こうとして、やめた。
「阿斗。お前が、正しい」
「——」
「四十年、私は名を書かなんだ。……そして、書かねば、消える」
息子は、答えた。
「陛下。私は、母上の名を書きました。十四年前です」
二歳のときである。母が死んだ年、諸葛亮と二人で書いた、歪んだ一文字だった。
「見せてくれ」
差し出された木簡は、十四年持ち歩かれて、端が擦り切れていた。
劉備は、長いこと指でなぞった。
「……下手な字だ」
「二つでした」
「うむ。——そして、私は、六十三で書けなんだ」
「今から、書かれますか」
「……手が、動かぬ」
◆
息子は、筆を取った。父の手に握らせ、その上から、自分の手で包んだ。
十四年前、諸葛亮が、二歳の手にそうしたのと、同じである。
「陛下。動かします。陛下は、思い出してください」
一文字、書いた。甘、である。その隣に、もう一文字。名である。
四十年、名を書かなかった男の、最初で最後の一枚になった。
◆
死ぬ前の夜、劉備は息子を抱いた。
十六である。片腕では持ち上がらない。それでも、離さなかった。
「離さぬ」
そう言った。十五年前、長坂坡で投げたからである。
◆
夜明け前、劉備は目を開けた。
「阿斗」
「はい」
「生まれてきてくれて」
十六年前と、同じ言葉である。
数を忘れる男が、言葉は、一字も忘れていなかった。
「ありがとう」
◆
遺品に、竹簡が一本残った。書きかけである。
一行目——阿斗へ。
二行目——空白。
三行目——空白。
息子は、それを四十八年、そのままにした。
——終わっていないものは、捨てない。
二行目に何を書くつもりだったかは、誰も知らない。
ただ、息子には一つだけ、心当たりがあった。誰にも言わなかった心当たりである。
——あの人は、たぶん、二行目を数えようとしたのだ。
十六年ぶんの何かを、数えて、書こうとして、数えられなかった。
代わりに、あの人は最後の夜、名を呼んだ。
数は忘れる。名は、覚える。
——それで、足りていた。




