第89話 張飛、敵ではなく退路を壊す
【章武二年 秋|成都】
張飛は、追撃を受けていた。
そして、橋を壊した。
十五年前と、同じである。そして、壊した理由が、違った。
◆
火の後である。三十三所は、林を出た。そして、退却が始まった。
陸遜は、追った。馬良の報告である。
《八月九日より、退却》
《敵、追撃》
《馬鞍山にて、囲まれかける》
《張翼徳どの、殿を務む》
俺は、そこで、手が止まった。
殿である。いちばん後ろで、追手を止める役だ。そして、いちばん死ぬ。
十五年前、長坂坡で、この人が務めた役でもある。
報告は、続いていた。
《翼徳どの、長坂の橋を、思い出されたと申されました》
《そして、橋を壊されました》
俺は、そこで、十五年前を思い出した。
長坂坡である。俺は、一歳だった。そして、母の腕の中にいた。
あのとき、この人は橋の上に立った。そして、二十騎で、曹操軍を止めた。そして、橋を壊した。
俺は、報告の続きを読んだ。そして、そこに、こう書いてあった。
《ただし、壊されたのは、味方が渡り終えた後でございます》
《翼徳どのは、最後に渡られました》
俺は、そこで、二度読んだ。
最後に、渡った。
十五年前、この人は橋の上に残った。そして、一人で立った。今回は、全員を渡してから、最後に渡った。
同じ行為で、順番だけが違う。そして、その順番が、たぶん、十五年分である。
報告には、もう一行あった。
《渡る前に、数えられました》
《三千二百十一》
俺は、そこで、竹簡を落とした。
数えた。張飛が、である。
感情制御十一の男が、追撃されながら、三千二百十一まで数えた。
俺は、関羽のところへ走った。
「叔父上」
「殿下」
俺は、報告を渡した。関羽は、それを読んだ。そして、長いこと黙っていた。そして、こう言った。
「……あれは、数を覚えられませぬ」
「はい」
「三十年、覚えられませなんだ」
「はい」
「そして、三千まで数えた」
俺は、そこで、聞いた。
「叔父上」
「はい」
「なぜ、数えたのですか」
関羽は、答えた。
「殿下が、数えておられるからでございましょう」
俺は、そこで、何も言えなくなった。
十五年である。俺は、名前を書いてきた。九十二人分。そして、殴られた人を数えた。六十一人分。
そして、この人は、それを見ていた。
一度も、褒めなかった。「それは、よい仕事だ」とも、「無駄だ」とも言わなかった。
そして、たぶん、ずっと見ていた。
◆
詳しい報告が、二十日後に来た。そして、そこに、張飛の言葉が書いてあった。
馬良が、そのまま写している。この人は、写すときだけ、書式を変える。誰の言葉かを、絶対に混ぜない。
《「橋を壊す」》
《「だが、俺が渡ってからだ」》
《「十五年前、俺は先に壊した」》
《「そして、阿斗が来る前だった」》
俺は、そこで、動けなくなった。
十五年前である。趙雲は、俺を抱えて戻ってきた。そして、橋は、既に壊れていた。
川を、渡った。九月である。水が冷たかった。そして、あの人は、俺を高く上げて渡った。
俺は、それを覚えていない。一歳だからだ。
そして、この人は、覚えていた。
報告には、続きがあった。
《「子龍は、川を渡った」》
《「阿斗を、濡らさぬように」》
《「俺は、それを見ておった」》
《「そして、何も言わなんだ」》
十五年である。そして、この人は、十五年、それを言わなかった。
【愛情表現不能】という特性がある。十五年前、俺が初めてこの人を見たときからある。
そして、その特性の下で、この人は十五年、覚えていた。
俺は、そこで、一つ気付いた。
【愛情表現不能】というのは、感じないという意味ではない。感じたことを、外へ出す経路がない、という意味である。
そして、経路がない人は、代わりに何かをする。殴る。怒鳴る。酒を飲む。
そして今回は、数えた。
俺は、視界を確認した。
【張飛 字・益徳】
年齢 五十六
武力 99
感情制御 11 → 31
自己認識 17 → 44
固有特性
【愛情表現不能】
→ 効果に変化が生じました
新規特性
【数える猛将】
部下の数を、自ら数えます。
暗殺危険度 9% → 4%
四。十五年前と、同じ数字である。そして、あのときは、まだ誰も殴られていなかった。
同じ四である。そして、途中に、六十一人がいる。
◆
張飛が成都へ戻ったのは、十一月である。そして、この人は、袋を持っていた。
石の袋である。二年前、俺に一つ渡した、あの袋だった。
「阿斗」
「翼徳叔父上」
「これを、見ろ」
俺は、それを受け取った。重い。そして、思ったより、重かった。
「いくつですか」
張飛は、答えた。
「知らぬ」
「数えていないのですか」
「数えた」
「では」
張飛は、少し不機嫌そうに言った。
「途中で、分からなくなった」
俺は、そこで、笑ってしまった。
三千二百十一まで数えた人が、自分の石は数えられない。
「数えましょうか」
「よい」
「なぜですか」
張飛は、答えた。
「数えると、減った気になる」
そして、こう続けた。
「減っておらぬ」
俺は、そこで、聞くのをやめた。
この人は、殴りたくなった数を、二年、袋に入れ続けた。そして、殴っていない。
数は、減っていない。行為だけが、減った。
たぶん、それが、この人のできる限界である。そして、限界のところまで来た人に、それ以上を求めてはいけない。
「叔父上」
「うむ」
「その袋は、どうされますか」
張飛は、答えた。
「持っておく」
「はい」
「そして、いつか、范彊に見せる」
八年後である。そして、この人は、それを覚えている。
俺は、木簡を出した。
《殴られた者》
六十一人である。そして、この二年、一人も増えていない。
俺は、その隣に、新しい木簡を置いた。そして、表題を書いた。
《数えられた者》
一行目に、書いた。
《三千二百十一》
そして、その下に。
《翼徳叔父上が、数えた》
名前ではない。数である。
そして、この簿には、たぶん、一行しか載らない。それでも、作った。
◆
退却は、続いていた。そして、黄権の報告が来ない。
俺は、そこで、地図を見た。北である。江北。そして、退路が、呉に押さえられている。
俺は、視界を確認した。
【黄権 字・公衡】
現在地 江北
状況 退路遮断
固有特性
【退路を見る】
【二度は降らぬ】
備考
この人物の退路は、二本ありました。
二本。
三月前、俺は「二本作ってください」と言った。そして、この人は、その場で驚いた。
「二本作れと申されたのは、初めてでございます」
報告が来たのは、十月である。黄権の字だった。そして、こう書いてあった。
《殿下へ》
《一本目は、断たれました》
《二本目を、使いました》
《房陵へ、出ます》
俺は、そこで、地図を見た。
房陵。上庸の隣である。そして、そこには、孟達がいる。
俺は、そこで、木簡を出した。
《正しく呼ばれていない者》
一行目。孟達 字・子度。
二行目。諸葛喬 字・伯松。
そして、死亡年表を開いた。
二二八。四角。六年後である。
黄権の書状には、続きがあった。
《二本目の道は、孟子度どのの領内を通ります》
《殿下は、これをご存じでしたか》
俺は、そこで、正直に答えることにした。
知らなかった。俺は、「二本作れ」と言っただけである。そして、どこへ通すかは、この人が決めた。
そして、この人は、いちばん危ない人の領内を選んだ。離反危険度五十一パーセントの男である。
俺は、返書を書いた。
《公衡どのへ》
《存じませんでした》
《そして、なぜ、そちらを選ばれましたか》
返事は、十二月に来た。そして、二行だった。
《殿下》
《孟子度どのは、字を改められた方でございます》
《字を改めるほど、この国に残りたかった方でございましょう》
俺は、その二行を、長いこと見ていた。
外から見る人である。そして、この人は、七年前の避諱を、覚えていた。
劉封の諱を避けて、子敬から子度へ改めた。十数秒で終わった件である。
俺が、《正しく呼ばれていない者》に書いた人を。そして、この人はその簿を見ていない。
見ていないのに、同じ結論に着いた。
名前の扱いを見れば、その人が組織に何を求めているかが分かる。
十五年、俺はそれを簿でやってきた。そして、この人は、それを退路の設計でやった。
◆
黄権は、帰ってきた。十二月である。そして、兵、四千を連れていた。
痩せていた。そして、鎧が、泥だらけだった。
歴史では、この人は魏へ降った。そして、父は罰しなかった。「私が黄権に背いたのだ」と言って。
今回は、帰ってきた。罰する必要も、なかった。
俺は、そこで、一つだけ聞いた。
「公衡どの」
「殿下」
「一本目が断たれたのは、いつですか」
黄権は、答えた。
「九月三日でございます」
「二本目を使われたのは」
「同じ日でございます」
迷わなかった。そして、迷わなかったのは、先に用意してあったからである。
俺は、そこで、孟達へ書状を書いた。七年ぶりである。
《子度どのへ》
《公衡どのが、無事に帰られました》
《ありがとうございました》
そして、最後に、一行足した。
《字は、そのままでよろしいですか》
返事は、二月後に来た。そして、一行だった。
《殿下》
《まだ、決めておりませぬ》
俺は、その一行を見て、視界を確認した。
【孟達 字・子度】
帰属意識 14 → 21
離反危険度 51% → 39%
備考
この人物は、まだ決めていません。
まだ、決めていない。そして、六年ある。
俺は、その一行を、木簡に写した。
《まだ、決めておりませぬ》
七年、この人は何も言わなかった。そして、初めて返ってきたのが、この五文字である。
決めていない、というのは、離れていない、という意味でもある。
そして、決めさせる六年が、これから始まる。
〈あとがき〉
「壊されたのは、味方が渡り終えた後でございます。翼徳どのは、最後に渡られました」——十五年前と同じ行為で、順番だけが違います。その順番が、たぶん、十五年分です。
「三千二百十一」。数を覚えられなかった人が、追撃されながら数えました。「殿下が、数えておられるからでございましょう」。一度も褒めず、ずっと見ていました。
【愛情表現不能】は、感じないという意味ではありません。感じたことを外へ出す経路がない、という意味です。経路がない人は、代わりに何かをします。殴る、怒鳴る、酒を飲む——そして今回は、数えました。
黄権の二本目の道が、孟達の領内を通ります。「字を改めるほど、この国に残りたかった方でございましょう」——名前の扱いを見れば、その人が組織に何を求めているかが分かります。
次回、第90話「制度的介入余地——空白」。




