第8話 曹操は悪役ではなく、完成された組織だった
劉備軍は、夏口へ逃れた。
長坂坡で壊滅的な損害を受けたが、完全に消滅したわけではない。
劉備という男の、不思議なところである。
◆
敗北しても、人が残る。領土を失っても、誰かが助ける。
普通の組織なら、とっくに倒産している。
だが、劉備軍は倒産しない。
債権者まで社員になってしまうような会社である。
夏口では、劉表の長男・劉琦の軍と合流した。少しずつ兵が集まり始める。
それでも、曹操との差は圧倒的だった。
◆
ある日、俺は劉備の軍議へ連れていかれた。
正確には、甘夫人が俺を劉備へ預け、劉備が面倒を見る場所に困って軍議へ連れてきたのである。
国家の最高意思決定会議に一歳児を参加させるな。
しかし、俺にとっては好都合だった。
軍議には劉備、関羽、張飛、趙雲、糜竺、孫乾らが集まっていた。趙雲はまだ包帯を巻いている。休養七日の交渉が、五日目で決壊した結果である。
俺が劉備の膝に座ると、趙雲が不安そうにこちらを見た。
俺も不安である。
この膝からは、一度投げられている。
俺は劉備の腕を両手で掴み、安全を確保した。
◆
「曹操軍は、八十万を称しております」
孫乾が言った。
張飛が鼻を鳴らす。
「八十万だろうが百万だろうが、俺が一喝すれば逃げる!」
逃げない。
味方のほうが逃げる可能性が高い。
関羽が髭を撫でた。
「北方の兵は水戦に慣れておらぬ。数が多いだけでは勝てぬ」
——それは、正しい。
だが、曹操の強さは兵数だけではない。
糜竺が竹簡を広げた。
「曹操軍は各地から兵糧を集め、荊州の倉庫も既に接収しております」
「早いな」
劉備が低く言った。
「劉琮が降伏する前から、準備していたのだろう」
その一言に、俺は反応した。
——父は、曹操を嫌っている。
だが、能力を侮ってはいない。
◆
俺が竹簡を見つめると、視界に新しい表示が現れた。
人物ではない。
組織全体の評価画面だった。
【曹操軍】
兵力規模 S
人材層 S+
兵站能力 S
命令伝達 A+
人事制度 S
情報収集 S
水上戦適応 C
疫病耐性 D
組織特性
【唯才是挙】
身分や過去にかかわらず、有能な人物を登用する。
【屯田制】
軍事と食料生産を統合し、長期戦能力を高める。
【法令統制】
命令違反への処罰が明確である。
【急拡大の歪み】
短期間に吸収した兵力と地域の統合が不十分。
総合評価 S
——強い。
ただ兵数が多いのではない。
採用。兵站。制度。情報。
すべてが整っている。
一方、劉備軍の評価はこうだった。
兵力規模 D/人材層 S/兵站能力 E/命令伝達 C
人事制度 D/情報収集 B/組織結束 S+
総合評価 B-
人材層だけなら、負けていない。
むしろ関羽、張飛、趙雲という個々の能力は異常に高い。
それでも、組織としては遠く及ばない。
スター社員だけを集めても、大企業には勝てない。
前世で、俺は何度もそれを見た。天才が三人いる会社より、凡人が百人いて仕組みがある会社のほうが強い。
——曹操は敵である。
物語では悪役として描かれることが多い。
だが、組織を作る能力は本物だ。
蜀を救うには、曹操を憎むだけでは足りない。
学ばなければならない。
◆
「阿斗」
劉備が俺を見た。
「曹操が怖いか?」
俺は首を横に振った。
「つよい」
室内が静かになった。
張飛が眉を上げる。
「曹操が強いと言うのか」
「う」
「父上よりもか?」
比較を求めるな。
親子関係に重大な影響が出る。
俺は少し考え、首を横に振った。
そして、関羽、張飛、趙雲を順に指差した。
「つよい」
次に、竹簡を指差す。
「くに」
うまく説明できない。
言いたいのはこうだ。
——劉備軍は「人」が強い。曹操軍は「国」が強い。
沈黙が落ちた。
やがて、関羽が口を開いた。
「……我らの将は曹操に劣らぬが、国そのものの力が違うと。若君はそう申されたいのか」
「う」
俺は激しく頷いた。
——組織適応十二でも、理解は早い。
この人は、頭が悪いのではない。協調しないだけだ。それはむしろ、後で厄介になる。
張飛が不満そうに腕を組む。
「ならば、曹操の国ごと打ち破ればよい」
どうして常に物理的解決なのだ。
糜竺が笑いながら言った。
「若君は、よく見ておられます」
劉備は俺の頭を撫でた。
「では、阿斗。我らはどうすれば勝てる?」
一歳児に国家戦略を聞くな。
だが、俺は答えを持っていた。
「なかま」
劉備の表情が変わる。
「……孫権か」
俺は頷いた。
曹操に対抗するには、呉と組むしかない。赤壁の同盟である。
その場にいた者たちが、顔を見合わせた。
既に交渉案は出ていたのだろう。
だが、俺の一語が、結論を後押しした。
劉備は孫乾へ命じた。
「江東との連絡を急げ」
「はっ」
◆
軍議が動き始める。
俺は少し誇らしい気持ちになった。
自分の言葉で、意思決定が変わった。
だが直後、視界に警告が表示された。
【注意】
主人公の発言により、意思決定の速度が変化しました。
副作用の可能性
劉禅の発言への過度な依存
「神童」認知の固定化
将来的な政治利用の危険
——しまった。
俺は椅子から落ちそうになった。正確には劉備の膝からである。
前世で、俺は何度もこの失敗を見た。
再建案件で、コンサルタントの言葉が「正解」として扱われ始めると、社内から意見が出なくなる。全員が外部の判断を待つようになる。そして俺たちが去ったあと、その会社は自分で何も決められなくなっている。
俺がやろうとしているのは、その逆だ。
俺がいなくても回る国を作る。
それなのに、俺自身が「阿斗さまが言ったから」という空気を作り始めている。
——まだ一歳なのに。
俺は劉備の袖を引いた。
「とと」
「どうした」
俺は関羽を指差した。それから張飛を、趙雲を、糜竺を、孫乾を、順に指差した。
最後に、自分の口を押さえた。
劉備が首を傾げる。
「……口を閉じる、ということか?」
「う」
「阿斗が黙る?」
「う」
趙雲が、静かに言った。
「主公。若君は、ご自分の一言で軍議が決まってしまうことを、危ぶんでおられるのではありませんか」
室内が、しんとした。
劉備が俺を見た。
「……そこまで考えておるのか」
考えている。
一歳児だからといって、内心まで一歳ではない。
関羽が、ふ、と息を吐いた。
「面白いことを申される」
そして、初めて俺に向かって、まともに口をきいた。
「若君。ご懸念はもっともだが、我らは幼子の言に従っているのではない。言われて初めて気付いたことに、従っているのだ」
——そうか。
そういう言い方があるのか。
俺は関羽を見上げた。
この人は、面倒くさい。自尊心が高い。会議に出ない。報告書を書かない。
だが、間違いなく、賢い。
◆
その夜、俺は木簡へ一行、書き足した。
《俺がいなくても決まる会議を作る》
そして、その下に。
《まず、俺が黙る》
視界に表示が出た。
【長期課題を設定しました】
課題名 主人公依存の回避
現在の依存度 11%
危険水準 60%
備考
この数値は、あなたが有能であるほど上昇します。
——有能であるほど、上昇する。
なんて嫌な指標だ。
俺はこの数字を、この先五十五年間、見続けることになる。
そして三十年後、それが六十を超える日が来ることを、このときの俺はまだ知らない。
次回 第9話「阿斗、最初の経営改善を行う」
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