第9話 阿斗、最初の経営改善を行う
諸葛亮と会う前に、問題が起きた。
食料が消えたのである。
正確には、帳簿の上には存在するはずの米が、倉庫になかった。
◆
夏口へ逃れた劉備軍には、兵だけでなく、多数の民衆が同行している。
食料は常に不足していた。
それでも糜竺の報告では、あと二十日は持つはずだった。
ところが、実際に倉庫を検分すると、十日分もない。
軍議は騒然となった。
「誰かが盗んだに違いない!」
張飛が机を叩いた。
机が割れた。
食料問題に、家具の損失を追加するな。
「倉庫番を全員捕らえよ!」
「お待ちください、翼徳どの」
糜竺が止める。
「帳簿の計算違いかもしれません」
「ならば帳簿を作った者を捕らえよ!」
捕らえる選択肢しかないのか。
◆
俺は甘夫人とともに、部屋の隅にいた。
当初、俺は諸葛亮との対面を楽しみにしていた。
しかし、食料が尽きれば面接どころではない。
兵は逃げる。民は飢える。疫病も起きる。
——前世でも、同じ光景を見た。
再建案件で最初に見るのは、損益計算書ではない。在庫である。
帳簿の在庫と、倉庫の実物が合わない会社は、必ず何か壊れている。盗みとは限らない。むしろ、盗みであることは稀だ。
たいていは、誰も悪くないのに数字が合わない。
俺は積まれた竹簡を見つめた。
竹簡へ近づこうとすると、甘夫人が抱き上げた。
「阿斗。大人のお仕事ですよ」
俺も関係者である。
将来のCEOである。
「ちょ」
「まあ。帳簿がお好きなのですね」
好きではない。
必要だから見るのだ。
俺が暴れると、劉備が気付いた。
「阿斗も、何か言いたいのか」
「みる」
劉備は笑った。
「よい。神童の知恵を借りよう」
張飛が反対した。
「兄者。一歳の子供に何が分かる」
「お前より机を壊さぬだけ有益かもしれぬ」
関羽が、静かに言った。
張飛が関羽を睨む。
「雲長。今のはどういう意味だ」
「言葉どおりだ」
兄弟喧嘩を始めるな。
◆
俺は劉備の前へ運ばれた。
竹簡が広げられる。
文字は、前世で知っていた漢字とは少し形が違う。それでも、大意は読めた。
入庫量。出庫量。残量。兵への配給。民への配給。馬の飼料。
数字を追う。
——すぐに、違和感があった。
単位が、揃っていない。
ある竹簡では「石」。別の竹簡では「斛」。
さらに、地方によって一斛の容量が違う。
加えて、倉庫へ入れた時点では籾の重量で記録し、配給時は精米後の量で記録している。
そして、雨による腐敗と鼠害が、まったく帳簿へ反映されていない。
——不正ではない。
複数の原因が重なった、管理上の失敗である。
前世で言えば、単位の不統一、計上基準の不一致、損耗の未計上。
新人監査人が最初に習う三点セットである。
◆
俺は二つの竹簡を指差した。
「ちが」
糜竺が覗き込む。
「何が違うのでしょう」
俺は、同じ数字を指した。それから、部屋の隅に置かれた升を指差した。
大きい升と、小さい升が並んでいる。
「これ」
糜竺の表情が変わった。
「……まさか」
彼は竹簡を並べ替えた。
「こちらは荊州の斛。こちらは江夏の斛で記録されている」
別の官吏が声を上げた。
「江夏の斛は、荊州のものより小さい!」
「同じ一斛として、合計したのか」
部屋が静まり返った。
原因の一つが、判明した。
俺は別の竹簡を叩いた。
「ねずみ」
倉庫番の顔が、みるみる青ざめた。
「若君は、なぜそれを」
——倉庫の隅に、鼠の糞が落ちていた。
俺はそれを指差した。
糜竺が倉庫番を睨む。
「損耗を報告しなかったのか」
「処罰を、恐れまして……」
◆
張飛が怒鳴った。
「報告しなかったなら処罰する!」
——だから報告しなくなるのだ。
悪い情報を伝えると処罰される組織では、悪い情報が消える。
問題が消えるのではない。報告だけが消える。
前世で、俺はこれを何十回も見た。事故報告がゼロの工場は、安全な工場ではない。報告していない工場である。
俺は張飛を指差した。
「こわい」
部屋の何人かが、下を向いて笑いを堪えた。
張飛の顔が赤くなる。
「俺が怖いから報告しなかったと言うのか!」
倉庫番は答えられない。
それが答えである。
関羽が腕を組んだ。
「ならば、報告した者を罰せぬと決めればよい」
俺は関羽を見た。
——また、この人だ。
組織適応十二でも、理解は誰よりも早い。
劉備が頷く。
「損耗や失敗を隠さず報告した者は、その報告自体を罪とはしない」
糜竺が補足した。
「ただし、盗みや故意の虚偽は別といたします」
「当然だ」
劉備が命じた。
「今後、倉庫の容量単位を統一せよ。入庫時と配給時の状態も分けて記録する。腐敗、鼠害、輸送中の損失も、すべて記載せよ」
【小規模制度改革が成立しました】
穀物計量単位の統一
損耗報告制度
報告者保護
兵站能力 E → E+
国家再建貢献度 0.1%
——わずか、〇・一。
だが、初めての改革である。
戦争に勝ったわけではない。敵将を倒したわけでもない。
帳簿の単位を揃えただけだ。
しかし、国家はこういう小さな改善の積み重ねで強くなる。
◆
劉備が俺を抱き上げた。
今度は投げないよう、甘夫人が厳しく見張っている。
「阿斗は、帳簿が読めるのか」
——まずい質問である。
「ねずみ」
俺は答えた。
「鼠を見ただけか」
「う」
劉備は、完全には信じていない顔だった。
それでも、追及はしなかった。
「子供は、大人が見落とすものを見るのかもしれぬな」
糜竺が俺へ深く頭を下げた。
「若君のおかげで、多くの者が飢えずに済みます」
——違う。
俺一人の功績ではない。
問題を認めた倉庫番。数字を確認した糜竺。制度にした劉備。
皆の仕事である。
俺は倉庫番を指差した。
倉庫番が怯えた。
「わ、私が何か」
「いい」
張飛が目を丸くした。
「損失を隠した者が、よいのか」
「いった」
——最後には、報告した。
処罰を恐れて黙っていたが、理由を尋ねられると正直に答えた。
ここで処刑すれば、次から誰も口を開かない。
◆
劉備は、しばらく考えた。
「倉庫番。お前には処分を与える」
男が頭を下げる。
「ただし、死罪ではない。今後は損耗の確認役となれ。鼠一匹、腐った米一粒まで記録せよ」
男が顔を上げた。
「……私を、引き続き使ってくださるのですか」
「失敗を知る者だからこそ、次は防げる」
劉備の能力値が、また揺れた。
人材育成 未評価 → 72
——父は無計画である。
財務管理も低い。約束も守らない。息子も投げる。
だが、人の失敗を、次の役割へ変える力がある。
俺は、この人を少しだけ見直した。
◆
そのとき、入口から穏やかな声がした。
「見事な、ご判断です」
全員が振り向いた。
背の高い若者が立っていた。
年齢は二十代後半。簡素な衣。手には羽扇。
派手さはない。
だが、室内の状況を一目見ただけで、何が起きていたかをすべて理解したような目をしていた。
劉備が立ち上がる。
「孔明。来たか」
——俺の心臓が、跳ねた。
諸葛亮孔明。
ついに来た。
若い。俺が知る肖像画より、ずっと若い。
五丈原で死ぬまで、あと二十六年。
俺が見つめると、視界が白く光った。
数字が次々に現れる。
【諸葛亮 字・孔明】
解析中……
表示が、止まらない。
項目が多すぎる。
そして最後に、赤い文字が浮かんだ。
重大組織リスクを検出しました。
俺は、思わず叫んだ。
「だめ!」
室内が、静まり返った。
諸葛亮が、羽扇を止めた。
「……ただいま、若君は何と?」
張飛が、親切にも通訳した。
「兄者。阿斗が『だめ』と申しておる」
「何がだ」
張飛は、まっすぐ諸葛亮を指差した。
「孔明がだ」
——しまった。
最重要人材との初対面で、採用拒否を宣言してしまった。
次回 第10話「伏龍面接」
次回 第10話「伏龍面接」




