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転生したら劉禅だったので、諸葛亮に有給休暇を取らせます~MBAホルダーの阿斗、関羽の孤立・張飛のパワハラ・孔明の過労死を組織改革で止める~  作者: 東雲 諒杏
第五部 父と子——復讐という名の事業

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第87話 森の中へ、陣を置いてはいけません


【章武二年 七月|成都(東征の報)】


俺は、その報告を、三度読んだ。


そして、三度目に、手が震えた。


陣が、森の中にあった。


    ◆


章武(しょうぶ)二年の七月。馬良(ばりょう)の報告が届いた。三十三日かかっている。そして、書かれたのは、六月末である。


《軍、猇亭(こうてい)に至る》


《敵、夷道(いどう)に籠り、動かず》


《七十日、対峙》


《夏でございます》


《平地は、暑うございます》


《ゆえに、陣を、林へ移しました》


俺は、そこで、竹簡を落とした。床に当たって、二つに割れた。継ぎ目が緩んでいたらしい。


林へ、移した。


前世で、俺はこの戦を、教科書で読んだ。そして、覚えていたのは、二行だけである。


《劉備、七百里に陣を連ね、林に営す》


《陸遜、火を放つ》


二行である。高校の世界史の、地図の脇の小さな囲みだった。試験には出なかった。


そして、その二行の中に、三万人が入っている。


俺は、龐統(ほうとう)のところへ走った。


「士元どの」


「殿下」


俺は、竹簡を置いた。そして、指が震えているのを、隠せなかった。


龐統は、それを読んだ。そして、酒杯を置いた。八度目である。


そして、この人は、初めて、立ち上がった。


十七年、俺はこの人が評定で立つのを見たことがない。いつも、座って、飲んで、地図を叩いていた。


「殿下」


「はい」


「これは、いけませぬ」


「はい」


「七月でございます」


「はい」


「そして、林でございます」


俺は、答えた。


「火です」


龐統は、俺を見た。そして、こう言った。


「……よくお分かりで」


俺は、そこで、答えられなかった。


教科書で読んだ、とは言えない。そして、この人は、それ以上聞かなかった。


十七年、この人は俺に「なぜ知っているか」を、一度も聞かない。矢の規格のときも。都江堰のときも。落鳳坡の兜のときも。


そして、たぶん、気付いている。気付いていて、聞かない。


それが、この人の礼儀なのだろう。


「士元どの」


「はい」


「陸遜は、火を使いますか」


龐統は、地図を見た。そして、こう答えた。


「私なら、使います」


「なぜですか」


「安いからでございます」


俺は、そこで、顔を上げた。


「……安い」


「はい」


龐統は、地図の上を指でなぞった。


「七十日、対峙しております。攻めれば、こちらも死にます」


「はい」


「そして、火は、兵が死にませぬ」


「……」


「風を待てばよろしい」


費用の話である。この人は、いつもそうだ。


十七年前、矢の規格を統一しろと言ったときも、「安い」と言った。そして、いま、敵の立場で同じ計算をしている。


俺は、視界を確認した。


【陸遜 字・伯言】


固有特性

 【夷陵の炎】

  森林・風・補給線を利用した火攻めに、極めて高い適性を持つ


現在の状態

 【待機】


備考

 条件が、揃いつつあります。


揃いつつある。そして、揃えたのは、こちらである。


森。夏。長い対峙。伸びた補給線。そして、勝っていると思っている兵。


五つのうち、四つを、こちらが作った。


残る一つは、風である。


    ◆


俺は、書状を三通、同時に書いた。法正(ほうせい)へ。張飛(ちょうひ)へ。そして、馬良へ。同じ内容である。三年前、湘関(しょうかん)でやった手だ。


《林から、出てください》


《七月です》


《風が、東から吹きます》


《陸遜は、火を使います》


そして、最後に、一行足した。


《これは、終了条件の二です》


《二 取れぬと判明する》


夷道は、落ちていない。七十日、動いていない。


「取れない」は、既に証明されている。そして、誰も、それを条件だと読んでいない。


条件というのは、書いた時点では明らかである。そして、現場では、必ず「まだ違う」と読まれる。


七十日は「まだ」なのか、「もう」なのか。その判断が、条文には書けない。


俺は、江州(こうしゅう)趙雲(ちょううん)へも書いた。


《子龍へ》


《条件二が、成立しています》


《撤退命令を、出してください》


そして、その下に、こう書いた。


《陛下の名で、出してください》


《責めは、私が負います》


二月前、俺はこの人に皇帝の名を預けた。そして、この人は「責めは、命じた者と、行った者の、両方が負います」と返してきた。


今日、使わせる日が来た。


十五年、この人は自己主張二十一のままである。そして、命じられれば、必ずやる。だから、命じた。


命じる、というのは、この人に対しては、いちばん重い信頼の形である。


    ◆


俺は、そこで、もう一つやった。蔣琬(しょうえん)に、過去の火攻めを全部調べさせた。


「公琰どの」


「殿下」


「火で負けた戦を、集めてください」


「いつからでございましょう」


俺は、答えた。


「書いてあるもの、全部です」


蔣琬は、六日かかった。そして、竹簡を九本、持ってきた。


「九件でございます」


「多いですね」


「そして、九件とも、同じでございます」


俺は、そこで、顔を上げた。


「……同じ、とは」


蔣琬は、竹簡を並べた。


「九件とも、負けた側が、先に有利でございました」


俺は、その一行を、二度読んだ。


火で負けるのは、押している側である。


押しているから、前へ出る。前へ出るから、線が伸びる。線が伸びるから、まとめて置く。


そして、まとめて置いたものは、まとめて燃える。


「公琰どの」


「はい」


「これを、写して送ってください」


「どちらへ」


俺は、答えた。


「前線です」


「……九本、でございますか」


「一本にしてください」


俺は、続けた。


「そして、九件の名前だけ書いてください」


赤壁(せきへき)官渡(かんと)の烏巣。博望坡(はくぼうは)。そして、六つ。


理屈は、書かない。名前だけ並べれば、読んだ人が自分で気づく。


    ◆


次に、俺は父のところへ行った。深夜である。


明かりが、点いていた。皇帝も、寝ていない。


机の上に、地図が広げてある。木札が、置いてある。三年前、俺が江陵で使った様式である。


赤。青。白。黒。緑。


そして、置き方が、少し違った。赤い木札が、青の後ろに回してある。


「陛下」


「阿斗」


俺は、竹簡を置いた。そして、こう言った。


「陣が、林の中にあります」


父は、それを読んだ。そして、こう言った。


「……夏だからな」


「はい」


「暑い」


「はい」


父は、木札を一つ、動かした。


「私も、そうした」


俺は、そこで、顔を上げた。


「……陛下も、ですか」


「うむ」


新野(しんや)でも、汝南(じょなん)でも、夏は林に営した」


「はい」


「そして、焼かれなんだ」


俺は、そこで、この人の四十年を、また一つ理解した。


四十年、負けてきた。そして、四十年、生き延びてきた。


生き延びた人には、生き延びた経験しか残らない。焼かれなかった記憶が、焼かれない根拠になっている。


そして、それを、統計とは呼ばない。四十年分の、一件だけの標本である。


「陛下」


「うむ」


「新野に、陸遜(りくそん)はいましたか」


父は、答えなかった。長い沈黙があった。そして、こう言った。


「……おらぬ」


「はい」


「そして、赤壁には、周瑜(しゅうゆ)がおった」


俺は、そこで、息を呑んだ。


十四年前である。曹操(そうそう)は、船を鎖でつないだ。そして、焼かれた。そして、そのとき、父は勝った側にいた。


「陛下」


「うむ」


「赤壁で、なぜ曹操は焼かれましたか」


父は、しばらく黙っていた。そして、こう答えた。


「……船を、つないだからだ」


「はい」


「なぜ、つないだのですか」


「北の兵が、船に酔ったからだ」


俺は、そこで、言った。


「陛下」


「うむ」


「兵が、暑いからです」


父の顔が、変わった。


同じである。兵が酔うから、船をつないだ。兵が暑いから、林へ入った。


どちらも、兵のためである。そして、どちらも、正しい理由から始まっている。


十五年、俺はこの国で、それを何度も見た。犍為郡の課目も、正しかった。関羽の樊城も、正しかった。張飛の三日も、正しかった。


いちばん危ない決定は、いつも、優しさから始まる。


そして、優しさから始まった決定は、誰も反対できない。反対すれば、兵を思っていないことになるからだ。


    ◆


父は、しばらく動かなかった。木札を、三つ動かした。そして、こう言った。


「……阿斗」


「はい」


「私は、行かねばならぬ」


俺は、そこで、止めなかった。


止められない。そして、止めれば、この人はもっと悪い形で動く。黙って出る。あるいは、書かずに出る。


代わりに、こう聞いた。


「陛下」


「うむ」


「何をしに、行かれますか」


父は、答えた。


「兵を、林から出す」


「はい」


「それだけだ」


俺は、その言葉を、竹簡に書いた。そして、日付を入れた。


二月前と、同じことをした。そして、この人は、それを見て、少し笑った。


「阿斗」


「はい」


「お前は、いつも書くな」


「はい」


「そして、私は、書かれると弱い」


「——」


「だから、書け」


俺は、条件を三つ付けた。


一 三万を、増やさない。


二 林から出すことだけを行い、夷道を攻めない。


三 趙雲の撤退命令を、皇帝の命令として認める。


そして、三つ目で、父は止まった。


「子龍が、私に命じるのか」


「はい」


「皇帝に、である」


「はい」


俺は、答えた。


「陛下が、そう決めてください」


長い沈黙があった。そして、父は署名した。


約束管理、二十二である。そして、二十四になった年から、三年が経つ。


俺は、視界を確認した。


【劉備 字・玄徳】


約束管理 24 → 26


二。三年で、二である。


そして、この二は、自分に命じる人を自分で決めたことで、上がった。


命じられるのではない。命じる人を、自分で任命する。


十五年で、この人が身につけた、たった一つの技術だった。


    ◆


父は、七月十日に、成都を出た。護衛、二千。


そして、出る朝、俺に一つだけ聞いた。


「阿斗」


「はい」


「お前は、来ぬのか」


俺は、答えた。


「行きません」


「なぜだ」


「陛下が、行かれるからです」


父は、少し黙った。そして、頷いた。


「……そうだな」


「はい」


「二人とも出れば、国がなくなる」


この人は、分かっている。そして、分かっていて、行く。


俺は、成都に残った。そして、その日から、数え始めた。父が留守にした日数である。


黄夫人(こうふじん)に、習った。三年前、荊州へ行くときに、この人がやってくれた。


《いない間のことを、誰かが覚えていると、人は帰ってきます》


俺は、木簡(もくかん)を一枚おろした。そして、表題を書いた。


《陛下の、留守》


一日目。そう書いた。


    ◆


その夜、諸葛亮(しょかつりょう)が来た。四十二である。十二項を、一人で見ている。そして、この人は、地図を持ってきた。


「殿下」


「先生」


「陛下は、間に合われますか」


俺は、答えられなかった。


成都から、猇亭まで。千七百里である。早馬で、二十五日。護衛を連れて、四十日。


そして、書状は、三十三日で届いた。書かれたのは、六月末である。そして、今は、七月十日だ。


「先生」


「はい」


「私が読んだのは、四十日前の陣です」


「はい」


「そして、陛下が着くのは、四十日後です」


「——」


「あわせて、八十日です」


諸葛亮は、羽扇(うせん)を止めた。そして、地図の上に、指を置いた。


「殿下」


「はい」


「八十日、火は待ちませぬ」


俺は、その夜、眠らなかった。


十五年、俺は距離と戦ってきた。制度を作った。条件を書いた。複数経路で送った。江州に中継を置いた。八十日を、三十日にした。


そして、火は、書状より速い。


俺は、机の上に、二つの木簡を並べた。


一つは、《陛下の、留守》。一日目である。


もう一つは、死亡年表である。


二二三——劉備(りゅうび)。丸。


来年である。そして、今年ではない。


俺は、その一行を、長いこと見ていた。


今年ではない、ということだけが、この夜、俺の持っている唯一の情報だった。



〈あとがき〉


「陣を、林へ移しました」——教科書で二行だけ覚えていた場面が、報告書として届きます。試験には出ませんでした。そして、その二行の中に、三万人が入っています。


「私も、そうした」「そして、焼かれなんだ」。四十年生き延びた人には、生き延びた経験しか残っていません。四十年分の、一件だけの標本です。


「兵が酔うから、船をつないだ。兵が暑いから、林へ入った」——いちばん危ない決定は、いつも、優しさから始まります。そして、反対すれば、兵を思っていないことになります。


そして「八十日、火は待ちませぬ」。


《劉禅文庫 再読『ウォール街のランダム・ウォーカー』——生き延びた人には、生き延びた経験しか残らない。四十年で、標本は一件である》


次回、皇帝の四十一日目。


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