第86話 一つの砦で、目的が変わる
【章武二年 六月|成都(東征の報)】
事の起こりは、小さな砦だった。
名前も、地図に載っていない。
そして、そこで、この戦の目的が変わった。
◆
章武二年の六月。軍は、夷道の手前まで進んでいた。
そして、馬良の報告が届いた。三十五日かかっている。
《六月三日》
《無名の砦、一つ》
《守兵、二百》
《呉軍、これを捨てず》
《初めて、戦になりました》
俺は、その一行を、二度読んだ。
五百里、退いた軍が、初めて留まった。そして、留まったのが、名前のない砦である。
報告は、続いていた。
《三日、攻めました》
《落ちませぬ》
《味方、二百十四名戦死》
《そして、六日目に、落ちました》
俺は、そこで、龐統を呼んだ。
「士元どの」
「殿下」
「なぜ、この砦だけ、守ったのですか」
龐統は、地図を見た。そして、しばらく黙っていた。指で、その辺りをなぞった。地図には、川と、山と、道しか描いていない。砦の印は、ない。
「……分かりませぬ」
「価値が、ありますか」
「ございませぬ」
「では、なぜ」
龐統は、答えた。
「価値がないからでございましょう」
俺は、そこで、手が止まった。
「……どういう意味ですか」
龐統は、こう言った。
「五百里、退きました」
「はい」
「一度も、戦わずに」
「はい」
「そして、味方は、勝っていると思っております」
「はい」
「そこへ、初めて、抵抗が出ました」
「はい」
「二百の兵で、三日耐えました」
「はい」
「味方は、二百十四人、死にました」
龐統は、そこで、初めて俺を見た。
「殿下」
「はい」
「兵は、これを何と呼びますか」
俺は、そこで、答えた。
「……仇です」
龐統は、頷いた。そして、こう言った。
「二百十四人分の、理由ができました」
十六年前、俺は父が趙雲へ礼を払った日に、二つの帳簿の話を思い出した。金で動く帳簿と、情で動く帳簿。混ぜてはいけない、という話だった。
同じ本に、もう一つ書いてあった。俺が前世で、いちばん多く見た型である。
既に払ってしまったものは、これから決めることの理由にしてはいけない。
払った金は、戻らない。戻らないものは、続けても、やめても、同じだけ失われている。だから、判断に入れてはいけない。
理屈は、簡単である。そして、守れた人を、俺は一人も見たことがない。
払ったものが大きいほど、人は続ける。三年やった事業は、三年やったという理由で続く。十年やった事業は、十年やったという理由で続く。
そして今日、払われたのは、金ではない。
二百十四人である。
金なら、まだ、忘れられる。人は、忘れられない。忘れられないものを、理由にしてはいけない、と言える人間が、この世にいるだろうか。
俺は、それを言おうとしている。
◆
俺は、そこで、地図を見た。
名前のない砦である。そして、そこで二百十四人が死んだ。
ここまで、味方は一人も死んでいなかった。二十日で二城。無血。
そして、初めて死んだ場所が、価値のない砦だった。だから、忘れられない。
価値のある城で死ねば、「その城のために死んだ」と言える。価値のない砦で死ねば、言うことがない。
そして、言うことがない死は、後から意味を付けられる。たいてい、いちばん近いところにある意味が付く。
「殺された」である。
俺は、視界を確認した。
【東征軍】
士気 91
撤退意思 4
継続意思 97
主要動機
開戦時 江陵の奪回
現在 戦死者への報い
備考
目的が、変化しました。
備考である。
十五年、俺はこの視界を見てきた。危険度が上がった。数字が変わった。特性が生えた。
そして、「目的が変化しました」という表示は、初めてだった。
俺は、そこで、二年前を思い出した。
犍為郡である。輸送の課目が、目的になった。そして、諸葛亮はこう言った。
「いつの間にか、課目のほうが、目的になっておりました」
「そして、目的が、目的を殺しました」
今回は、逆である。課目が目的を食ったのではない。目的が、途中で入れ替わった。
そして、入れ替わったことに、誰も気付いていない。
前線で戦っている人は、自分が何のために戦っているかを、毎日考えない。考えるのは、隣で死んだ人のことである。
◆
法正からの書状が、十日後に届いた。そして、字が乱れていた。咳の点が、多い。
《殿下へ》
《砦を、落としました》
《二百十四人、死にました》
《そして、私は、退けと申せなくなりました》
《二百十四人の名を、関雲長どのが書くと聞いております》
《その名簿に、「無駄死に」と書けませぬ》
俺は、そこで、自分がやったことの結果を見た。
出征前、俺は関羽に名簿を書かせることにした。
《帰らなかった者の名も、書きます》
そして、それが、いま、退却の重しになっている。
名前を書くというのは、その死に意味を要求することでもある。
十五年、俺はそれを、いいことだと思っていた。名前が残れば、忘れられない。忘れられなければ、次に同じことをしない。
そして、忘れられない死は、次を止めるためにも使えるし、次を始めるためにも使える。
同じ簿が、二つの目的に使える。十四年前、龐統はそれを「良い制度」と呼んだ。
◆
俺は、関羽のところへ行った。この人は、書いていた。竹簡が、机に積んである。
「叔父上」
「殿下」
「二百十四人分、届きましたか」
「はい」
「——」
「昨日、書き終えました」
俺は、その竹簡を見た。名前が、並んでいる。姓名。出身。年。そして、死んだ場所。
全員、同じ場所である。
《無名の砦》
俺は、その四文字が、二百十四回繰り返されているのを見た。
同じ字を、二百十四回書いた人がいる。
「叔父上」
「はい」
「何日かかりましたか」
関羽は、答えた。
「四日でございます」
「一日、五十人ほどですね」
「はい」
「速いです」
関羽は、少し黙った。そして、こう言った。
「……速くはございませぬ」
「え」
「一人、書くたびに、手が止まりますゆえ」
俺は、そこで、聞いた。
「なぜ、止まるのですか」
関羽は、答えた。
「出身が、書いてございます」
「はい」
「梓潼。巴西。犍為」
この人は、竹簡を指でなぞった。
「そして、涿郡が、三人おります」
俺は、そこで、動きを止めた。
涿郡。三十六年前、父と関羽と張飛が義勇兵を集めた土地である。
「三十六年前の者ではございませぬ」
関羽は、続けた。
「その、子か、孫でございましょう」
「……はい」
「私は、その者らの父の名を、知りませぬ」
この人は、筆を置いた。
「そして、いま、子の名を書いております」
◆
張飛からも、書状が来た。珍しい。この人は、書状を書かない。
そして、字が大きく、竹簡が二本になっていた。
《阿斗》
《陛下でございます、と董允に言われるのだろうな》
《まだ皇太子だ。よかろう》
俺は、そこで、少し笑った。そして、次の行を読んで、笑うのをやめた。
《砦を、俺が攻めた》
《三日、落ちなんだ》
《二百十四人だ》
《数えた》
俺は、そこで、竹簡を握った。
数えた。十一年前、この人は数を覚えられなかった。そして、いま、二百十四まで数えている。
書状は、続いていた。
《雲長に、名を送った》
《俺が、書き取った》
《字が下手で、三人分、読めぬと言われた》
《書き直した》
そして、最後に、一行あった。
《阿斗。俺は、この砦の名を知らぬ》
《誰か、名をつけてくれ》
「叔父上」
「はい」
「この人たちの死に、意味はありますか」
関羽は、筆を置いた。そして、長いこと黙っていた。やがて、こう言った。
「殿下」
「はい」
「その問いは、危のうございます」
「はい」
「意味があると申せば、続けねばなりませぬ」
「はい」
「意味がないと申せば、遺族に言えませぬ」
俺は、そこで、答えた。
「では、三つ目を作ります」
関羽は、俺を見た。
「三つ目、でございますか」
俺は、言った。
「『まだ決まっていない』です」
関羽は、しばらく黙っていた。そして、こう聞いた。
「いつ、決まりますか」
俺は、答えた。
「戦が終わってからです」
「……」
「そして、決めるのは、私です」
この戦が、江陵を取って終われば。二百十四人は、「江陵を取るために死んだ人」になる。
途中で退けば。「退くために、死んだ人」になる。
そして、負ければ。「なぜ死んだか、誰も言えない人」になる。
俺は、その三つのうち、二つ目を選ぶつもりだった。
そして、二つ目を選ぶには、まず、生きて帰さなければならない。
◆
俺は、木簡を出した。そして、書いた。
《死んだ人の意味は、後で決まる》
そして、その下に。
《だから、決める人が、生きて残らねばならない》
俺は、そこで、筆を止めた。
十五年、俺は死者の名を書いてきた。九十二人分である。そして、意味を書いたことは、一度もない。
《一人で、七つを、こわした》
《士元どのを、守った》
《一人だけ、残った》
《三回、立った》
事実だけを書いてきた。そして、それは、たぶん、正しかった。
意味を書いていれば、その意味が、いつか誰かを動かした。事実だけなら、読んだ人が、そのつど考える。
俺は、法正へ返書を書いた。
《孝直どのへ》
《名簿に、「無駄死に」とは書きません》
《そして、「江陵のために死んだ」とも、書きません》
《今は、死んだ場所と、名前だけ書いてあります》
《意味は、後から書きます》
《ですから、いま、それを理由に進まないでください》
そして、最後に、一行足した。
《二百十四人を、四百人にしないでください》
◆
俺は、そこで、張飛の書状を、もう一度開いた。
《誰か、名をつけてくれ》
名前のない砦である。そして、地図に載っていない。
俺は、しばらく考えた。そして、蔣琬を呼んだ。
「公琰どの」
「殿下」
「地図に、一つ、書き足してください」
「どこでございましょう」
俺は、地図の一点を指した。
「ここです」
「名は」
俺は、答えた。
「《二百十四》と、書いてください」
蔣琬は、しばらく黙っていた。そして、こう聞いた。
「……砦の名を、数にされますか」
「はい」
「なぜでございましょう」
俺は、答えた。
「地名にすれば、忘れます」
「……」
「数なら、忘れません」
蔣琬は、筆を取った。そして、書いた。
地図の上に、初めて、人数の名を持つ場所ができた。
そして、その名を見た人は、必ず「何の二百十四か」と聞く。聞かれれば、答えられる。
忘れられない名前とは、そういう形をしている。
返事は、来なかった。代わりに、次の報告が届いた。馬良の字である。そして、短かった。
《六月末》
《軍、猇亭へ進む》
《敵、動かず》
《山が、終わりました》
俺は、その一行を見て、地図を広げた。
猇亭。三峡が終わる場所である。そして、その先に、森があった。
俺は、地図の上のその一帯を、指で押さえた。
十五年前、教科書で読んだ二行が、そこにある。
そして、まだ、書かれていない。
〈あとがき〉
「価値がないからでございましょう」——五百里退いた軍が、初めて留まったのが、名前のない砦でした。価値のない場所で死ぬと、言うことがありません。そして、言うことがない死には、いちばん近い意味が付きます。
「二百十四人分の、理由ができました」。そして視界に「目的が、変化しました」という表示が、十五年で初めて出ます。
数を覚えられなかった人が、二百十四まで数えました。そして「誰か、名をつけてくれ」と書いてきます。地図に載った名前は、《二百十四》になりました。地名にすれば忘れます。数なら、忘れません。
「意味は、後から書きます。ですから、いま、それを理由に進まないでください」。
そして山が終わりました。次回、第87話「森の中へ、陣を置いてはいけません」。
《劉禅文庫 再読『予測どおりに不合理』——払ってしまったものを、これから決めることの理由にしてはいけない。金なら忘れられる。二百十四人は、忘れられない》




