第82話 孫権は謝らない
【章武元年|成都】
使者は、馬良だった。
白眉である。三十五。そして、断る力十七。
俺は、この人を三度、断れない頼みで使っている。
◆
章武元年の冬。終了条件が決まった。そして、決まった以上、まず交渉である。
戦は、交渉が失敗した後にしか始めない。それが、俺が父に飲ませた順序だった。
条件は、三つ。
一 湘水以西の三郡の返還。
二 呉魏同盟の解消。
三 関羽への公式な謝辞。
三つ目が、いちばん軽く見える。土地でも兵でもない。紙一枚である。
そして、いちばん通らない。
「季常どの」
「殿下」
「三つ目は、通りますか」
馬良は、白い眉を下げた。この人が言いにくいことを言うときの癖である。そして、こう答えた。
「通りませぬ」
「はい」
「孫権どのは、謝られませぬ」
「なぜですか」
この人は、答えた。
「勝った側でございますゆえ」
正確である。
荊州は、呉が取った。関羽は生きて帰ったが、土地は戻っていない。そして、勝った側は、謝らない。
謝るというのは、負けた側の権利である。
十四年、俺は多くの人に謝らせてきた。関羽。張飛。糜芳。そして、全員、負けた後だった。
負けた人にしか、謝る資格がない。そして、負けた人が謝ると、そこから先へ進める。
勝った人には、進む必要がない。
◆
馬良は、四十日で建業へ着いた。そして、六十日で戻ってきた。
報告は、竹簡三本である。短い。そして、この人は、帰ってすぐには喋らなかった。湯を出させて、一口飲んでから、口を開いた。
「殿下」
「季常どの」
「先に、一つ申し上げます」
「はい」
「建業は、栄えておりました」
俺は、そこで、顔を上げた。
「市が、開いております。船が、着いております。荊州から来た者も、おりました」
「……蜀の者ですか」
「はい」
「何をしていましたか」
馬良は、答えた。
「商いを、しておりました」
俺は、そこで、しばらく黙った。
二年前、俺たちは荊州を失った。そして、そこにいた人は、逃げるか、残るかを選んだ。
残った人は、いま、呉の市で商いをしている。そして、たぶん、困っていない。
「季常どの」
「はい」
「その人たちは、蜀のことを何と言っていましたか」
馬良は、白い眉を下げた。そして、正直に答えた。
「……何も、申しませなんだ」
恨んでもいない。懐かしんでもいない。
十四年、俺は名前を書いてきた。そして、名前を書いても、その人が別の国で暮らし始めれば、それきりである。
「一つ目は、半分でございます」
「半分?」
馬良は、答えた。
「二郡を返す、と」
「三郡ではなく」
「はい」
「残る一郡は」
「江陵でございます」
俺は、そこで、地図を見た。
江陵。長江の要である。そして、二年前、俺が後方指揮所を置いた城だ。木札を並べた部屋がある。赤と青と白と黒と緑。三刻ごとに動かした。
ここを返さないというのは、「長江は渡さない」という意味である。
そして、それは、こちらも同じことを考えている。
「二つ目は」
「拒否でございます」
「理由は」
馬良は、答えた。
「『魏と結んでおらぬ』と」
「……」
「『臣従したのは、方便である』と」
俺は、そこで、少し笑ってしまった。
去年、曹丕は孫権を呉王に封じた。そして、孫権はそれを受けた。九錫まで受けている。
それを、「方便」と言い切る。
嘘では、ない。そして、本当でもない。
一年前、呂蒙も同じことをした。
「病人が国のことを考えてはならないという法はありません」
嘘をつかずに、騙す。そして、抗議できない。
この国は、そういう人間を二人続けて相手にしている。そして、二人とも、呉である。
◆
「三つ目は」
馬良は、そこで、少し黙った。そして、竹簡を出した。
「孫権どのの、直筆でございます」
俺は、それを開いた。短い。三行である。
《漢の皇太子へ》
《関雲長どのが、生きて帰られたと聞く》
《善き哉》
《されど、当方は謝らぬ》
《謝れば、荊州を取ったことが、誤りになる》
《取ったことは、誤りではない》
俺は、その三行を、長いこと見ていた。
正直である。そして、たぶん、この人はいちばん正直に断っている。
「謝れば、取ったことが誤りになる」——その通りだ。
そして、それが分かっている相手には、謝罪を要求してはいけない。要求すれば、相手は自分の正しさを守るために、もっと固くなる。
俺は、そこで、一つ気付いた。
三つ目の条件を書いたのは、父である。
《雲長の名が、汚されぬこと》
そして、俺はそれを「謝辞」に翻訳した。
翻訳を、間違えた。
「名が汚されぬこと」と「相手が謝ること」は、同じではない。
十四年、俺は人の言葉を制度に翻訳してきた。「休め」を「上限を書く」に。「殴るな」を「回数を数える」に。「異常なし」を「全項目を数字で」に。
そして、翻訳とは、いつも、何かを落とす作業である。
そのことを、俺は十四年、忘れていた。
◆
俺は、関羽のところへ行った。六十二である。二年前から、成都にいる。そして、軍権はない。
この人は、名簿を書いている。荊州の三万人分と、四千二百人分と、于禁の三百四十二人分。
「叔父上」
「殿下」
「孫権が、謝りませんでした」
関羽は、髭を撫でた。そして、こう言った。
「当然でございましょう」
「……当然ですか」
「はい」
この人は、続けた。
「私が勝っておれば、私も謝りませぬ」
「はい」
「そして、于禁に謝りませなんだ」
俺は、そこで、二年前を思い出した。
《于禁殿と降伏兵を侮辱しないでください》
十一歳の俺が、書いた。そして、あのとき、この人は侮辱しなかった。
だが、謝ってもいない。
勝った側が、負けた側に謝ることは、ない。この人は、それを両側から知っている。
「叔父上」
「はい」
「三つ目を、変えてよろしいですか」
関羽は、俺を見た。
「何に、変えます」
俺は、答えた。
「叔父上に、聞きます」
「何を、でございますか」
「叔父上の名が汚されない、というのは」
「はい」
「何が起きれば、そうなりますか」
関羽は、長いこと黙っていた。そして、こう答えた。
「……分かりませぬ」
「はい」
「陛下と、同じでございますな」
この人は、少し笑った。二年前から、この人は少し笑うようになった。旗を降ろしてから、である。
やがて、関羽は言った。
「殿下」
「はい」
「一つ、思い当たることがございます」
「はい」
「私の名を、誰が呼ぶかでございます」
「……誰が、ですか」
「はい」
関羽は、続けた。
「呉は、私を『関羽』と呼びます。魏も、そうでございましょう」
「はい」
「そして、荊州の民は」
この人は、そこで、筆を置いた。
「今、何と呼んでおりましょうな」
俺は、そこで、動けなくなった。
荊州の民である。二年前、俺たちは呉へ渡した。そして、呂蒙は略奪を禁じた。民は、困っていない。
困っていない民が、去った将を何と呼ぶか。たぶん、呼ばない。
そして、呼ばれない名は、汚されもしない。消えるだけである。
一年前、俺は于禁について同じことを見た。帳の外にいる人は、悪く書かれない。書かれないだけである。
そして、この人は、それを自分の名で言い当てた。
◆
俺は、三つ目を書き換えた。
《三 関羽の名誉回復》
そして、こう変えた。
《三 荊州の民が、関羽の名を呼べること》
具体的には、三つである。
一 荊州に残る関羽の旧部下の家族へ、通行を認める。
二 関羽が建てた堤と橋の名を、変えない。
三 荊州から成都へ、年一度、書状を出すことを認める。
三つとも、呉は失わない。土地も、兵も、銭も減らない。そして、三つとも、名前に関する話である。
「殿下」
馬良が聞いた。
「それは、呉が呑みますか」
俺は、答えた。
「呑みます」
「なぜでございましょう」
「銭がかからないからです」
そして、俺は費禕に条文を作らせた。二十七である。この人は、条文を短くするのが上手い。
「陛下——いえ、殿下」
まだ言い間違える。
「三つとも、こちらの負担で行えます」
「はい」
「通行の書式は、既にございます。捕虜の帰郷証明と同じものを使えます」
「はい」
「堤と橋の名は、そちらの帳を写すだけでございます」
「はい」
「そして、年一度の書状は」
費禕は、そこで少し考えた。
「これだけが、続けねばなりませぬ」
「はい」
「誰が、書きますか」
俺は、答えた。
「叔父上です」
「ご存命のうちは」
「はい」
「その後は」
俺は、そこで、一つ足した。
「関平どのに、書いていただきます」
制度は、次の書き手を決めておかないと、一代で終わる。十四年、俺はそれを何度も学び直している。
◆
馬良を、もう一度送った。そして、九十日後に返事が来た。
三つとも、通った。そして、四つ目が付いてきた。
《一つ、加える》
《関雲長どのの旧部下のうち、荊州に残る者を、当方は罰さぬ》
《既に、罰しておらぬ》
《これを、文書にする》
《書かねば、そちらが信じぬゆえ》
俺は、その四行を、長いこと見ていた。
書かねば、信じない。
この人は、こちらの制度を理解している。そして、こちらが何を信じるかも、理解している。
十四年、俺は「書いてください」と言い続けてきた。関羽に。張飛に。糜芳に。彭羕に。
そして、敵国の君主が、言われる前に書いた。
制度というのは、こういう伝わり方をする。真似されるのが、いちばん速い。
【呉との交渉】
一 湘水以西 二郡返還(三郡中)
二 呉魏同盟解消 拒否
三 関羽の名の保全 合意
四 旧部下不処罰 文書化(呉より提案)
呉討伐意思 57% → 41%
十六、下がった。そして、まだ四十一である。
一つ目が、半分だからだ。
◆
父は、報告を読んだ。そして、こう言った。
「二郡か」
「はい」
「三郡ではない」
「はい」
「江陵を、返さぬのだな」
「はい」
父は、長いこと黙っていた。そして、こう聞いた。
「阿斗」
「はい」
「これは、勝ちか、負けか」
俺は、答えた。
「途中です」
「途中」
「はい」
「交渉は、一度で終わりません」
「……」
「三郡のうち二郡が戻れば、次は一郡です」
父は、笑わなかった。そして、こう言った。
「私は、あと何年ある」
俺は、そこで、答えられなかった。
二二三年である。あと、二年。
そして、この人は、それを知らない。知らずに、聞いている。
「陛下」
「うむ」
「分かりません」
「……」
「そして、私は、あと何十年もあります」
父は、俺を見た。そして、こう言った。
「……そうか」
「——」
「ならば、お前が続けよ」
俺は、その一言を、生涯忘れなかった。
「お前が切れ」と言われたのが、三年前である。漢中の書状で、この人は「私は切れぬ。お前は切れる」と書いた。
そして今日、「お前が続けよ」と言われた。
切ることと、続けること。この人は、両方を、俺に渡した。
自分ができなかったことだけを、渡している。
できたことは、渡さない。魅力百も、四十年ついてきた人の集め方も、この人は一度も俺に教えなかった。
教えられないからである。
◆
その夜、俺は木簡を出した。そして、書いた。
《謝らない相手には、謝罪を求めない》
そして、その下に。
《代わりに、名前を守らせる》
十四年、俺は名前を書いてきた。八十五人分である。
そして今日、初めて、敵国に名前を守らせた。
書かせたのでは、ない。こちらが書いた名を、あちらに消させない、という約束である。
それが、この十四年で、いちばん遠くまで届いた制度になった。
〈あとがき〉
「謝れば、荊州を取ったことが、誤りになる」——孫権の三行が、いちばん正直な拒否でした。分かっている相手に、謝罪を要求してはいけません。
「私の名を、誰が呼ぶかでございます」。関羽が言い当てたのは、汚されることではなく、呼ばれなくなることでした。一年前、于禁が帳の外にいたのと同じ構造です。
そして「書かねば、そちらが信じぬゆえ」。十四年言い続けてきたことを、敵国の君主が言われる前にやりました。制度は、真似されるのがいちばん速い。
「お前が切れ」の三年後に、「お前が続けよ」。自分ができなかったことだけを、この人は渡してきます。
次回、限定東征という名の、無制限事業が始まります。




