第81話 復讐には、終了条件が必要です
【章武元年 秋|成都】
父は、呉を攻めると言い続けていた。
そして、いつ終わるかを、一度も言わなかった。
◆
章武元年の秋。父が皇帝になって、三月である。
東方軍の再編は、続いていた。道路。船。糧。「戦える準備」である。
そして、その準備は、始まってから一度も止まっていない。
俺は、その帳を読んでいた。
【東方軍 再編】
期間 建安二十五年 十月 〜 現在
経費 累計 三万七千二百斛相当
動員 延べ 四万一千
進捗 継続中
完了予定 ——
完了予定が、空欄である。
十四年、俺はこの国の帳を読んできた。戸籍。輸送。兵籍。捕虜。市の税。そして、死者の簿。
そして、空欄がいちばん高くつくことを、何度も見てきた。
書いていない欄は、誰の責任でもない。だから、誰も埋めない。そして、埋まらないまま、金が出続ける。
劉巴のところへ行った。三十六である。社交八。
この人は、話しかけられない限り喋らない。そして、俺の質問にだけは必ず答える。十年前、俺が直百銭の期限を読んだ日から、この人は俺を「数字を読む者」に分類したらしい。
「子初どの」
「殿下」
「東方軍の完了予定を、ご存じですか」
この人は、竹簡から顔を上げなかった。そして、こう答えた。
「ございませぬ」
「はい」
「そして、私は三度、伺いました」
「……何と」
劉巴は、そこで筆を止めた。
「『始まってから決める』と」
俺は、そこで、動きを止めた。
始まってから、決める。
前世で、俺はこの台詞を何十回も聞いた。そして、そう言った案件は、一つも予算内で終わらなかった。一つも、である。
「子初どの」
「はい」
「あと何年、続けられますか」
この人は、初めて顔を上げた。そして、即答した。
「二年でございます」
「はい」
「三年目で、直百銭が崩れます」
「……」
「そして、崩れれば、戦の前に国が終わります」
俺は、そこで、七年前を思い出した。
成都である。父が府庫を全部、恩賞に配った年。俺が「銭がありません」と言って、この人を連れてきた年だ。
この人は、直百銭を鋳った。そして、三年で戻すと書いた。
三年は、とうに過ぎている。そして、この人は、一度もそれを言わなかった。
聞かれませなんだので、である。
俺は、聞いた。
「子初どの」
「はい」
「三年の期限は、どうなりましたか」
劉巴は、しばらく黙った。そして、こう答えた。
「二度、延ばしました」
「はい」
「一度目は、漢中でございます」
「はい」
「二度目は、荊州の後」
「……」
「そして、三度目は、ございませぬ」
俺は、その一行を、木簡に書いた。
《三度目は、ない》
そして、その下に。
《数える人が、言わなければ、誰も知らない》
十四年、俺は数える制度を作ってきた。戸籍を作った。兵籍を作った。輸送の帳を作った。市の税を月ごとに並べさせた。
そして、数えた人が言い出す制度を、作っていなかった。
聞けば、必ず答える。そして、聞かなければ、崩れる日まで黙っている。
この国には、そういう人が四人いる。劉巴。潘濬。陳紀。そして、蔣琬。
全員、俺が見つけた人である。そして、全員、同じ癖を持っている。
◆
俺は、董和を呼んだ。五十を過ぎている。この人は、金の使い道に細かい。細かすぎて、龐統に嫌われている。
「幼宰どの」
「殿下」
「三万七千二百斛は、何に使われましたか」
董和は、竹簡を三本出した。既に用意してあった。
「船が、一万四千。道が、九千六百。糧の備蓄が、八千。武具の修理が、五千六百」
「はい」
「そして、人足の飯が、そこには入っておりませぬ」
「どこに入っていますか」
董和は、四本目を出した。
「各郡の、負担でございます」
俺は、そこで、竹簡を置いた。
郡の負担。つまり、国の帳には出ない。
四年前、犍為郡で二千四百戸が消えたときと、同じ形である。数字が国の帳に出ないところで、人が減る。
「幼宰どの」
「はい」
「郡の分を、足すといくらですか」
董和は、少し黙った。そして、答えた。
「……およそ、倍でございます」
七万四千斛。そして、戦は、まだ始まっていない。
◆
評定を開いた。議題は、「東征の終了条件」である。
「終了条件、でございますか」
許靖が聞いた。
「はい」
「戦は、勝てば終わりましょう」
俺は、答えた。
「勝つとは、何ですか」
広間が、静かになった。そして、五人が、五つのことを言った。
張飛。
「孫権の首だ」
三月前に部下へ謝った人が、この件では変わらない。そして、この人は、たぶん、いちばん正直である。
関羽。
「荊州の返還でございます」
二年前、旗を降ろした人が、土地の話をしている。そして、この人は、それが自分の失点だと知っている。
法正。
「湘水以西の三郡でございます」
具体的である。そして、この人だけが、地図の上に線を引ける。
黄権。
「呉が、魏と結ばぬことでございます」
外から見る人である。そして、この人は、土地の話を一度もしなかった。
龐統。
「終わりませぬ」
酒を飲みながら、である。
「なぜですか」
「勝てば、次が欲しくなりますゆえ」
「士元どの」
「はい」
「例を、挙げていただけますか」
龐統は、杯を置かずに答えた。
「荊州でございます」
「はい」
「十二年前、我らは南の四郡を得ました。それで足りると、皆が申しました」
「はい」
「そして、二年後に益州を取りました」
「……」
「益州を取れば足りると、皆が申しました」
龐統は、そこで少しだけ笑った。
「そして、漢中を取りました」
「はい」
「漢中を取れば足りると、皆が申しました」
「……」
「そして今、江陵でございます」
十二年で、四回である。そのたびに「これで足りる」と言った。そして、一度も足りなかった。
足りるかどうかは、取る前には決まらない。取ったあとで、次のものが見えるからだ。
◆
俺は、その五つを、竹簡に書いた。そして、並べた。
五つとも、違う。そして、五人とも、自分の答えが「勝ち」だと思っている。
俺は、五年前を思い出した。
前提比較法である。諸葛亮と龐統と法正に、漢中攻略の前提を全部書き出させた。三十七あった。そして、三十四が一致していた。
三日かけて、俺はそれを見つけた。そして、六年の喧嘩が終わった。
今日は、逆である。
五つのうち、一つも一致していない。そして、誰も、それに気づいていない。
「勝つ」という一語が、五つの違う意味を隠していた。
「陛下」
俺は、父を見た。
「はい」
十四歳である。そして、父を「陛下」と呼ぶようになって、三月が過ぎた。まだ、口が慣れない。
「五つ、出ました」
「うむ」
「陛下のは、どれですか」
父は、答えなかった。長い沈黙があった。
玉座の背は高い。そして、そこに座った人の顔は、下からは影になる。
やがて、こう言った。
「……分からぬ」
「はい」
「分からぬのだ、阿斗」
父は、玉座から俺を見た。
「呉が謝れば、済むのか」
「……」
「荊州が戻れば、済むのか」
「……」
「孫権が死ねば、済むのか」
そして、父は、少し首を振った。
「……済まぬ気がする」
俺は、そこで、この人が何を抱えているかを、初めて正確に見た。
終わらせ方が、分からない。
そして、それを、皇帝が言った。十七人の前で、である。
「陛下」
諸葛亮が言った。四十一である。
「はい」
「終わらぬものを、始めてはなりませぬ」
父は、答えなかった。
そして、俺は、そこで一つ提案した。
「陛下」
「うむ」
「終了条件を、先に書いてください」
「……」
「そして、書いたものを、私が持ちます」
「なぜ、お前が持つ」
俺は、答えた。
「陛下は、戦が始まると、忘れられるからです」
広間が、凍った。董和が、目を伏せた。蔣琬が、筆を止めた。
そして、張飛が笑った。大声である。
「その通りだ!」
「翼徳」
関羽が止めた。
「兄者は、いつも忘れる」
父は、しばらく黙っていた。そして、こう言った。
「……そうだな」
約束管理、二十二である。そして、この人は、それを知っている。十四年前から、知っている。
知っていて、直せなかった。
そして、直せない人が、預けると言った。
◆
その夜、蔣琬が来た。三十六である。この人は、必ず、その日のうちに記録を持ってくる。
「殿下」
「公琰どの」
「本日の評定を、書きましてございます」
俺は、それを受け取った。そして、驚いた。
五人の答えが、五行、並べて書いてある。首。三郡。三郡。同盟。そして、終わらない。
「公琰どの」
「はい」
「よく、五つとも書けましたね」
蔣琬は、少し困った顔をした。
「殿下が、並べておられましたゆえ」
見ていた。俺が竹簡に書き並べているのを、この人は末席から見ていた。そして、同じ形で書いた。
「公琰どの」
「はい」
「これを、毎回やってください」
「毎回、でございますか」
「はい」
俺は、続けた。
「議題ごとに、全員の答えを並べてください」
「……時がかかります」
「かかります」
俺は、答えた。
「そして、並べなければ、違うことに気付きません」
蔣琬は、しばらく黙っていた。そして、こう言った。
「……承知いたしました」
そして、少し笑った。
「草を、抜くようなものでございますな」
六年前、広都の庭で、この人は同じことを言った。
「……草は、抜いておきます」
そして、六年、抜き続けている。
◆
父は、筆を取った。そして、三日かかった。
三日目の夜、俺のところへ持ってきた。竹簡が、一本である。そして、四行しか書いていなかった。
《東征の、終わり》
一 湘水以西の三郡が戻ること
二 呉が、魏と結ばぬこと
三 雲長の名が、汚されぬこと
四 ——
俺は、四行目を見た。空いている。そして、そこに、こう書いてあった。
《四つ目を、書けなんだ》
「陛下」
「うむ」
「四つ目は、何ですか」
父は、しばらく黙っていた。そして、こう言った。
「……分かっておる」
「はい」
「書けば、認めることになる」
「何を、ですか」
父は、答えた。
「私が、悔しいだけだということを」
俺は、そこで、何も言えなくなった。
三つは、国の理由である。三郡。同盟。名誉。全部、臣下に説明できる。
そして、四つ目は、この人の理由だ。そして、この人は、それを分けて書いた。書けないまま、分けて書いた。
四十年、この人は自分の感情を国の言葉に翻訳して生きてきた。そして今日、翻訳できない一行を、空欄にした。
「陛下」
「うむ」
「四つ目は、私が書いてよろしいですか」
父は、俺を見た。そして、頷いた。
俺は、筆を取った。そして、四行目に書いた。
《四 陛下が、悔しくなくなること》
そして、その下に、一行足した。
《ただし、これは、戦では終わらない》
父は、その二行を、長いこと見ていた。そして、笑った。
十四年で、いちばん疲れた笑い方だった。
「阿斗」
「はい」
「お前は、私を叱っておるのか」
俺は、答えた。二年前、彭羕に言ったのと、同じ言葉である。
「叱っていません」
「では」
「はかっています」
【終了条件が成立しました】
東征 終了条件
一 湘水以西三郡の返還
二 呉魏同盟の解消
三 関羽の名誉回復
四 (皇太子記載)
備考
四項は、軍事的手段では達成できません。
備考が、システムから出た。そして、これは俺が書いたことと、同じである。
十四年、この視界は、俺の書いたことを追認するだけになってきた。
昔は、俺が知らないことを教えてくれた。落鳳坡。孤立危険度。暗殺危険度。
そして今、俺が書いた後で、同じことを表示する。
それは、たぶん、いいことである。そして、少し、寂しい。
◆
その夜、俺は木簡を出した。そして、書いた。
《始める前に、終わりを書かせる》
そして、その下に。
《書けない一行が、本当の理由である》
前世で、俺は事業計画を何百件も見た。そして、撤退条件のない計画は、必ず、撤退できなかった。
理由は、いつも同じである。始めた人が、まだ社内にいるからだ。
撤退するというのは、その人の判断が間違っていたと認めることになる。だから、誰も言い出さない。そして、言い出せる人は、その人だけである。
そして今回。始めた人が、皇帝である。
俺は、最後に一行足した。
《四つ目は、たぶん、俺が持つことになる》
〈あとがき〉
「勝つとは、何ですか」——五人が五つ答え、一つも一致しませんでした。前提比較法の、真逆の状況です。「勝つ」という一語が、五つの違う意味を隠していました。
そして父の四行。三つは国の理由で、四つ目が書けません。「書けば、認めることになる。——私が、悔しいだけだということを」。四十年、自分の感情を国の言葉に翻訳して生きてきた人が、翻訳できない一行を空欄にしました。
「叱っていません」「では」「はかっています」。二年前、彭羕に言った言葉が、今日は皇帝に向きました。
《劉禅文庫 蔵書その四十六『日本のいちばん長い日』——始めるより、終わらせるほうが難しい。終わらせる者は、始めた者と、同じ側にいなければならない》
次回、孫権へ使者を送ります。そして、孫権は謝りません。




