第80話 人事案件としての、私の結婚
【章武元年 夏|成都】
婚礼の話が、評定に出た。
そして、当人が、末席で聞いていた。
十四歳である。
◆
章武元年の夏。父が、皇帝になった。そして、俺は皇太子になった。
太子舎人が、二人付いた。費禕と、董允である。二十六と、三十一。
そして、その二人が、最初に持ってきたのが、婚礼の件だった。
「殿下」
董允が言った。三十一である。そして、この人は、まだ「叱る役」を命じられていない。それは、二年後の話だ。
「立妃の儀について、評定がございます」
「はい」
「殿下も、ご出席いただきます」
俺は、少し驚いた。
「私が、出るのですか」
「はい」
董允は、不思議そうな顔をした。
「ご当人でございますゆえ」
俺は、そこで、前世を思い出した。
人事の会議である。本人は、入らない。上司が話し、人事が話し、そして決まる。そして、本人には、結果だけが伝わる。
俺は、その運用を、何十回も設計した側にいた。「本人がいると、本音が出ない」——そう言って、外した。
そして、外された本人が、どんな顔でその結果を聞くかを、俺は一度も見ていない。
「ご当人でございますゆえ」——この人は、当たり前のこととして言った。そして、俺の知っている世界では、当たり前ではなかった。
この国は、違った。当人が、座る。そして、喋らない。
◆
評定には、十七人いた。
諸葛亮。四十一。龐統。四十二。法正。四十五。劉巴。三十六。許靖。七十を超えている。
そして、関羽と張飛がいた。
翼徳叔父上は、三月前に部下へ謝ったばかりである。そして、この日は、いつもより静かだった。
「太子妃の件でございます」
許靖が、議事を読み上げた。七十を超えて、声がよく通る。この人は、四十年、人物を評してきた。そして、法正に軽蔑されている。
「候補が、三名ございます」
俺は、竹簡を受け取った。三人の名が、書いてある。そして、家と、年と、続柄。
一人目。益州の豪族の娘。十五。
二人目。荊州から来た名族の娘。十六。
三人目。張飛の長女。十五。
俺は、そこで、顔を上げた。
張飛は、下を向いていた。自分の娘の話である。そして、この人は、一言も喋らなかった。
机を割らない張飛を、俺は初めて見た。
許靖が、説明を始めた。
「一人目は、益州の人心を得ます」
「はい」
「二人目は、荊州から来た者が安心いたします」
「はい」
「三人目は」
この人は、そこで、少し間を置いた。
「軍が、安心いたします」
正確である。
三人とも、人では、ない。集団である。益州人。荊州人。軍。
十四年、俺は人材台帳を読んできた。そして、そこには、必ず名前があった。阿仙にも、粥を炊く老女にも、名前があった。
今日の竹簡には、三行とも、家の名しか書いていない。
法正が、口を開いた。四十五である。病んでいる。そして、こういうときだけ、必ず先に喋る。
「陛下」
「孝直どの」
「三人目でございましょう」
「なぜですか」
この人は、答えた。
「荊州を失って、二年でございます」
「はい」
「軍が、いちばん不安でございます」
「……」
「そして、翼徳どのの家は、涿郡からの家でございます」
涿郡。三十六年前である。父と、関羽と、この人が、義勇兵を集めた土地だ。
そして、いま、その家と結べば——軍は、「始まりの三人が、続いている」と見る。
三月前、俺はその涿郡の話を、本人から聞いたばかりである。五十人。二十人死んだ。十四人は、声が届かなかった。
そして今日、その土地の名が、政略の材料として読み上げられている。
諸葛亮が、羽扇を止めた。
「孝直どの」
「はい」
「それは、人を選んでおられませぬ」
法正は、少し笑った。
「存じております」
「……」
「そして、太子妃とは、そういうものでございます」
広間が、静かになった。そして、誰も反論しなかった。
正しいからである。
正しいことに、誰も反論しない。そして、それは、この国でいちばん危ない状態である。
三日前、俺はそれを異議制度と呼んで作ったばかりだった。
◆
俺は、そこで、手を挙げた。十四歳である。そして、皇太子である。発言権は、ある。
「許靖どの」
「はっ、殿下」
「一つ、伺ってよろしいですか」
「どうぞ」
俺は、聞いた。
「この三人は、承知しておられますか」
許靖の動きが、止まった。
「……承知、でございますか」
「はい」
「選ばれることを、ご存じですか」
この人は、竹簡を見た。そして、答えた。
「……家には、伝えてございます」
「家、ですか」
「はい」
俺は、続けた。
「本人には」
許靖は、答えなかった。
七十を超えた人が、十四歳の質問に答えられなかった。そして、広間の全員が、それを見ていた。
「殿下」
龐統が、口を挟んだ。酒杯を持ったままである。
「それは、この時代にない考えでございます」
「はい」
「婚は、家と家のものでございます」
「存じています」
俺は、答えた。
「そして、私が言っているのは、別のことです」
「と、申されますと」
「士元どの」
「はい」
「この三人のうち、二人は選ばれません」
「……はい」
「そして、選ばれなかったことを、後で知ります」
龐統の動きが、止まった。
「十五と、十六です」
「はい」
「その二人が、この先、何十年、それを覚えていますか」
広間が、静かになった。そして、龐統が、酒杯を置いた。
十四年で、四度目である。
一度目は、三千斛が腐った日。二度目は、七歳の子が「南に人がいない」と書いた日。三度目は、樊城の追加承認。
そして、今日。
「殿下」
諸葛亮が言った。
「はい」
「では、どうなさいます」
俺は、答えた。
「三人に、会います」
◆
三日、揉めた。前例がない。礼に反する。そして、外から見て、何をしているか分からない。
「他家の娘を、婚約前に召されるのは」
「宮中の女官が騒ぎます」
「魏に伝われば、笑われます」
三つとも、正しい。
最後に、許靖が折れた。この人は、四十年、人を評してきた。そして、こう言った。
「会わずに評したことは、ございませぬ」
四十年の職業倫理が、三日目に出た。
そして、この人を推したのは、六年前、法正である。軽蔑しながら、である。
その推薦が、今日、いちばん動かない場所で効いた。
◆
三人に、順に会った。一人につき、四半刻である。そして、同じことを聞いた。
一人目。益州の豪族の娘。緊張していた。そして、ほとんど喋らなかった。
俺は、こう聞いた。
「この話を、いつ聞かれましたか」
「……十日前でございます」
「どう思われましたか」
この人は、答えた。
「父が、喜んでおりました」
自分の感想を、聞かれたことがないのだろう。そして、聞かれても、父の顔しか出てこない。
二人目。荊州の名族の娘。こちらは、よく喋った。そして、詩を諳んじた。
「この話を、どう思われましたか」
「光栄に存じます」
「それは、伺いました」
「……」
「思われたことを、伺っています」
この人は、長いこと黙った。そして、答えた。
「……怖うございます」
正直である。そして、この一言が言えたことを、俺は覚えておくことにした。
この人は、たぶん、どこへ嫁いでも、必要なときに一言だけ本当のことを言う。
三人目。張飛の長女は、入ってくるなり、頭を下げた。そして、こう言った。
「父が、申しておりました」
「はい」
「『断ってよい』と」
俺は、そこで、動きを止めた。
「……翼徳叔父上が、そう仰いましたか」
「はい」
「何時」
この人は、答えた。
「昨夜でございます」
「他には、何と」
この娘は、十五である。そして、まっすぐ俺を見た。目の感じが、父親に似ていた。
「『阿斗は、悪い奴ではない』」
「はい」
「『だが、お前が嫌なら、俺が断る』」
「……」
「『三十年、人を殴ってきた男が、娘を売るのは、筋が通らん』」
俺は、そこで、何も言えなくなった。
三月前である。この人は、范彊と張達に謝った。そして、涿郡の話をした。
そして、昨夜、娘に同じことを言っていた。
謝った人は、家でも謝り方を変える。
そんな数字は、どの画面にも出ていない。そして、たぶん、いちばん確かな変化である。
「……お名前を、伺ってよろしいですか」
この娘は、少し驚いた顔をした。そして、答えた。
「張氏でございます」
「姓は、存じています」
「……」
「名を、伺っています」
この人は、長いこと黙っていた。そして、こう言った。
「……申し上げても、書かれませぬ」
俺は、そこで、息を呑んだ。
四人目である。甘夫人。孫夫人。糜夫人。そして、この人。
全員、同じことを言う。
十四年、この国で、俺は名前を書き続けてきた。八十五人分である。
そして、女性の名だけが、一つも載っていない。
載せなかったのは、俺ではない。そして、載せられる制度を作らなかったのは、俺である。
「書きます」
俺は、答えた。
「……」
「どこにも、書きません」
この娘は、怪訝な顔をした。
「書くのか、書かぬのか、どちらでございましょう」
俺は、答えた。
「覚えます」
「……」
「そして、簿には、書きません」
この人は、そこで、少し笑った。十五である。そして、笑い方が、父親に似ていなかった。
そして、名を言った。一度だけである。
◆
俺は、その日、評定で三人目を選んだ。そして、理由を三つ書かせた。
【太子妃 決定】
決定 張氏(張飛長女・十五)
理由
一 軍の安定
二 涿郡以来の家であること
三 ——
備考
三は、殿下が書かれました。
三つ目である。
「殿下」
許靖が聞いた。
「三つ目は、空いております」
「はい」
「お書きになりますか」
俺は、答えた。
「書きました」
「……」
「見えないだけです」
許靖は、竹簡を見た。そして、七十を超えた人が、十四歳の皇太子に、頭を下げた。
「……承知いたしました」
四十年、人を評してきた人である。そして、見えない行があることを、この人は認めた。
婚礼は、秋だった。張飛は、泣かなかった。そして、一度も怒鳴らなかった。一日中、である。
記録に、こう残っている。
《この日、翼徳の声、聞こえず》
書いたのは、陳紀である。誤記発見九十一の人が、書いた。そして、これは誤記ではない。
十四年、この人は数字しか書かなかった。今日、初めて、聞こえなかったものを書いた。
◆
夜、この人が俺のところへ来た。酒を持っていた。そして、飲んでいなかった。
「阿斗」
「翼徳叔父上」
「……」
この人は、長いこと黙っていた。そして、こう言った。
「殴らんでくれ」
俺は、そこで、動けなくなった。
「……叔父上」
「俺は、殴った」
「……」
「六十一人だ」
「——」
「そして、家では、一度も殴らなんだ」
「——」
「不思議なものだ」
不思議では、ない。家では、声が届くからだ。
戦場は、うるさい。そして、家は、静かである。
そして、この人には、たぶん、不思議なままでいい。
俺は、答えた。
「殴りません」
「……うむ」
「そして、数えます」
張飛は、怪訝な顔をした。
「何を数える」
俺は、答えた。
「殴りたくなった数です」
この人は、そこで、初めて笑った。そして、懐から袋を出した。石が、入っている。そして、一つ、俺に渡した。
「袋は、自分で作れ」
石が、一つ。
そして、この人が三年で入れた数を、俺はまだ知らない。聞くのは、二年後である。
◆
その夜、俺は木簡を出した。
《名のない者》
十四年で、八十五人である。
そして、書こうとして、止めた。
代わりに、十二年前の木簡を出した。母の名を書いたものである。諸葛亮と二人で書いた、歪んだ一文字がある。
俺は、その隣に、何も書かなかった。代わりに、指で四つ、なぞった。
四人である。甘夫人。孫夫人。糜夫人。そして、張氏。
四人とも、名を知っている。四人とも、どこにも書いていない。
このときの俺は、まだ知らない。
二年後、この人が皇后になることを。そして、七年後に死ぬことを。
そして——五人目が、来ることを。
〈あとがき〉
「ご当人でございますゆえ」——前世の人事会議では、当人は入りませんでした。「本人がいると本音が出ない」と言って外した側に、主人公はいました。そして、外された人の顔を、一度も見ていません。
「三十年、人を殴ってきた男が、娘を売るのは、筋が通らん」。三月前に部下へ謝った人が、昨夜、娘に言っていました。どの画面にも出ない数字です。
そして四人目の「申し上げても、書かれませぬ」。八十五人書いてきた簿に、女性の名だけが一つも載っていません。載せられる制度を作らなかったのは、主人公です。
《この日、翼徳の声、聞こえず》——誤記発見91の人が、初めて、聞こえなかったものを書きました。
次回、第81話「復讐には、終了条件が必要です」。




