第78話 張飛、部下に謝る
【章武元年|閬中】
閬中へ着いたとき、張飛は酒を飲んでいた。
昼間ではない。夜でもない。朝だった。
◆
俺が部屋へ入ると、張飛は酒杯を隠そうとした。隠し場所に困り、背中へ回す。酒甕は大きすぎて、身体から半分見えていた。
「阿斗。早かったな」
「何を隠していますか」
「何も隠しておらぬ」
「酒甕が見えています」
張飛は背後を確認した。当然、本人には見えない。
「これは水だ」
「匂いがします」
「薬酒だ」
「怪我は」
「心が痛む」
言い訳だけは、上達している。
十一年前、この人は嘘をつかなかった。つく必要がなかったからだ。誰も、この人に何かを禁じなかった。
そして今、この人は隠す。隠すというのは、悪いと分かっているという意味である。
そして、上達したぶんだけ、この人は今、逃げている。
関羽が後ろから入ってきた。
「翼徳」
張飛の顔が明るくなる。
「雲長!」
酒甕を置き、関羽へ駆け寄った。二人は抱き合う。
関羽が生きて戻ったことを、張飛は何度確認しても足りないらしい。二年経っても、会うたびに同じ顔をする。
「傷は」
「癒えつつある」
「呉の鼠どもめ」
張飛の顔が険しくなる。
「必ず俺が——」
「その話では、ない」
関羽が止めた。
「今日は、お前の部下について来た」
張飛の表情が変わる。
「范彊と張達か」
既に二人の自首は知らされていた。閬中に着く前に、俺が使者を先行させたからである。
「俺を殺そうとした」
「はい」
俺は答えた。
「二人を連れてこい」
張飛の声が低くなる。
「ここで斬る」
「斬りません」
「俺の寝首をかこうとしたのだぞ!」
「実行していません」
「計画した!」
「自首しました」
「殺そうと思っただけなら、罪ではないと言うのか!」
「罪です」
俺は否定しなかった。
殺意。武器の準備。逃亡計画。呉との接触方法まで考えていた。重大な犯罪である。
しかし、実行する前に自首した。その違いを、無視してはならない。
無視すれば、次の者は、実行してから捕まる。
「二人の話を聞いてください」
「聞く必要はない」
「では、翼徳叔父上の話も聞きません」
張飛の目が大きくなった。
「何だと?」
「叔父上が何を考えていたか聞かず、結果だけで処罰します」
「俺は何もしておらぬ!」
「不可能な期限を命じました」
「軍では、命令が必要だ」
「できないと言った部下を、処刑すると脅しました」
「脅しておらぬ!」
「軍法で処罰すると言いました」
「それは脅しではない。命令だ」
「部下には同じです」
張飛の拳が握られる。俺は、無意識に一歩後ろへ下がりそうになった。
怖い。
十三歳になっても、張飛が本気で怒れば怖い。背は伸びた。声も変わった。皇太子である。それでも、この人が拳を握ると、身体が先に反応する。
そして、范彊と張達は、毎日この恐怖の中で働いていた。
俺は、月に何度かしか会わない。毎日会う人が、どれだけ削られるかを、俺は今日、初めて体で知った。
「連れてこい」
張飛が、もう一度言った。今度は叫ばなかった。
◆
二人が部屋へ入った。縄で手を縛られている。
范彊は痩せた男。張達は、少し年上に見える。二人とも顔色が悪い。張飛を見た瞬間、膝から崩れた。
「将軍」
張飛は二人を見下ろした。
「俺を殺すつもりだったか」
范彊が震えながら答える。
「はい」
張飛の拳が動く。関羽が腕を掴んだ。
「離せ、雲長」
「最後まで聞け」
「聞けば、斬らずに済むのか」
「斬るかどうかは、聞いた後に決めよ」
関羽の力は強い。張飛は腕を振りほどけなかった。
武力九十九と百。こういう場面で争わないでほしい。
そして、九十九のほうが動かないのを見て、俺は少しだけ息を吐いた。
「なぜだ」
張飛が尋ねた。張達が額を床へつける。
「三日では、準備できませんでした」
「だから俺を殺すのか!」
「できなければ、殺されると思いました!」
張達の声が裏返った。部屋が静かになる。
「将軍は、以前にも期限を守れなかった兵を鞭で打ちました」
范彊が続ける。
「死ぬまではない」
張飛が言う。
「私たちには、次は死ぬように見えました」
「俺は、その程度で」
張飛が、言葉を止めた。
その程度。
張飛にとっては、怒鳴ることも、鞭を振るうことも、軍を動かすための手段だった。受ける側にとっては、違う。毎日、次は自分が殺されるかもしれないと思っている。
この人が今、詰まったのは、たぶん、初めて相手側の目盛りを見たからである。
同じ行為に、二つの目盛りがある。そして、上に立つ者は、自分の目盛りしか持っていない。
「呉へ逃げるつもりだったか」
関羽が尋ねる。
「はい」
「呉へ忠義があるのか」
「ありません」
「ならば、なぜ」
「蜀に戻れば処刑されると思ったからです」
糜芳と士仁と、同じ。行き場がなくなる。元の組織へ戻れない。上司を恐れる。そのとき、敵だけが逃げ道に見える。
関羽は、そこで一度目を閉じた。この人は、二年前、それを荊州で見た。そして、二人を失いかけた。
「なぜ自首した」
張飛が問う。范彊が答える。
「相談所のことを、思い出しました」
孟達のために作った制度。離反する前に相談する。辞めたい。逃げたい。上司を殺したい。口にすれば、それだけで罰せられると恐れていた感情を、別の場所へ伝える。
「書記は」
范彊の声が震えた。
「考えたことと、実行したことは違うと申しました」
二十歳の楊戯である。七年、誰も来なかった窓口に座り続けていた男が、その一言だけは持っていた。
「刀まで用意したのであろう」
「はい」
「俺の寝室へ入る手順も」
「はい」
張飛の顔が赤くなる。
「それでも、考えただけか!」
拳が上がった。一回。張飛自身が作った、回数を数える癖が残っていた。
関羽が前へ出る。しかし、俺は止めた。
◆
張飛の拳は、二人へ落ちなかった。自分の膝へ叩き付けられた。鈍い音がした。
「俺は」
張飛が低い声で言う。
「お前たちへ、それほど恐ろしいことをしたか」
二人は答えられない。肯定すれば殺されるかもしれない。否定すれば、嘘になる。
「言え」
また命令口調。二人の身体が震える。
そこで、張飛が気付いた。口を閉じる。大きく息を吸う。声を落とした。
「……言ってくれ」
張飛が、部下へ、頼んだ。
十一年、俺はこの人の言葉を数えてきた。命じる。怒鳴る。褒める。
そして、頼むという形は、初めてである。
范彊が顔を上げる。
「恐ろしかったです」
「いつからだ」
「以前から」
「俺が殴らなくなった後もか」
「はい」
張飛の顔が歪む。
「殴っておらぬのに」
「怒鳴られました」
「戦場では声を出す」
「処刑すると言われました」
「実際には、しておらぬ」
「次はされると思いました」
張飛は、関羽を見る。関羽が静かに言った。
「私も同じだった」
「雲長が?」
「糜芳と士仁は、私を恐れて報告を隠した」
関羽は、自分の失敗を話した。倉庫火災。兵糧不足。処罰の示唆。部下の離反寸前。
「私は、正しい命令を出しているつもりだった」
関羽は言う。
「従えぬ者が悪いと思っていた」
「雲長と俺は違う」
「違わぬ」
張飛が関羽を睨む。
「お前まで、俺が悪いと言うのか」
「悪かったのだ」
関羽は逃げなかった。
「私も」
「お前も」
二年前、この人は報告書に書いた。
《補給責任者を恐怖で動かさない》
そして今日、それを口で言っている。書いたことは、二度目から、口で言える。
教訓というのは、こういう形でしか、人に渡らない。
◆
張飛は、自分の両手を見た。長坂坡で敵を止めた手。数多くの敵将を倒した手。部下を殴った手。
俺は、そこで、一つだけ聞くことにした。十一年、聞けなかったことである。
「翼徳叔父上」
「……なんだ」
「十一年前に、伺いました」
「……」
「公安の練兵場です」
張飛は、顔を上げなかった。俺は、続けた。
「私は、三つでした。そして、こう聞きました」
「……」
「殴った人は、死にましたか」
張飛の肩が、動いた。
「叔父上は、『死なぬ』と答えられました」
「……うむ」
「そして、私はもう一つ聞きました」
「——」
「殴らなかった人は、どうなりましたか」
張飛の身体が、硬くなった。
十一年前と、同じである。あのとき、この人は「知らぬ」と答えた。そして、それが嘘だと、三歳の俺にも分かった。
長い沈黙があった。関羽も、何も言わなかった。范彊と張達は、床に伏せたままだった。
やがて、張飛は言った。
「……涿郡だ」
「はい」
「兄者と、雲長と、俺で、義勇兵を集めた」
「はい」
「三十年前だ」
張飛は、掌を見たまま続けた。
「五十人ほどだった。肉屋と、筵売りと、逃げてきた男」
父と、関羽と、この人である。
「……そして」
張飛の声が、少し掠れた。
「最初の戦で、二十人死んだ」
「はい」
「俺は、誰も殴らなかった」
「……」
「怒鳴りもせなんだ」
「——」
「皆、仲間だと思っておったからだ」
部屋が、静まり返った。
「翼徳」
関羽が、低く言った。
「その話は」
「お前は、覚えておらぬのか」
「……覚えておる」
「なら、なぜ止める」
関羽は、答えなかった。張飛は、続けた。
「二十人のうち、十四人は、逃げ遅れて死んだ」
「……はい」
「俺が『退け』と言うたのに、聞こえておらなんだ」
「……」
「戦場は、うるさい」
張飛は、そこで拳を開いた。
「そして、俺の声は、届かなんだ」
そして、初めて俺を見た。
「阿斗」
「はい」
「それから、俺は、大声を出すようになった」
「……」
「届かねば、死ぬからだ」
「はい」
「そして、届いても、聞かぬ者がおった」
「……」
「だから、殴った」
張飛の声が、震えていた。
「殴れば、覚える。覚えれば、死なぬ」
「——」
「三十年、そう思うておった」
俺は、そこで、動けなかった。
十一年前、この人は「知らぬ」と答えた。知っていた。そして、言えなかった。
言えば、自分が怖がっていることになるからだ。軍神が、部下が死ぬのを怖がっている。それを、三歳の子に言えなかった。
弱みの開示、という項目がある。関羽は三だった。
そして、この人の欄を、俺は一度も見ていない。十一年、見ようとしなかった。
この人は、いつも怒っていたからである。怒っている人の弱みの欄を、人は開かない。
◆
「叔父上」
「うむ」
「一つ、申し上げてよろしいですか」
「……申せ」
俺は、言った。
「それは、優しさです」
張飛の顔が、歪んだ。
「……何を」
「部下に死んでほしくないから、殴った」
「……」
「それは、優しさです」
「——」
「だが」
俺は、続けた。
「優しさは、伝わらなければ、恐怖です」
張飛は、答えなかった。そして、范彊と張達を見た。二人は、床に伏せたまま、震えていた。
三十年分の優しさを、この二人は、恐怖として受け取っていた。
三年前、俺は父にこう習った。
「人は、評価表のために命を懸けるのではない」
そして、たぶん、逆も本当である。
人は、優しさのために、命を懸けて逃げることがある。
「阿斗」
「はい」
「俺は、何をすればよい」
初めて。張飛が、自分から聞いた。
「謝ってください」
張飛の顔が固まる。関羽が言った。
「死罪より難しいと申したであろう」
「うるさい」
張飛は范彊と張達を見る。口を開く。閉じる。もう一度開く。
「俺は」
声が出ない。
張飛は酒甕へ手を伸ばした。俺が取り上げる。
「今は駄目です」
「少しだけ」
「駄目です」
「喉が」
「水を飲んでください」
張飛は水を飲んだ。飲み方が乱暴で、半分こぼれた。再び二人を見る。
「三日という命令は」
張飛は言った。
「無理だった」
范彊と張達は、動かなかった。
「できぬと申したお前たちへ、俺は怒った」
張飛の拳が震える。
「殺すつもりはなかった」
そこで止まりかける。
「だが」
関羽が見ている。俺も。部屋の外では、副官や兵士たちが聞いている。
「お前たちには、殺されると思わせた」
張飛は頭を下げた。
軍神では、ない。皇帝の義弟。一軍の将。その張飛が、自分を殺そうとした部下へ、頭を下げた。
「俺が悪かった」
誰も動かなかった。外の廊下で、誰かが息を呑む音がした。
張飛は顔を上げる。
「何か言え!」
二人の身体が跳ねる。
「叔父上」
「今のは八回に入るか」
「入ります」
「そうか」
張飛は再び声を落とした。
「……何か、言ってくれ」
張達が泣き始めた。范彊も額を床へつける。
「申し訳ありませんでした」
「私たちも、間違いました」
謝罪が、往復した。
十一年、俺はこの人に「殴るな」と言い続けてきた。そして、往復したのは、今日が初めてである。
◆
張飛が言う。
「俺を殺そうとしたことは許さぬ」
「はい」
「だが、自首したことは認める」
「はい」
「三日の命令は撤回する」
張飛は副官を見る。
「準備に何日必要だ」
副官は、すぐに答えられない。張飛の顔色を見ている。
「本当の日数を言え」
「……最低十二日です」
張飛の眉が動く。副官が身を固くする。
「十日では」
「武器の修理が終わりません」
「十一日」
「兵の家族への連絡が」
張飛が俺を見る。
「交渉しては駄目か」
「日数は値段ではありません」
「十二日だ」
張飛は認めた。
二年前、俺は関羽と兵糧の日数を値切った。二十二日である。そして、あれは正しかった。あの二日が、条件を生かした。
今日は、逆である。
値切ってよい数字と、いけない数字がある。その違いは、たぶん、こうだ。
自分の側の数字は、値切れる。現場の側の数字は、値切れない。
【張飛部隊改革】
東征準備期限 三日 → 十二日
不可能命令 撤回
張飛
感情制御 11 → 24
本音傾聴 8 → 31
部下恐怖 82 → 49
新規特性
【謝る猛将】
自らの過ちを認めた場合、部下の信頼が大きく回復する。
暗殺危険度 48% → 9%
張飛は生き残った。
しかし、范彊と張達の罪は残っている。謝罪したから、無罪になるわけではない。
次に、皇帝の判断が必要だった。
そして父からは既に、二人を死刑にせよという命令が、閬中へ向かっていた。
〈あとがき〉
「殴らなかった人は、どうなりましたか」——十一年前、三歳の質問に「知らぬ」と答えた理由が、ここで明かされます。涿郡、五十人、最初の戦で二十人。うち十四人は、声が届かずに死にました。
「優しさは、伝わらなければ、恐怖です」。三十年分の優しさを、二人は恐怖として受け取っていました。
そして「……言ってくれ」。十一年数えてきた言葉のなかで、頼むという形は初めてです。
次回、皇帝の死刑命令へ、全員で反対します。




