第70話 軍神、旗を降ろす
【建安二十四年 冬|麦城〜江陵】
関羽軍は、麦城へ入った。
兵は疲れ切っていた。徐晃軍の追撃を受け、洪水で道を失い、負傷者を担ぎ、呉が占領した土地を避けながら進んだ。出発時、二万を超えていた兵は、麦城へ着いた時点で、一万を下回っていた。
戦死者だけでは、ない。負傷して動けない者。捕虜。故郷へ戻った者。家族が呉に保護されていると知り、軍を離れた者。関羽の軍旗を見て集まった人々が、敗北の気配を感じると、少しずつ去っていった。
名前で集まった軍は、名前が曇ると散る。そして、それを責める資格は、誰にもない。十二年前、この人の名前は、それだけで城を守っていた。同じ性質の、裏側である。
【関羽軍】
現在兵力 九千三百
重傷者 千八百
戦闘可能 六千四百
士気 不安定
関羽
身体疲労 93
精神疲労 88
自尊心損傷 最大
帰還意思 91
軍旗降下受容度 0
ゼロ。予想どおりだった。
◆
趙雲が麦城へ着いたのは、合意の翌日の夕である。一日半。馬を、三度替えた。三十八時間のうち、三十四時間が過ぎていた。
残り、四時間である。
俺からの書状が、趙雲を通じて関羽へ届いた。
《叔父上へ》
《呂蒙殿との一時停戦が成立しました》
《三十八時間、退路が開きます》
《条件として、麦城で軍旗を下ろしてください》
関羽は書状を読み終えると。破らなかった。燃やさなかった。ただ、長い間、手に持っていた。
「父上」
関平が呼んだ。
「旗を下ろしましょう」
「お前は」
関羽の声が低い。
「我が旗を、呉の前で降ろせというのか」
「生きて帰るためです」
「関羽の旗が下がれば、兵の心も折れる」
周倉が言った。
「既に、多くの兵が疲れております」
「だからこそ、旗が必要だ」
旗は、布では、ない。関羽という存在そのものだ。軍神。美髯公。曹操軍を震えさせた名。于禁七軍を降伏させた勝利。
それを、下ろす。関羽にとって、首を差し出すより苦しいかもしれない。
趙雲が麦城へ入った。白馬から降り、関羽の前へ進む。二人は長坂坡以来、何度も共に戦った。
「雲長殿」
「子龍」
「お迎えに参りました」
関羽の眉が動く。
「私を救出しに来たか」
「違います」
趙雲は答えた。
「帰還する軍を、受け取りに参りました」
救われる。助けられる。関羽は、その言葉を嫌う。だから趙雲は使わなかった。
この人は、自己主張二十一である。そして、言葉を選ぶ能力だけは、この国で誰より高い。十二年、俺はそれを、一度も評価表に書いていなかった。
「私は、まだ戦える」
「存じております」
「麦城も守れる」
「守れるでしょう」
「ならば」
「守って、その後は?」
関羽が黙る。麦城を守る。呉軍を退ける。一度は勝てるかもしれない。二度も。しかし、食料は減る。魏軍も呉軍も増える。救援は遠い。最後には、兵が尽きる。
「殿下は」
趙雲が続けた。
「城を守ってほしいのでは、ありません」
「分かっている」
「旗を守ってほしいのでも、ありません」
関羽の目が鋭くなる。
「では、何を守れと」
趙雲は麦城の中を見た。負傷兵。関平。周倉。若い兵士。年老いた兵士。水を配る者。家族の名を書いた木札を握る者。
「ここにいる者たちです」
関羽は何も言わない。
周倉が前へ出た。
「将軍」
「何だ」
「私が旗を持ち、城へ残ります」
「何を言う」
「呉軍は、旗がある限り将軍が城にいると思うでしょう」
囮。関羽を逃がすため、自分が残るつもりだ。
「ならぬ」
関羽は即答した。
「しかし」
「お前を置いていかぬ」
「将軍」
「全員で帰ると、殿下へ約束した」
関羽が、その言葉を覚えている。一歳の頃から、俺が何度も言った言葉。みんなで生きる。完全には実現できない。既に多くの兵が死んだ。龐徳も。無名の兵士も。それでも、今いる者を、意図的に死へ置いていかない。
周倉の目に涙が浮かんだ。
「では、どうされます」
◆
関羽は城壁へ上がった。
風が吹いている。軍旗が大きく揺れる。赤い旗。
《関》
その一字。兵士たちが見上げている。呉軍も、遠くから見ている。
関羽は旗竿へ手をかけた。
動かない。
関平が横へ立つ。
「父上」
「私は」
関羽の声が掠れる。
「兄者より、荊州を任された」
「はい」
「守れなかった」
「はい」
関平は否定しなかった。
「多くの兵を失った」
「はい」
「城を捨てる」
「はい」
「それでも、生きて帰れというのか」
関平は父を見る。
「私には、生きていてほしいです」
関羽の手が震えた。息子からの言葉。武将では、ない。部下でもない。家族としての願い。
「父上がいなくなれば」
関平は続けた。
「私が困ります」
単純な言葉だった。
一年前、俺は「いなくなってほしくないのです」と言った。そして、この人は「ずるい」と言った。今日、同じことを、息子が言っている。
たぶん、この人には、これしか効かない。そして、二度目は、俺の言葉ではなかった。
関羽は目を閉じた。
そして。軍旗の縄を解いた。
旗が、ゆっくりと下りる。城壁の上から。兵士たちの前へ。
地面へは落とさない。関羽自身の腕で受け止める。旗を畳む。丁寧に。
誰も声を出さなかった。
遠くの呉軍陣地で、太鼓が一度鳴った。合図。停戦の開始。
三十八時間のうち、残りは三時間だった。
【重要歴史改変】
関羽
軍旗降下 実行
荊州軍事行動 終了
呉軍追撃 停止
帰還経路 三十八時間開放
関羽生還予測 74% → 89%
新規特性
【旗より人を選ぶ】
八十九パーセント。まだ百では、ない。魏軍は協定へ参加していない。徐晃の部隊が北から近づいている。
◆
関羽軍は、麦城を出た。
旗は掲げない。小さく畳み、関平が持つ。先頭は趙雲。山道を確認しながら進む。中央に負傷者。後方に関羽と周倉。
呉軍は、遠くから見ている。追わない。
呂蒙は約束を守った。
しかし、呉の若い武将の一人が、命令を無視した。
「関羽を討てば、大功だ!」
騎兵二百を率い、関羽軍へ近づく。呉軍陣地から制止の鐘。止まらない。
趙雲が馬を返す。
「殿下との約束がある」
槍を構える。
「ここから先へは、通さぬ」
呉騎兵と趙雲隊が衝突する。長い戦にはならなかった。趙雲は敵将の武器を弾き、馬から落とした。
殺さない。呉の追撃部隊を押し返す。
十二年前、この人は敵を殺しながら戻ってきた。そして今日は、殺さずに止めた。【助けを求めることを命じられた者】という状態が生えて、十一年である。その隣に、もう一つ、生えかけている。
その直後。呂蒙の本隊が現れた。
「命令違反者を捕らえよ!」
呉軍が自軍の騎兵を拘束する。
呂蒙は、離れた場所から関羽へ礼をした。関羽も馬上で礼を返した。言葉はない。敵である。土地を奪った者と、奪われた者。それでも、決めた約束は守る。
制度は、味方の中だけでは完成しない。敵が守って、初めて動く。十二年、俺は自国の中しか見ていなかった。
◆
関羽軍は西へ進んだ。一刻。二刻。三刻。呉軍の追撃はない。
士仁の部隊と合流。次に糜芳の輸送隊。船。食料。医官。負傷者を乗せる。
関羽は糜芳を見た。糜芳の身体が硬くなる。
「子方」
「はっ」
「南郡を捨てたか」
「はい」
糜芳の声が震える。
「民と物資を移し、呉軍との戦闘を避けました」
「私の命令を待たずに」
「緊急撤退権限に従いました」
関羽は長く糜芳を見る。以前なら、軍法違反として怒ったかもしれない。今は、自分も軍旗を下ろした後だった。
「正しい」
糜芳が顔を上げる。関羽は続けた。
「私より早く、退くべき時を知った」
それは謝罪では、ない。だが、関羽が糜芳の判断を認めた。
関羽から糜芳への信頼 12 → 31
糜芳から関羽への恐怖 83 → 57
完全な修復には、遠い。それでも、ゼロではない。
旗を降ろした人にしか、言えない一行だった。そして、旗を降ろす条件を出したのは、敵である。
関羽軍は川を渡った。最後の船へ、関羽、関平、周倉、趙雲が乗る。対岸に着く。
三十八時間の期限まで。残り一刻。
全員が渡り切った。
◆
麦城から持ち出した最後の報告書を、関羽が俺へ送った。
表紙。
《荊州、異常あり》
その下に。
《されど、兵はまだ立っている》
俺は、その文字を見たまま泣いた。
軍神は旗を降ろした。だが。兵も。息子も。本人も。
生きて帰ってきた。
十二年前、俺は「異常なしと書くな」と言った。そして、いちばん最後の一枚に、この人は自分で二行目を足した。
書式にない行である。
〈あとがき〉
「父上がいなくなれば、私が困ります」——一年前に主人公が言った「いなくなってほしくないのです」の、二度目です。そして今度は、息子の言葉でした。
旗は地面へ落とさず、自分の腕で受け止めて畳みます。呂蒙は約束を守り、命令違反の自軍騎兵を拘束します。
「制度は、味方の中だけでは完成しない。敵が守って、初めて動く」。
そして最後の報告書。《荊州、異常あり》《されど、兵はまだ立っている》——書式にない二行目です。
《劉禅文庫 再読『ポジショニング戦略』——名前は、相手の頭の中にある。だから、こちらが曇らせることはできても、こちらで支えることもできない》
次回、第71話「関羽、生還」。




