第6話 CEO、赤子を投げるな
身体が、宙に浮いた。
時間が止まったように感じた。
俺は一歳児である。受け身は取れない。空中で身体をひねることもできない。そもそも首と腰の筋力が、緊急事態に対応できる水準に達していない。
◆
視界の中央では、赤い警告が点滅していた。
【緊急警告】
対象 劉禅
危険内容 父親による投擲
推奨対応 着地点の選択はできません。
——役に立たない。
分かっている。もっと実用的な助言を出せ。
俺の身体が、劉備の腕から離れた。
その瞬間、白い影が動いた。
「主公!」
趙雲が地を蹴った。
傷だらけの身体とは思えない速さだった。伸ばされた両腕が、落下する俺を受け止める。そのまま胸元へ抱き込み、片膝をついて、身体を丸めた。
衝撃は、ほとんどなかった。
俺は無事だった。
……
そして、泣いていた。
自分の意思ではない。
宙に放り出された瞬間、身体が勝手に叫んでいた。
——生後一年である。
落下に対して、赤ん坊は反射で泣く。
そういう仕組みらしい。
……
情けない。
三十八年生きた男が、投げられて泣いている。
そして、止められない。
趙雲も倒れてはいない。
だが、先ほど矢を受けた肩から、再び血が流れ始めていた。
「子龍!」
甘夫人が悲鳴を上げた。
「傷が開いております!」
趙雲は苦しそうに息を吐いた。
それでも、俺を抱いた腕は緩めなかった。
「ご心配には及びません」
及ぶ。
明らかに、及ぶ。
出血量 増加
残存体力 7%
——父上。
あなたは何をしている。
趙雲が命懸けで助けた赤子を投げ、その趙雲にもう一度救わせたのである。
救出作戦を、一日に二度発生させるな。
◆
劉備は、呆然と立ち尽くしていた。
自分が何をしたのか、今になって理解したらしい。
周囲の武将も兵士も、言葉を失っている。
最初に口を開いたのは、張飛だった。
「兄者」
低い声だった。
「今、阿斗を投げたか」
劉備が視線を泳がせる。
「いや、その……」
「投げたな?」
「子龍の忠義に、感じ入って……」
「なぜ感じ入ると、息子を投げるのだ!」
——正論である。
張飛から正論が出た。
この軍の混乱は、俺が思っていたより深刻らしい。
劉備は慌てて説明した。
「この子一人のために、我が大将を失うところであった。だから私は、子龍のほうが大切だと——」
「ならば口で言えばよいでしょう!」
甘夫人の声が響いた。
周囲が静まり返った。
普段は穏やかなこの人が、本気で怒っている。
劉備の肩が、目に見えて小さくなった。
魅力百の英雄が、妻の前では完全に敗北していた。
「……申し訳ない」
「阿斗に謝ってください」
「まだ言葉も分からぬ」
分かる。
非常によく分かっている。
「阿斗」
劉備が、趙雲の腕の中にいる俺へ顔を近づけた。
「すまなかった」
——謝罪が軽い。
企業であれば、この時点で再発防止策の提出が必要である。
俺は劉備を睨んだ。
【劉備】
乳幼児安全意識 4
——四。
財務管理三十一より低い。
改善すべき項目が、また一つ増えた。
俺は手を伸ばし、劉備の鼻を掴んだ。
「痛い、痛い」
親愛度が下がったかと思った。
だが表示は、こうだった。
劉備から劉禅への親愛度 35 → 41
——なぜ上がる。
どうしてこの一族は、攻撃されると親愛度が上がるのだ。
張飛の髭を引けば喜び、劉備の鼻を掴んでも喜ぶ。
桃園の三兄弟には、正常な愛情表現が存在しないらしい。
「ほら。阿斗も許してくれた」
許していない。
鼻を掴んだのは、抗議である。
◆
趙雲が、静かに言った。
「主公。若君を地面へ置くのは、今後お控えください」
「うむ」
「投げることも」
「うむ」
「高く掲げることも」
劉備は、少し考えた。
「高く掲げるのも駄目か?」
「落とす可能性があります」
「では、翼徳も駄目だな」
張飛が反発した。
「俺は落としたことなどないぞ!」
「先ほど高く持ち上げて、阿斗を泣かせたではないか」
「あれは喜んで泣いたのだ!」
違う。
恐怖で泣いた。
俺は趙雲の胸元へ顔を埋めた。
この中で唯一、信頼できる人物である。
◆
しかし、その趙雲の身体が、大きく揺れた。
膝から力が抜ける。
「子龍!」
劉備と張飛が同時に支えた。
趙雲は、それでも俺を手放さなかった。
「若君を……」
「もうよい!」
劉備が叫んだ。
「阿斗は私が抱く!」
俺は反射的に趙雲の袍へしがみついた。
——嫌だ。
この男へ渡してはならない。
直前に投げられたばかりである。
「阿斗」
劉備が困った顔をした。
「父だぞ」
だから不安なのだ。
張飛が大笑いした。
「兄者、嫌われたな!」
「お前が言うな!」
甘夫人が俺を受け取った。
今度は抵抗しなかった。母の腕は、安全である。
◆
趙雲は兵に支えられ、治療のために運ばれていった。
俺は遠ざかる背中を見つめた。
その頭上に、赤い警告が表示され続けている。
【趙雲】
生命危険度 黄
必要対応 止血/休養/栄養/安静
阻害要因 本人が任務復帰を希望
——最後の項目が、一番危険である。
この男は必ず「問題ありません」と言って起き上がる。
諸葛亮の過労死を防ぐ前に、趙雲の働きすぎを止めなければならないかもしれない。
◆
劉備が兵へ命じた。
「子龍を最優先で治療せよ。必要な薬はすべて使え」
兵が一瞬、ためらった。
「しかし、薬は残り少なく……」
「構わぬ」
「負傷兵も、多くおります」
劉備の顔が曇った。
——趙雲を救いたい。
しかし、他の兵も救わなければならない。
薬は有限である。
医薬品在庫 推定二十七人分
治療を要する負傷者 百三十四人
圧倒的に足りない。
これが戦争である。
誰を救うか、決めなければならない。
趙雲は重要人物だ。将来、蜀を支える。だから最優先で治療する。
経営判断としては、正しい。
だが、名も知らない兵士たちにも家族がいる。
俺の中に、長坂坡で見た死体の姿が蘇った。走っていた姿勢のまま、前へ倒れた男。膝が地面に当たる音。
劉備は、長く迷った。
やがて言った。
「子龍には、必要最低限を使え。重傷者から順に治療する」
——合理性だけではない。
趙雲だけを特別扱いすれば、本人も望まないだろう。
劉備は医官の肩を叩いた。
「助けられる者を、一人でも多く助けてくれ」
「はっ」
父の能力画面が、一瞬だけ揺らいだ。
政務 68 → 69
——能力は、固定ではない。
決断によって、変化する。
俺がそれを理解した瞬間だった。
人材を数字で見られるとしても、人間は数字どおりにしか生きられないわけではない。
成長する。間違える。反省する。変わる。
◆
——そして、俺は視界の隅で、一つの数字を見ていた。
```
【趙雲】
右肩 裂傷(再開)
治癒見込み 三月
その間、右腕の挙上 不可
```
三月である。
……
——この人は、それを言わない。
そして、三月後、何事もなかったように槍を振る。
……
俺は、その数字を、覚えておくことにした。
——十五年後、俺はこれを、父の前で言うことになる。
そして、このときの俺は、まだ知らない。
◆
劉備は俺を見て、申し訳なさそうに笑った。
「もう投げぬ」
——信じてよいのだろうか。
約束管理 22
やはり、全面的には信用できない。
俺は母の腕の中で、大きく息を吸った。
血と、薬草と、焦げた土の匂いがした。
この組織に必要なのは、英雄ではない。
安全管理規程である。
蜀漢最初の組織改革は、赤子を投げないことから始まった。
次回 第7話「趙雲だけは絶対に手放さない」




