第5話 英雄への投資
趙雲は、想像していた英雄の姿とは違っていた。
もっと余裕があると思っていた。
敵兵を次々に斬り伏せ、傷一つ負わず、白馬で戦場を駆け抜ける。
そんな演義の絵を、俺は勝手に思い描いていた。
◆
実際の趙雲は、限界寸前だった。
白い袍は、血と泥で色が分からない。左肩の鎧が割れ、その隙間から布が覗いている。呼吸は荒く、口の端に泡が付いていた。
馬もだ。首筋が汗で黒く光り、鼻から白い息を絶え間なく噴いている。
それでも趙雲は、俺たちを見つけると、真っ直ぐに駆けてきた。
途中で、曹操軍の騎兵が立ちはだかった。
敵が槍を突き出す。趙雲は上体を反らして避け、すれ違いざま、槍の石突きで相手の顎を打った。乾いた音がして、敵が落馬する。
もう一人が斬りかかる。趙雲は馬上で身を沈め、剣を抜いた。
金属音。火花。
敵の剣が、宙を舞う。
趙雲は止まらない。
——二人を倒したのではない。
最小限の動きで進路を作り、俺たちのもとへ来ている。
目的は、戦うことではない。
救うことだ。
合理的で、そして美しかった。
◆
趙雲は俺たちの前で馬を止め、飛び降りた。
着地の瞬間、右膝が少し落ちた。それを気取られまいとするように、そのまま片膝をつく。
「甘夫人」
荒い呼吸を整えようとしながら、頭を下げた。
「趙子龍、お迎えに参りました」
甘夫人の目から、涙が溢れた。
「子龍どの……」
「遅くなり、申し訳ございません」
——遅くない。
間に合った。
俺の視界には、この男の中身が出ている。
身体疲労 96
精神疲労 81
出血 中等度
残存体力 18%
救出意思 100
残存体力、十八パーセント。
それでも来た。
この人は、何人の敵を突破してきたのだ。
何度、引き返す理由があったのだ。
主君である劉備を探すべきだった。味方の部隊へ合流すべきだった。単騎で敵陣へ戻るなど、どの指標で測っても合理的ではない。
それでも趙雲は来た。
俺には能力値が見える。行動傾向も見える。
だが——この男が命を懸ける理由だけは、どこにも表示されなかった。
◆
趙雲が、甘夫人の足を見た。
「お怪我を」
「私は大丈夫です。それより、阿斗を」
甘夫人が俺を差し出そうとする。
趙雲は首を振った。
「お二人ともお連れいたします」
「しかし、その傷では」
「問題ございません」
明らかに問題がある。
「しりゅ」
俺は名を呼んだ。
それだけで、母と趙雲が同時にこちらを見た。
言いたいことは、山ほどあった。
——残存体力十八パーセントで三人は運べない。優先順位をつけるなら、後継者である俺を選ぶのが正しい。経営判断としては、それが正解だ。
だが俺は、その結論を認めたくなかった。
一語しか出ない。
なら、動作で伝えるしかない。
俺は手を伸ばし、趙雲の袍を掴んだ。
血で濡れていて、生温かかった。
そして、母のほうを向いた。指で母を指した。
「かか」
もう一度、趙雲を指した。
「しりゅ」
最後に、自分の胸を叩いた。
それだけだ。
それしか言えない。一歳の口には、それが限界だった。
だが趙雲は、しばらく俺を見つめてから、静かに言った。
「……三人で、でございますな」
——伝わった。
俺は何度も頷いた。
首の据わりが悪くて、頷きすぎて後ろへ倒れそうになった。趙雲の手が支えた。
「若君」
「な」
俺は言った。一音だけ。
「な」
——死ぬな、と言いたかった。
母が息を呑む。
趙雲の表情が変わった。
疲労も傷も消えてはいない。
それでも、瞳の奥に、強い光が戻った。
「ご安心ください」
剣を握り直す。
「趙子龍がいる限り、お二人には指一本、触れさせません」
趙雲から劉禅への信頼度 18 → 42
新規関係 保護対象
固有状態【命を預かった者】
◆
趙雲は甘夫人を馬へ乗せ、俺を自分の胸元へ固定した。
革帯を一本抜いて、それで俺の身体を自分の胴へ縛りつけたのだ。
「少々、揺れます」
少々では済まないだろう。
馬が走り出す。
すぐに敵兵が現れた。一人。二人。五人。道を塞ぐ。
趙雲は止まらない。
最初の敵の槍を払い、すれ違いざまに肩を貫く。二人目の剣を柄で受け、馬の首を膝で押して方向を変える。三人目が背後から追う。趙雲は振り返りもせず、槍の石突きを後方へ突き出した。
手応えの音だけが聞こえた。
俺は趙雲の胸元で揺られながら、その戦いを見ていた。
武力九十七。統率九十三。危機管理百。
——数字は正しい。
だが、数字だけでは、何一つ表せていない。
傷ついた腕。荒い息。俺を庇う身体の角度。母が落ちないよう、加速を抑える判断。敵を倒すことより、退路を選ぶ知性。
この人の価値を、百という数字に閉じ込めることはできない。
◆
前方に、十騎以上が現れた。
趙雲の馬が止まる。
左右は狭い。正面突破しかない。
残存体力 11%
突破成功確率 23%
——低い。
趙雲は、表示を見られない。
自分がどれほど危険な状態にあるか、数値では知らない。
だが身体では分かっているはずだ。
槍を握る手が、細かく震えている。
趙雲が、胸元の俺を見た。
一瞬だけ、笑った。
「若君。少々、揺れます」
——二回目である。
この男、緊張すると同じ台詞を言うらしい。
覚えておこう。人事評価の参考にする。
俺は趙雲の袍を掴んだ。
「な」
趙雲の目が見開かれた。
「な」
三度目に言ったとき、この男は前を向いた。
「承知いたしました」
槍を構える。
「必ず、生きてお連れいたします」
◆
白馬が走り出す。
敵兵が一斉に槍を構える。
趙雲は真正面から突入した。
最初の一人を弾く。二人目の攻撃を鎧で受けた。血が飛び、俺の頬にかかった。熱かった。
それでも止まらない。
三人目の馬に自分の馬をぶつけ、進路をこじ開ける。
剣。槍。怒号。馬の悲鳴。
趙雲の身体が何度も揺れる。そのたびに、俺を縛る革帯が食い込んだ。
甘夫人が俺を守り、趙雲が甘夫人を守る。
白馬が、包囲を抜けた。
背後から矢が飛ぶ。
一本が、趙雲の肩に刺さった。
趙雲は、声を上げなかった。
ただ、走り続けた。
敵の声が、遠ざかっていく。
突破成功
救出対象
劉禅 生存
甘夫人 生存
趙雲 生存
歴史変動率 0.3%
生きている。
全員、生きている。
俺は声を上げて泣いた。
今度は、我慢しなかった。
趙雲の袍を掴んで、子供のように泣いた。
実際、子供なのだ。
前世の記憶があっても。MBAを持っていても。未来を知っていても。
今の俺は、この男に命を救われた、一人の子供だった。
◆
やがて、劉備軍の旗が見えた。
兵たちが駆け寄ってくる。
「子龍将軍だ!」
「若君もおられるぞ!」
「甘夫人もご無事だ!」
歓声が上がる。
趙雲は馬を止めると、ほとんど崩れるように地面へ降りた。
それでも俺を落とさなかった。
革帯を解くまで、最後まで両腕で抱えていた。
劉備が走ってきた。
「阿斗!」
父の顔には、見たことのないほどの安堵が浮かんでいた。
趙雲が片膝をつく。
「主公。若君と甘夫人を、お連れいたしました」
劉備は趙雲の肩を抱いた。
「子龍……。よく戻った」
「はっ」
「お前を、失ったかと思うた」
趙雲は答えず、微笑んだ。
◆
俺は劉備の腕へ渡された。
その瞬間、視界に表示が現れた。
【長坂坡イベントを完了しました】
獲得人材 趙雲
劉禅との関係 命を預け合った者
国家再建への貢献予測 測定不能
——獲得人材。
違う。
趙雲は、俺が獲得した人材ではない。
俺が、趙雲に救われたのだ。
この力は、人の価値を見抜くためのものかもしれない。適切な役割へ配置するためのものかもしれない。
だが、人は駒ではない。能力値を見て手に入れる商品でもない。
信頼は、採用通知一枚で得られるものではない。
命を預け、約束を守り、ともに生き残ることでしか生まれない。
俺は、傷だらけの趙雲を見た。
関羽は死ぬ。張飛も死ぬ。法正も死ぬ。父も死ぬ。諸葛亮も死ぬ。
趙雲も、いつかは死ぬ。
人である以上、それを永遠に止めることはできない。
それでも。
本来より長く生きてもらうことはできる。
孤立を防ぐことはできる。
無駄な死を減らすことはできる。
彼らの知識と意志を、次の世代へ残すことはできる。
英雄を不死にするのではない。
英雄がいなくても、英雄たちの志が残る国を作る。
俺は決めた。
この人たちを、単なる歴史上の登場人物にはしない。
俺の仲間として、生きてもらう。
俺が、歴史を変える。
◆
——そのとき、劉備が俺を高く掲げた。
そして、趙雲を見ながら言った。
「この子一人のために、危うく我が大将を失うところであった」
……待て。
その台詞。
まさか。
劉備の腕が動いた。
俺の身体が、宙に浮いた。
緊急警告
対象 劉禅
危険内容 父親による投擲
推奨対応 受け身は不可能です。
「おぎゃあああああああ!」
俺は確信した。
蜀漢最大の経営リスクは、曹操でも孫権でもない。
魅力百、財務三十一、乳幼児安全意識ゼロの創業者CEO。
俺の父、劉備玄徳である。
次回 第6話「CEO、赤子を投げるな」
次回 第6話「CEO、赤子を投げるな」




