第4話 長坂坡という最悪の事業環境
歴史は、教科書のようには進まなかった。
日付を告げる字幕は出ない。敵が来る前に警告音が鳴るわけでもない。
ただ、じわじわと、日常が変質していった。
◆
ある日、兵士たちの足音が増えた。
次の日、城の外へ向かう荷車が増えた。
その翌日、侍女たちが小声で曹操の名を口にするようになった。
俺は乳母の腕の中で、それを数えていた。
前世の企業でも同じだった。倒産する会社は、ある日突然倒れるわけではない。まず備品の発注が止まる。次に会議が減る。そして、辞める人間が同じ日に三人出る。
——この城は、もう終わりの準備をしている。
そして朝が来た。
劉備が、全軍へ撤退を命じた。
◆
曹操軍が南下している。
劉表は既に死んだ。後を継いだ劉琮は、戦わずに曹操へ降伏した。
劉備軍は新野を捨て、南へ逃げる。
歴史が、動き始めた。
俺は一歳になっていた。歩くことはできたが、戦場を逃げられるほどではない。甘夫人に抱かれ、劉備軍とともに移動した。
周囲には、数え切れない民衆がいた。
老人。女。子供。農具を担ぐ男。家財を積んだ荷車。泣きながら歩く子供。
劉備を慕い、曹操の支配を恐れ、ともに逃げようとする人々である。
——十万を超えている。
軍隊だけなら、一日五十里は進める。
しかしこの列は、一日十里も進まない。
前世の俺なら、即座に判断していただろう。
危機的状況では、組織の中核機能を優先して退避させるべきである。全員を救おうとすれば、全員が死ぬ。
これは冷酷なのではない。トリアージという。
だが、道端で泣いている子供を抱き上げる劉備を見ていると、単純には否定できなかった。
この人が民を見捨てれば、劉備ではなくなる。
魅力百は、合理性を犠牲にして生まれている。
長所と欠点は、同じ根から伸びている。
「阿斗、大丈夫ですよ」
甘夫人が言った。
——三回目。
俺は母の首にしがみついた。
大丈夫では、ない。
曹操軍は、想像より速く追いつく。
当陽。長坂坡。
劉備軍は壊滅する。
俺と母は本隊から離れ、趙雲が救出に来る。
史実では、そうなる。
◆
だが——本当に、史実どおりになるのか。
俺は既に、前世には存在しなかった行動を取っている。
人物を観察した。母に未来年表を見られた。趙雲の指を掴んだ。張飛の髭を引っ張った。糜竺に帳簿をつけさせた。
小さな変化だ。
だが、一枚の羽が嵐を起こすこともある。
俺がこの世界に存在するだけで、趙雲の行動が変わるかもしれない。
歴史では、助かる。
しかしその歴史を、俺自身が変え始めている。
ならば——趙雲が来ない世界も、あり得る。
◆
夕刻。
背後から、地鳴りが聞こえた。
最初は雷かと思った。
違う。
馬蹄だった。
「曹軍だ!」
誰かが叫んだ。
列が、崩れた。
荷車が横転し、積んでいた麦が土の上へこぼれる。馬が暴れる。民が押し合う。兵士の怒鳴り声。子供の泣き声。母親の叫び。
土煙が上がった。
遠くで、火の手が見えた。
——俺が本で読んだ長坂坡には、匂いがなかった。
頁の上には、文字しか載っていない。
実際の長坂坡には、匂いがあった。
汗。土。焦げた藁。糞尿。そして、日に温められた血が発する、甘ったるい鉄の匂い。
口の中にも味がした。逃げる誰かが蹴り上げた砂が、俺の口に入ったのだ。乾いていて、鉄の味がした。
血の混じった土は、こういう味がするらしい。
俺はその全部を、生まれて一年しか経っていない鼻と舌で、味わっていた。
◆
誰かが倒れた。
その上を、別の誰かが踏んでいった。
助け起こす余裕はない。
振り返った兵士の顔に、矢が刺さった。
俺は息を呑んだ。
——死んだ。
本当に、死んだ。
名前も知らない男が、一瞬で動かなくなった。走っていた姿勢のまま、前へ倒れる。膝が地面に当たる音がした。
ゲームなら、兵数が一減るだけである。画面の隅の数字が変わるだけだ。
だが現実では、一人の人間が倒れる。
家族がいるかもしれない。帰りを待つ子供がいるかもしれない。
能力値を見る間もなく、命が消える。
視界の隅に、無数の赤い文字が明滅していた。
死亡危険度 赤
死亡危険度 赤
死亡危険度 赤
死亡危険度 赤
一人ひとりの頭上に表示される。
数が多すぎて、文字が重なり、視界を覆っていく。
「消えろ」
俺は叫んだ。
一歳の喉から出たのは、意味を持たない金切り声だけだった。
表示は消えなかった。
未来を知っている。能力値が見える。
だが、目の前の人間を、一人も救えない。
——何のための力だ。
「阿斗!」
甘夫人が、俺の頭を胸へ押し付けた。
見せまいとしたのだろう。
だが、俺には見えていた。
◆
群衆の波に押されて、甘夫人が転んだ。
俺を庇うように、地面へ膝をつく。麻の衣が土を吸って、みるみる重くなっていく。
周囲の人々が走り去っていく。
劉備の旗は、どこにもない。趙雲もいない。侍女も乳母も、いつの間にか流れの中へ消えていた。
母と俺だけが、戦場に取り残された。
甘夫人が立ち上がろうとする。
だが、顔が歪んだ。
足を痛めたらしい。
俺の視界に、表示が現れた。
【甘夫人】
身体状態 右足関節損傷
疲労 92
恐怖 87
劉禅保護意思 100
死亡危険度 赤
——やめてくれ。
数値にするな。
この人は、母だ。
保護意思百などと表示しなくても、俺を抱く腕の力で分かる。
「阿斗、大丈夫です」
——四回目。
甘夫人は震えていた。
大丈夫なはずがない。
それでも俺を安心させようとしている。
「かか」
俺は呼んだ。
それが今の俺に出せる、精一杯の音だった。
甘夫人が、驚いた顔をした。
俺が母を呼んだのは、これが初めてだったのだ。
「阿斗……」
その目に、涙ではないものが浮かんだ。
喜びだった。
この状況で、この人は喜んだ。
◆
遠くに、曹操軍の騎兵が見えた。
馬上の兵が、逃げる者を追っている。
逃げる者を、ではない。逃げ遅れた者を、である。
俺は周囲を見回した。
武器はない。隠れる場所もない。
冷静になれ。
前世で何度も危機対応をしてきた。最悪の状況では、まず利用可能な資源を確認する。
人員——甘夫人一名、負傷。劉禅一名、一歳、戦闘能力ゼロ。
設備——なし。
地形——開けた道。遮蔽物なし。
敵——騎兵、複数。
結論。
詰みである。
「阿斗」
母の声は、不思議なほど静かだった。
「もし母が動けなくなったら、草の中に隠れなさい」
——嫌だ。
「泣いてはいけません。誰かが来るまで、声を出さずに」
——嫌だ。
「かか」
「大丈夫です」
五回目。
嘘だ。
あなたの表示は、ずっと赤い。
俺は母の衣を掴んだ。
麻の目が粗くて、指が痛かった。
それでも離さなかった。
せめて最後まで、離さない。
◆
曹操軍の騎兵が、こちらに気付いた。
一騎が、進路を変える。
俺たちへ向かってくる。
槍が見える。
——終わる。
歴史上の劉禅は、ここを生き延びた。
だが俺は違う。
転生したことで、歴史が変わったのだ。
趙雲は、来ない。
そのときだった。
◆
別の馬蹄が聞こえた。
一騎。
曹操軍とは逆の方向から、土煙を上げて近づいてくる。
白い馬。
銀の鎧。
槍。
全身に血を浴びた、若い武将。
誰かが叫んだ。
「趙子龍だ!」
俺の視界に、一つの名が灯った。
【趙雲 字・子龍】
救出対象を確認しました。
固有特性【単騎救出】発動
全能力上昇
——来た。
本当に、来た。
俺は気付けば、泣いていた。
恐怖からではない。安堵からでもない。
教科書の中にいた英雄が、俺たちを救うために、傷だらけで走ってきた。
その事実が、たまらなく嬉しかった。
次回 第5話「英雄への投資」
次回 第5話「英雄への投資」




