第3話 この国は五十五年後に潰れる
一歳になる頃、俺はようやく言葉を発せるようになった。
ただし、一度に一語しか出ない。
これが想像を絶するほど不便だった。
◆
前世の俺は、四十人の前で三時間のプレゼンをしたことがある。英語と中国語で、資料なしで質疑応答をこなしたこともある。
その俺が、今は一語である。
しかも、知性を隠す必要があった。
一歳児が突然、
「荊州の地政学的価値を考慮すれば、孫権との長期的アライアンス契約が不可欠です」
などと言えば、神童として喜ばれる前に、妖怪として祓われる可能性がある。
そこで俺は、発する語を慎重に選んだ。
最初の言葉は「かか」。
二番目は「とと」。
三番目は「しりゅ」。
趙雲がこれを聞いた瞬間、あの冷静な男が、槍を取り落とした。
拾いながら、耳が赤くなっていた。
問題は四番目だった。
◆
張飛が、自分の名前が入っていないと知って、本気で落ち込んだのである。
大の男が、酒も飲まずに一日中、庭の隅で膝を抱えていた。
見かねた関羽が俺のところへ来て、真顔でこう言った。
「若君。翼徳の名を、呼んでやってはくださらぬか」
——なぜ俺が譲歩する側なのだ。
仕方なく、四番目に「よくとく」と発した。
正確には「よくと」までしか言えなかった。
張飛は三日間、会う者すべてに自慢して回った。
「阿斗は俺の名を呼んだ!」
順番が四番目だったことは、黙っておいた。
◆
問題は、五番目だった。
俺は、そろそろ本題に入りたかった。
この組織に決定的に欠けているもの。それは帳簿である。
誰がいくら使い、何がどれだけ残っているのか、誰も正確に把握していない。父の財務管理三十一の根本原因はそこにある。
俺は劉備の膝の上で、渾身の一語を放った。
「ちょ」
劉備の動きが止まった。
「……いま、何と申した」
「ちょ」
「ちょ」
劉備が繰り返す。
そして、恐る恐る言った。
「……帳、と申したか」
俺は必死に頷いた。
そうだ。帳簿だ。複式でなくていい。単式でいい。せめて入りと出を分けて書け。
劉備は、俺を抱いたまま立ち上がった。
「糜竺!」
慌てて駆けつけてきた財務担当へ、劉備は震える声で告げた。
「阿斗が、帳と申した」
糜竺の顔が、みるみる青ざめた。
「……なんと」
「一歳で、帳と」
「これは……天佑にございます」
違う。
天佑ではない。業務改善要求である。
その日から、糜竺は毎日俺のところへ来るようになった。
そして、竹簡を広げて言うのである。
「阿斗さま。本日の出納にございます」
——通った。
まさか一語で決裁ルートが開通するとは思わなかった。
この国の意思決定は、俺が思っていたよりずっと雑である。
◆
俺は、木簡と筆を手に入れるようになった。
もちろん、一歳児が漢字を書けるのは不自然すぎる。
そこで最初は丸と線だけを描き、少しずつ文字らしい形へ近づけていった。
誰もいない夜。
灯火の油が焦げる匂いのなか、俺は木簡に年表を作った。
二〇八年。長坂坡。赤壁の戦い。
二一一年。父、益州へ入る。
二一四年。成都攻略。
二一九年。関羽、荊州を失い敗死。
二二〇年。法正、死去。
二二一年。張飛、部下に暗殺される。父、皇帝に即位。夷陵へ出兵。
二二二年。夷陵で大敗。
二二三年。父、白帝城で死去。俺、皇帝に即位。
二三四年。諸葛亮、五丈原で死去。
二六三年。蜀漢滅亡。
筆を置いて、俺は最後の行を見つめた。
二六三年。
今から、五十五年後。
俺は五十六歳で、この国を終わらせる。
長いようで、国家経営の時間としては短い。しかも、本当の危機はもっと早く始まる。
関羽の死まで、あと十一年。
法正の死まで、十二年。
張飛の死まで、十三年。
父の死まで、十五年。
諸葛亮の死まで、二十六年。
英雄たちは、次々に消えていく。
そして、残された若い人材は育たない。
◆
魏の国力が圧倒的だったことも事実である。
だが、それだけではない。
蜀は、戦争に負けて滅んだのではない。
劉備という創業者に依存した。関羽・張飛という武力に依存した。諸葛亮という万能の執行責任者に依存した。
そして彼らが死んだあと、代わる者がいなかった。
いや、正確には——人がいなかったのではない。
育てていなかった。
役割を分けていなかった。情報を共有していなかった。自分以外の者へ、意思決定を任せていなかった。
——前世の俺と、同じだ。
俺は筆を止めた。
胸が痛んだ。
死んだ夜のことを思い出す。
《特定の個人に依存しない、持続可能な経営体制を構築する》
そう書きながら、俺は全部の仕事を抱えて死んだ。
諸葛亮を批判する資格など、俺にはない。
俺も、同じ種類の人間だった。
◆
「阿斗?」
背後から声がした。
振り返ると、甘夫人が立っていた。
俺は慌てて木簡を伏せた。
「何をしているのです」
「え」
一歳児として、最も自然な回答である。
甘夫人は隣に座り、木簡へ手を伸ばした。
——まずい。
死亡年表を見られる。
しかし幸い、俺が書いた文字は一歳児の握力で形が崩れており、大人には意味が読み取れないようだった。
母は微笑んだ。
「たくさん、線を引きましたね」
「う」
「これは、何です?」
二一九年の横に描いた丸を、母が指した。
——関羽の死。
「おじ」
「雲長さまですか」
「う」
「こちらは?」
二二一年。張飛の死。
「よく」
「翼徳さま」
母は笑った。だが俺は笑えなかった。
指が、次の年へ動いてしまったからだ。
二二三年。
父の死。
俺は答えられなかった。
甘夫人が、俺の顔を覗き込む。
「……父上ですか?」
「……う」
そして最後。二三四年。
諸葛亮の死。
まだ会っていない男。だが、俺が最も救いたい人物だった。
「これは?」
「せんせ」
甘夫人は不思議そうな顔をした。
「阿斗には、まだ先生はおりませんよ」
「くる」
「これから、来るのですか」
「う」
母は声を上げて笑った。
「阿斗には、何でも分かるのですね」
——違う。
分かっているのではない。
知っているだけだ。
何が起こるかは知っている。
だが、止められるかどうかは、分からない。
◆
甘夫人が俺を抱き寄せた。
麻の衣に、乾いた草の匂いが染みている。
「大丈夫です」
——二回目だ。
俺は数えている。
なぜそう言ったのかは分からない。俺が不安そうな顔をしていたのかもしれない。
「父上も、雲長さまも、翼徳さまも、子龍さまもおります」
母は、何も知らずに言った。
「皆が、阿斗を守ってくださいます」
俺は母の胸元へ顔を埋めた。
——違うんだ、母上。
守られるだけでは駄目なのだ。
俺が、彼らを守らなければならない。
未来では、全員いなくなる。そして最後に残った俺が、国を滅ぼす。
そんな未来を、認めるわけにはいかない。
◆
母が寝入ったあと、俺は木簡の裏へ、新しい文字を刻んだ。
《蜀漢再建計画》
目標は三つ。
一。関羽を孤立させない。
二。諸葛亮一人へ仕事を集中させない。
三。英雄がいなくても動く国家を作る。
そのために必要なのが、人材である。
有名な武将だけでは足りない。
王平。蔣琬。費禕。董允。馬忠。羅憲。
歴史の表舞台では目立たないが、国家を支えた人々。
さらに、史書に名を残さなかった技術者、商人、書記、医師、通訳。
俺の目には、彼らの能力が見える。
身分や評判に惑わされず、尖った才能を見つけられる。
ならば、未来は変えられる。
俺は木簡の最後に書いた。
《五十五年後も、蜀を残す》
文字は歪んでいた。
だが、決意は揺らがなかった。
◆
その夜。
眠りに落ちようとした俺の視界に、突然、新しい画面が展開した。
【国家経営目標が設定されました】
対象国家 未成立
暫定名称 蜀漢
最終目標 西暦二六三年の国家滅亡を回避する
達成条件 不明
失敗条件
主人公の死亡
国家の消滅
後継組織の断絶
最初の重大危機まで
残り――
数字が表示される。
十一年では、なかった。
関羽の死ではない。
残り、三月。
俺は息を呑んだ。
【最初の重大危機】
長坂坡
対象 劉禅/甘夫人/趙雲
予測死亡危険度 赤
——忘れていた。
俺は、劉禅である。
劉禅は、長坂坡で趙雲に救われる。
だが、「救われる」ということは、その前に死ぬ寸前まで追い詰められるということである。
歴史を変える前に、俺自身が歴史どおり生き残らなければならない。
俺は、眠っている母を見た。
甘夫人は、この混乱のなかで消息が曖昧になる。史実と演義では扱いが異なる。少なくとも、安全な未来が保証されているわけではない。
俺は母の衣を握った。
未来を知っているのに、何も伝えられない。
逃げろとも言えない。曹操が来るとも言えない。
俺はこのとき初めて、未来を知ることの恐ろしさを知った。
長坂坡まで、あと三月。
次回 第4話「長坂坡という最悪の事業環境」
次回 第4話「長坂坡という最悪の事業環境」




